第3話 介護士の職業病がある
介護士の職業病がある。人の顔色を、無意識に読んでしまうことだ。
台所で、マルタが私の脇を通り過ぎるたびに首を傾げた。まだ決まった動きをしていない。リネン布巾を三つ折りにする時、いつも少し迷う。ここまでは覚えた。でも、朝食の支度で順序が違う昼食の時間とでは、手の動きも気持ちも別物なのだ。
「ミーナ、これはどこに?」
マルタが、小麦粉の袋を抱えて尋ねた。
「奥の棚の上。そこなら、湿気が少ないから」
「ありがとう。あ、そっか。前の屋敷で、もう……」
彼女は何か言いかけて、首を振った。
「大丈夫です」と、私は言った。
この屋敷には、いくつかの空白がある。前の奥方の名前は、誰も口にしない。病気について、わざわざ説明する人もいない。みんな、話題を避けるように動いている。
◇
ヨハン老執事は、朝食の時間に現れない時がある。その日は、彼が深く眠った証拠だ。眉間の皺が、いつもより薄い。疲れきった状態で眠った、という意味だ。
レイス様は、水を飲む量で、午後の具合がわかる。朝一杯なら、夕方に杖を持つ手が少し震えている。二杯飲まれた朝は、夜まで肩の力が抜けない。
台所で働く者たちも、みんな、同じものを見ていた。毎日の変化。体調の波。咳の頻度。パウレッテは、焼き立てのパンの香りで、レイス様の食欲を測っている。良い朝は、焼きたてを出す。悪い朝は、前日の残りを温め直す。彼女は、一度も言葉にしないが、毎日、正確に判断する。
こうして、私は毎日を数字に変えていった。咳の回数。食事の量。寝付く時間。前世の施設では、入居者三十名分の記録を板に書いていた。ここでは、一人の男だけだから、記憶はより深くなる。
前世の施設長は、常に三冊のノートを持ち歩いていた。一冊目は、入居者の名前。二冊目は、入居者の家族構成。三冊目は、世間話の話題。入居者との会話で、その人の笑顔が増えるか減るかを、毎日記録していた。「記憶は、ケアよりも大切な場合がある」と、彼女は言っていた。「人は、覚えられることで、初めて大切だと気づくのよ」。
「ミーナ、この水は」
マルタが振り返った。冷たい水の入った瓶を、両手で支えている。
「レイス様のお部屋に、毎日朝と夜?」
「朝と夜だ。昼間は飲みたくないと」
「あ、そっか」
私は、マルタが尋ねるより少し前に答えることが増えた。あまり何度も聞かれるので、次の質問まで予測してしまう。でも、彼女の前では、まだ、その予測を隠すべきだった。
「今日も二杯ですね」
「そうだ」
◇
台所仕事の後、私は廊下を通って、庭園に出た。昼下がりの光が、石造りの壁を暖かく照らしている。石のテーブルの上に、干し葡萄のスコーンが置いてある。朝焼きしたやつだ。調理室の隅で、数枚だけ冷ましている。レイス様は、甘いものをほとんど口にしないが、ここ三日は毎日二枚食べている。
塩辛い空気が、肌に沁みた。この領地は、年中冬の香りをしている。前世の実家では、こんな風に四季が分からない場所なんてあるのか、と思っていた。今、私はその中に立っている。
なぜだろう。スコーンの話も、水の話も、全部、つながっている気がする。
まあ、つながっていないかもしれない。
それは、夜の十一時に始まった。
咳の音が、廊下まで響いている。乾いた音。喉の奥から無理に出されているような音。私の部屋は、レイス様の寝室と、薄い壁を隔てているだけだ。
前世では、こういう時、私はどうしていたか。医療施設の夜勤では、呼び出しボタンを待つ。あるいは、定期巡回の時間に、患者の状態を確認する。勝手に扉を開けてはいけない。それは、プロとしてのルール。患者のプライバシーを尊重する。自主性を奪わない。
だから、私は、ここでも待つべきなのだ。
でも、このままでは。
布団の上で、私は時間を数えていた。十分。二十分。三十分。咳は、止まらない。むしろ、悪くなっている。
真夜中を過ぎた時間。私は、廊下に出ていた。片手に、水の入った杯を持っている。足を音立てないように、レイス様の扉の前に立つ。
廊下の石床は、冷たい。触ると、ひんやりとした感覚が、指を通して腕まで伝わる。真冬の医療施設の床も、こんな温度だった。その時は、毎朝、床暖房を確認してから、患者の巡回を始めたのだ。
咳の音は、もう聞こえない。
私は、拳を握った。叩くべきか。それとも、ただ待つべきか。
三分の間、私は動かなかった。
朝が来た。
私は、朝食を運ぶ時、レイス様の顔を見ないようにしていた。
「ミーナ」
彼は、紅茶の杯を受け取る前に、声をかけた。
「昨夜、お前は、俺の扉の前にいなかったか」
息が止まった。首筋がひやりとした。
「……確認だ。お前の足音は、マルタとは違う」
「申し訳ございません。話しかけるつもりではなく、ただ、咳がどうかと思って」
「たかが咳だ。騒ぎ立てることではない」
「はい」
「だが」
レイス様は、紅茶の杯に視線を落とした。朝日が、窓から差し込んでいた。彼の手の上に、ほんの一瞬だけ、光が走った。青白い光。咳の時と同じだ。
私は、目を瞬かせた。
「どうぞ、お召し上がりください」
紅茶をテーブルに置く。光は、もう消えていた。それが、本当だったのか、それとも、朝日の反射だったのか。
「そうか」
レイス様は、杯を手に取った。
「今夜も、来るのか」
「……」
「来るなと言っているわけではない。ただ、俺は気づく、ということだ」
彼は、紅茶を飲んだ。
だから、私も、ここで、この領地で、ここで働く人たちの名前を記憶することにした。
マルタ・グリクスン。髪にフレックルがある。毎朝、カウンターの右側から仕事を始める。朝食を用意する時と、夕食を用意する時で、歌う歌が違う。
ヨハン・ヴェルナー。白髪。右手の薬指に古い傷痕がある。左手でコップを持つ時と、両手で持つ時で、心理状態が違う。疲れた日は、いつも両手になる。
パウレッテ。台所の奥で、パンを焼く。朝四時に起床。一度も遅れたことがない。焼きたてのパン生地の香りで、その日の気温や湿度を判断する。
フレデリク。馬番。毎日、馬房の掃除の時に、小さく口笛を吹く。
エミーリア。洗濯係の老女。アイロンの熱が冷めるのを嫌う。アイロンは、手放さない。
レイス様の咳は、夜が深いほど酷くなる。その手に走る光は、何なのか。
それが、私の最初の記録だった。そして、解けない謎だった。




