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病弱な幼馴染の一言が、取り柄のない私の全部だった  作者: 秋月 もみじ


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第2話 同情なら帰れ


 侯爵邸の天井は、馬鹿みたいに高かった。


 朝、目が覚めて最初に思ったのがそれだった。前世のワンルームは天井に手が届きそうだったのに、ここは腕を伸ばしても三倍は余る。白い漆喰に木の梁が通っていて、長い年月の煤が端の方に薄くこびりついている。

 まあ、そうだ。天井の高さと幸福度は比例しない。


 寝台は広すぎた。羽根布団が重くて、起き上がるのに少しもたついた。身体が広い寝台に慣れていない。端の方に寄って、壁に背中をくっつけて寝る癖はすぐには直らないだろう。


 身支度を整えて。このドレスは一人では着られない。侍女のマルタが手伝ってくれた。二十代後半くらいの、そばかすのある女性。笑顔は作っているけれど、手つきに迷いがある。


「あの、マルタさん」


「……はい」


「朝ごはんって、どこで食べるんですか」


「食堂でございます。ただ……旦那様はいつもお部屋でお召し上がりですので、奥様もお部屋でご用意いたしましょうか」


 別々。

 まあ、そりゃそうだ。政略結婚の初日に一緒に朝ごはん、なんて話は介護施設の新人歓迎会じゃないんだから。


「食堂に行きます」


 食堂は一階の東側にあった。長いオーク材のテーブルに椅子が十二脚。まあ、私一人で使うには広すぎた。

 パン粥とチーズ、干し葡萄のスコーン。銀のスプーンを手に取って、前世のステンレスのスプーンとの重さの差を比べてしまった。三倍くらい重い。


 食事を終えて、ふと聞いた。


「レイス様は、朝ごはんは何を?」


 マルタが一瞬、困った顔をした。


「……パン粥を少しだけ、お部屋に。ただ、最近はあまりお召し上がりにならないようです」


 食べていない。

 その情報が、私の脳を起動させた。食欲の低下は状態悪化のサインだ。どのくらい食べていないのか。いつから減ったのか。水分は。排泄は。

 いかん。職業病が出ている。


 でも。


「レイス様のお部屋まで、パン粥を持っていってもいいですか」


「え……奥様が、ですか?」


「私が」



 レイスの部屋は二階の奥にあった。


 ノックをすると、間があった。長い沈黙。咳の音が聞こえた。そして。


「……入れ」


 扉を開けた。


 部屋は薄暗かった。カーテンが半分閉められていて、使い込まれた革張りの椅子に、レイスが座っていた。膝の上に書類の束。机の上にインク壺と羽根ペン。目の下に濃い隈。

 パン粥は手つかずのまま、脇のテーブルに置かれていた。冷めて、表面に膜が張っている。


「何の用だ」


「朝ごはんを持ってきました」


「いらない。もうある」


「それは冷めています」


「……」


 レイスが私を見た。暗い緑の瞳が、値踏みするように細められた。

 前の婚約者の時もこうだったのだろうか。病人を前にした人間の態度を、この人は何人分も見てきたのだろう。


「同情で来たなら帰れ」


 低い声だった。怒りではない。疲労だ。何度も同じ言葉を言い慣れた人間の、平坦な声。


「同情じゃないです」


「では何だ」


「政略結婚です」


 レイスが一瞬、言葉を失った。


 私も自分で何を言っているのかわからなかった。ただ、事実を述べただけだ。同情で来たわけじゃない。政略結婚で来た。それは嘘じゃない。嘘じゃないけれど、本当のことを全部言ったわけでもない。


「……変わった女だ」


 まあ、それで悪くない。


 レイスが呟いた。呟いてから、少しだけ目を逸らした。


「パン粥、ここに置きますね。蜂蜜を少し入れたので、冷めても甘いです」


「頼んでいない」


「はい。勝手にしました」


 レイスが何か言いかけて、口を閉じた。

 私は一礼して、部屋を出た。



 廊下に出た瞬間、手が震えていることに気づいた。


 右手。パン粥の器を持っていた方の手。

 別に怖かったわけじゃない。その「帰れ」は、本気ではなかったはずだ。本気なら、あんな疲れた声にはならない。


 でも手は震える。平気なふりをして、胸の奥で手が震える。何かが後からくる。


「奥様」


 振り返ると、昨日玄関にいた白髪の執事が立っていた。穏やかな目をした、背筋の真っ直ぐな老人。


「ヨハンと申します。当家の筆頭執事でございます」


「ヨハンさん。昨日はありがとうございました」


「いいえ。……奥様、少しよろしいですか」


 ヨハンさんは廊下の窓際に私を導いた。銀霧の向こうに庭が見える。手入れは行き届いているけれど、花が少ない。


「旦那様があのお言葉を口にされたのは、前の婚約者様以来です」


「帰れ、ですか」


「はい」


 ヨハンさんの声は穏やかだったけれど、目は穏やかではなかった。何かを確かめるような目。


「前の方は……カタリーナ様は、お帰りになりました」


 そうだろうな、と思った。


「旦那様は、それ以来、誰にもあの言葉をおっしゃっていません。言う必要がなかったのです。そもそも誰も来ませんでしたから」


 奥歯の裏側が、痺れた。


 十年。レイスは十年間、この屋敷で一人で病と向き合ってきた。「帰れ」と言う相手すらいなかった。


「私は帰りませんよ」


 口をついて出た。


「あら、奥様が、ですか」ヨハンさんが少し目を見開いた。


「帰りません。だって私、前世……いえ、前から、人に帰れと言われても帰らないタイプなので」


 言いすぎた。危ない危ない。


 ヨハンさんが、初めて目元を緩めた。微笑みというには控えめで、でも確かに何かが和らいだ顔だった。


「左様でございますか」


 それだけ言って、ヨハンさんは一礼して去っていった。


 私は窓の外を見た。銀霧の庭。花が少ない。

 前世の施設では、入居者さんの部屋に小さな花を飾っていた。百均の一輪挿しに、スーパーで買った三百円の花束から一本抜いて。

 それだけで、朝の顔色が変わる人がいた。


 この庭に、何か植えたいな。


 レイスの部屋の方を振り返る。扉は閉まったまま。

 でも、冷めたパン粥は下げられていなかった。

 つまり、マルタが回収に入っていないということは、レイスがまだ部屋にいるということで、パン粥が……。


 考えすぎだ。


 前世の癖だ。患者の食事の残量をいちいち気にする。食べたかどうか確認したくなる。


 でも。


 夕方、マルタに聞いた。


「パン粥、どうでしたか」


 マルタが小さく笑った。


「空でした。蜂蜜のパン粥は久しぶりにお気に召したようです」


 よし。


 小さくガッツポーズをした。前世の施設で、食事拒否の入居者さんが初めて完食した時と同じ気持ち。

 これは恋とかそういうのじゃない。仕事の達成感だ。

 うん。仕事の達成感。


 たぶん。

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