第5話 ここにいろ
ドサッ、という音が聞こえた瞬間、身体が勝手に走り出していた。
書斎の前を通る時、その音がした。大きな身体が、何かに倒れ込む音。椅子か。机か。それとも木のテーブルが倒れる音か。昼前の時間。レイス様は、書斎で仕事をしていると聞いていた。私は、彼の昼食の用意を、取りに来ていたのだ。トレイの上に、スープと、パンと、チーズ。彼が最近、好むようになった組み合わせ。
扉を開けた。
レイス様は、床の上にいた。身体が、強ばっている。呼吸をしていない。瞳孔が、大きく開いたままだ。背中が、弧を描いている。痙攣。
「レイス!」
声が出たことさえ、気づかなかった。トレイが、どこかに落ちたはずだ。でも、その音は聞こえなかった。身体が、勝手に動いていた。前世の夜勤。患者が倒れた時。それはもう、何百回と経験した動きだった。気道確保。彼の頭を、そっと傾ける。口の中に、何か詰まっていないか、確認する。舌が、喉を塞いでいないか。身体を、仰向けにする。横向きに寝かせると、嘔吐物が喉に詰まる。それは避けなければならない。
「呼吸して。レイス、私の声が聞こえる?」
彼の名前を呼びながら、私は、強張った身体をチェックしていた。痙攣。意識不明。呼吸停止。瞳孔散大。医療施設では、これを「発作」と呼んでいた。患者が、自分の身体をコントロールできない時間。一秒が、物凄く長い。
でも、この時、私の頭の中には、恐怖がなかった。その代わりに、手順があった。抗痙攣剤は。ここにはない。医者は。呼ばなければ。次は。呼吸。彼が呼吸を再開するまで、私は待つ。その後、側臥位。嘔吐に備える。
「誰か!」
廊下に向かって、叫んだ。
「医者!医者を呼んでください」
足音が、走ってくる音。マルタか。ヨハンか。誰でもいい。
「ヨハン!」
彼は、私の声を聞いて、すぐに来た。走って。白髪が、乱れている。
「何が」
彼は、床に倒れたレイス様を見た。瞳孔は、まだ散大している。痙攣は、少し弱くなった。
「医者を呼べ。今すぐ。そして、玄関で待つんだ。着いたら、すぐに連れてこい」
「わかりました」
彼は、走った。私は、レイス様の手を握った。指が、まだ硬直している。
「医者は、来ている。もう少しだ。呼吸して。ただ呼吸してください」
痙攣が、止まり始めた。それは、良い兆候だ。発作は、通常、数分で自然に止まる。問題は、その間、彼が呼吸できるかどうか。彼の胸が、かすかに動いた。
「そうだ。呼吸している。良い。もう少し」
自分自身に言い聞かせるのか、彼に言っているのか、わからなかった。その腕を、握った。
「耐えろ。もう少しだ。呼吸して。ここにいる。俺がここにいる」
五分。十分。彼の瞳孔が、少しずつ、小さくなり始めた。呼吸が、深くなった。医者が着いた時、彼はすでに、浅い呼吸を始めていた。痙攣も、ほぼ終わっていた。医者は、彼の瞳孔を確認し、脈を取り、深い息をついた。
「よくやられました」
医者は、つぶやいた。「これほど早く、発作が収まるのは、珍しいことです。普通は、抗痙攣剤の投与までに、もっと時間がかかるのに。誰かが側にいたこと。その安心が、彼を救ったのかもしれません」。
医者の手は、年輪で刻まれていた。何十年も、患者の脈を取ってきた手だ。そういう手が、今、レイス様の額に優しく触れた。
「これ以上のことは、私にはできません。あっても時間がかかるだけ。でも、あなたが彼の側にいたことで、彼の身体は、自分で蘇ろうとした。それが奇跡です」。
◇
昼下がり。レイス様は、ベッドで眠ったままだ。医者の言葉通り、呼吸は安定している。脈も、ほぼ正常に戻った。私は、椅子に座って、彼を見ていた。
手が、止まらなかった。ひどく、揺れていた。それは、疲労ではなく、恐怖だった。足の裏が浮いた気がした。前世の医療施設では、発作を何度も見た。でも、毎回、恐怖は来ていた。通常、その恐怖は、患者が目を覚めた後に来た。「大丈夫か?」と、患者が言う。初めて、その時、私の身体は、その緊張から解放された。眼が、閉じられた。足が、支えを探した。ただ、生き残ることが、確認された。
でも、この時は違った。まあ、恐怖は、来るべき時間を待っていた。彼が目を覚ますまで。そして、その後も。
昼間は、長かった。窓から、陽光が差し込む。その光が、動く。あっという間に、昼間は過ぎる。でも、その時間の中で、私は、椅子から動くことができなかった。彼の呼吸を数えた。一分間に、何回か。規則正しいか。浅くないか。彼の肌の色。まだ、ほのかに白いままだ。でも、血色は戻ってきた。彼の手。握ったままの彼の手。温かい。生きている。
「ミーナ」
小さな声だった。彼は、目を開いた。瞳孔は、正常に戻っている。意識がある。焦点が、私に合ってくる。
「ここにいるか」
その問いかけは、確認だった。私が、まだそこにいるか。いなくなっていないか。
「はい。ここにいます」
「そうか」
彼の手が、私の手を握った。こんどは、彼の方が握っている。力は、弱い。でも、確かだ。
「……ここにいろ」
命令ではなく、願いのような言い方だった。
「わかりました」
私は、握り返した。
◇
夜。彼は、また眠った。医者の言葉通り、数時間の眠りだった。目を覚ますと、簡単なスープを飲んで、また眠った。スープは、温かく、塩辛かった。彼は、それを三口飲んで、「もういい」と言った。
私は、椅子に座ったままだ。彼の手を、握ったままだ。時々、彼の手は、握力を失う。眠りの中で、力が抜ける。でも、私が握っていることで、また、彼は少し力を入れ直す。そのやり取りが、何度も何度も繰り返された。
手が、揺れていた。それは、疲労でもなく、恐怖でもなく、何か別のものだった。前世の施設では、毎日、誰かが倒れた。毎日、発作があった。毎日、私は対応した。でも、あの時は、何も感じなかった。ただ、手順をこなしていた。患者の名前も、毎日が区別できなくなっていた。
今、私は、違う。彼が呼吸をしている。そのことだけで、何か、胸の中が痛い。足の裏がぞわぞわする痛さが。
それは、プロとしての対応ではない。もう、施設長の言葉に従うのではなく、彼の「ここにいろ」に従っている。それが、何を意味するのか。
私は、ここにいる。彼の側にいる。その事実だけで、充分だった。その事実だけで、怖かった。




