第4話 お茶の力です
パン粥には、蜂蜜をほんの少しだけ。前世の施設長に教わった、食欲がない人への秘策だ。彼女は蜂蜜にこだわりがあった。高い蜂蜜。安い蜂蜜。外国産。国産。「蜂蜜も、人間の気持ちを読むんだ」と、彼女は真面目に話していた。
新人時代、私はそれを馬鹿にしていた。それはただの甘さだ。栄養価か舌触りかは、不明だが、蜂蜜だけで状態が変わるはずがない。だが、三年いると、わかってきた。蜂蜜の種類で、患者の顔色が変わる。ある老人は栗の蜂蜜だけを食べた。別の患者はアカシアのみ。それは栄養ではなく、心の問題だったのかもしれない。
ここの台所には、濃い色をした瓶が、奥の棚に三つ置いてあった。一つは、前任の奥方が愛用していたものだと、マルタが教えてくれた。
私は、その瓶を下ろして、蓋を開けた。濃い琥珀色。なめてみると、栗の香りが舌に残る。パン粥に、ほんの少し。
◇
朝。レイス様の部屋に、紅茶を運んだ。彼は、まだ寝台の上にいた。窓から、銀色の光が差し込んでいる。
「朝です」
「そうか」
彼は、寝台から身を起こした。その時、右腕が一瞬、震えた。足と同じほどではないが、確かに不安定だ。杖を持つ方の腕が、もう限界に近いのかもしれない。
「昨夜はどうだったか」
「咳が、少し少なかったように思います」
「そうか」
彼は、窓の方に視線をやった。朝日を浴びた庭園が、白く輝いて見える。
「今日の昼食は、何だ」
「申し訳ないですが、まだ決めていません」
「決めろ。何でもいい」
珍しい指示だった。通常、彼は食事の内容には、ほぼ興味を示さない。一週間前は麦のスープでも、ブロッコリーが入っていても、特に反応がなかった。
「かしこまりました」
台所に戻る時、私は蜂蜜の瓶を思い出していた。まあ、彼も人間だ。何か心の変化があるのかもしれない。
◇
昼食の時間。レイス様は、食堂に現れた。通常、彼は書斎で、簡単な食事を済ませている。食堂に出るのは、客人がある時だけだ。だから、最初に、彼が食堂に進むのを見た時、私は思わず首を傾げた。
ヨハン老執事は、私に一言も説明しなかった。ただ、彼は、レイス様に杖を渡すと、食堂の方に軽く手を振った。
「いつもと違う場所で食べたいと、お言葉でした」
その言葉は、私ではなく、自分自身に向けた確認のようだった。
レイス様は、椅子に座った。杖を脇に置く。窓から、冬薔薇が見える。銀色の陽光が、花弁を照らしている。彼は、その方向を見ながら、スプーンを取った。
蒸したパン粥を、白い皿に入れて、テーブルに置いた。
レイス様は、一口、それを口に入れた。動きが、止まった。もう一口。もう一口。
「……美味い」
声は、小さかった。私は息を止めた。反射的に口を開きたくなった。何か言いたかった。誰かに報告したかった。不適切だ。パン粥を食べているレイス様を、ただ見ていればいい。
だが、体が勝手に動いた。
「お茶の力です」
出た言葉は、おかしかった。顔が、熱くなった。鎖骨の下がひりひりした。私は、何を言っているのか。これは誤字ではなく、意図した言葉なのか。レイス様の表情が、何か理解しようとしている。
「……何だ」
彼は、スプーンを持ったまま、私を見た。
「お茶。リンデン茶です。パン粥に、少し混ぜてあります。蜂蜜はただ、お茶の力を引き出すためだけです」
嘘だ。蜂蜜は、全部だ。味の。香りの。そして、食べる気力の。
でも、話は続いた。
「蜂蜜は栄養のためだけの食材じゃなくて。香りと温度で、何か患者さんの気持ちを読むというか」
「患者さん」
彼は、その言葉に反応した。
「ミーナ、お前は何のつもりで、ここにいるのだ」
「申し訳ございません」
「いや。そうではなく。何の気持ちで」
「ああ……」
私は、言葉を探した。台所で、蜂蜜の瓶を開けた時の気持ち。朝、彼が寝台から身を起こす時の、その動きを見守った気持ち。
「食べていただきたいからです」
「そうか」
レイス様は、また、スプーンを取った。
「茶の力か。気に入った」
その後、席を立つ時まで、彼は何も言わなかった。スープを飲み終わり、パンをかじり、杖を手に取る。でも、彼が食堂を出る時、かすかに耳が、赤くなっていたように見えた。
◇
午後。マルタが、私を台所に呼び止めた。
「先生、もう出ましたか」
「はい。食堂から」
「あの人、昼食で食堂に出たんですね。ずっと書斎なのに」
「ええ」
「何かあったんですか」
「何も。ただ、そう言われたので」
マルタは、その後、何も聞かなかった。でも、彼女の視線は、一日中、パン粥の鍋に注がれていた。パウレッテは、焼き立てのパンを、通常より二枚多く焼いた。
◇
夕方、庭園を歩いた。レイス様は、杖を持ち、ゆっくりと進む。私は、彼の半歩後ろについていた。彼が何か言うまで、話しかけてはいけない。それが、この領地のルールのような気がしていた。
冬の日は、短い。今、陽光は、すでに淡くなり始めていた。
「ここにいると、楽になる」
彼は、突然、止まった。冬薔薇の咲く庭の中央で、レイス様は、深く息を吸った。空気は、冷たく、清廉で、どこか青い香りがした。
「この匂いは、何だろう」
「銀木犀です。この季節、庭全体に咲きます」
「そうか」
彼は、また、歩き始めた。歩きながら、彼が一つの花壇の前で、止まった。薔薇だ。深い赤色をしている。
「これを、近くで見ろ」
私は、彼が指さす花に、近づいた。薔薇の香りが、鼻に届いた。濃い。深い。前世では、このような香りの花を、見たことがなかった。
「いい香りです」
「そうだな」
◇
夜。マルタと台所で、夕食の支度をしていた時、彼女が口を開いた。
「その、パン粥。何かしたんですか」
「いいえ。普通に作りました」
「でも、先生……あ、失礼。レイス様が食べた」
「ええ」
マルタは、刃物を置いて、笑った。それは、満足したような、でも、少し悔しいような笑いだった。
「先生は、最近、食堂に出ることがなかったのに。ずっと書斎で、一人で」
「そうなんですね」
「だから、みんな、あの人は何ですか。何で、今日は外に出たんですか。って」
私は、台所の隅を見た。パウレッテが、焼き立てのパンを、リネン布に包んでいる。彼女は、特に何も言わなかったが、私には、彼女が笑っているのが、見える気がした。
「あ」
マルタが、また、何か言いかけた。
「何ですか」
「別に。ただ先生の耳が赤かったんです。パン粥を食べた時」
「そうなんですか」
「珍しいんです。先生って、いつも無表情で」
私は、パン粥の匂いが、まだ指に残っていることに気づいた。栗の蜂蜜と、リンデン茶と、温かいパンの香り。
「お茶の力です」
もう一度、その言葉を口の中で転がした。これが、この世界での、私の最初の誤字だった。そしておそらく、レイス様が、私を見る目を変えた、最初の瞬間だったのだ。




