第19話 天気のおかげです
銀木犀が咲いた。秋が来たのだと、花の匂いで知った。その匂いは前世の秋の香りと同じだった。栗ご飯。焼き栗。その匂いに含まれている甘さと温かさ。あの施設で食べた秋の味は、今もなお鮮烈だ。
朝、秋の朝。彼は私の手を握った。その握り方が、いつもと違った。何か決意のようなものが感じられた。
「庭園に行こう」
「わかりました」
その誘いは、いつもと違う。何か特別なものが含まれていた。手の甲がそわそわした。心臓が高鳴った。今日、何か重要なことが起きるのだと直感的に知った。
杖を手に、彼は歩いた。二人で、手を握りながら。そのペースは以前よりも確実だ。かつてのような不安定さがない。彼の足取りは、領主のそれだった。病人のそれではなく。
呪いはまだ彼の身体を削り続けている。医者の言葉通り。まあ、仕方ないことなのか。だが、その削られるペースは遅くなっていた。祝福として働く呪いが、彼を守っているのだ。その事実が、何もかもを物語っていた。彼は本当に生きているのだと。
銀色の花が咲いていた。小さな花。でも、その香りは強い。秋の香りだ。
「ここで」
彼は、石造りの椅子に座った。私も、その側に座った。
「秋だな」
「ええ」
「前世では」
「栗ごはんを食べていました」
「栗」
彼は、その香りを嗅いだ。銀木犀。白い香り。甘い香り。それは彼女の前世を呼び覚ますような香りだ。
「これは。栗と同じ香りがするのか」
「少し。似ているかもしれません」
「そうか」
彼は何か思い出していた。その表情は静かで、平穏で、子どもの彼。あの森での彼女。その全てが走馬灯のように彼の心に流れている。
「俺は。お前に。感謝している」
彼が急に言った。
「感謝」
「ああ」
「何に」
「全てだ。お前がここにいること。全て」
その言葉で朝の光がより強くなったように見えた。
「お前は。ここで。安心しているのか」
「えっ」
「ここで。一緒に。いることで。安心しているのか」
その質問は確認だった。
「はい」
「そうか」
彼は私の手を握った。強く。その力で何かを言っていた。
「お前がいてくれてよかった」
その言葉に、私は何か言おうとして言葉が出ない。その言葉は何か別のものを含んでいた。ただそばにいることへの感謝ではなく、存在そのものへの愛。
「何か言いたいのか」
「……」
「言え」
沈黙の中で、心臓が大きく鼓動した。この瞬間。この問い。彼は何を待っているのか。彼の目には何か確認するような光があった。彼女が本当にここにいたいのか。本当に側にいてくれるのか。その確認を求めているのだ。
「……天気のおかげです」
彼は目を瞬かせた。何度も何度も。その返答の意外さに。
「え」
「秋になったから。良い天気だから。あなたがいてくれるから。そう思ったのです。だから、感謝しているのです」
彼の手が握られていた。強く。より強く。その力が何かを言っている。彼女はそれを感じ取った。その握力の中に込められた感情を。
「……天気?」
彼の声には何か別のものが含まれていた。呆れ。でも、違う。何か温かいもの。それは彼女の答え方が好きだからだ。単純で、何も考えていなくて、でもその単純さが彼を救っているのだ。そのおかしさが、そして素直さが。
「お前は。本当にそういうところが」
彼はそこで言葉を切った。何か言おうとして、でも言葉にならなかったのだろう。その想いが大きすぎて、言葉では表現できないほど。愛しさが。こんな風に彼女がいてくれることへの感謝が。
「何ですか」
「何もない。本当に何もない」
でも彼の目には笑いがあった。その笑いは愛しさに満ちていた。それが全てを物語っていた。彼が何を思っているのか。何を願っているのか。何を守りたいのか。明日、全てが言葉になるのだ。
◇
昼間、使用人たちが見ていた。主人と奥方が庭園を歩く。手を握ったまま、笑っているのを。それは稀有な光景だった。侯爵が笑顔を見せるなんて。その歩き方も強くなった。病人ではなく領主そのもの。
「先生が笑ってるなんて」
マルタがヨハンに言った。
「ああ」
「あんなに」
「そうだな」
彼らはその光景を見て、何か安堵するような、温かいような感覚を感じていた。それは主人への忠誠。奥様への感謝。その両方が混ざったような複雑な感覚だった。でも、その感覚は彼らの心を暖かくした。
パウレッテは台所で何か焼いていた。特別なパン。祝いのパン。彼女は知っていたのだろう。何か大事なことが起ころうとしていることを。
ヨハン老執事は応接室で何か掃除していた。いつもより丁寧に。いつもより心をこめて。彼はこの領地を長年見守ってきた。領主の苦しみも、その喜びも。今、その時が来たのだ。領主が本当に幸福を掴む時が。
マルタは奥様の部屋をそっと整えていた。清潔に。丁寧に。彼女も知っていたのだろう。全てが変わる日だということを。
◇
夜、彼は何か考えていた。明日の言葉を。その言葉は何度も何度も繰り返してきたはずなのに、いざ言おうとすると形をなさない。
「ミーナ」
「はい」
「明日。話がある」
「何ですか」
「楽しみにしていてくれ」
その言葉には何か特別な響きがあった。それは重いものではなく軽く、でも大切なもの。何か大事な決意が含まれていた。
「眠れないか」
彼は寝室を訪ねた。
「ええ」
「俺も。だ」
彼は窓を見た。月が出ていた。秋の月。その光が冬薔薇を照らしていた。その花が何度も何度も咲き直してきた。その理由は彼の想いだ。
「お前は。ずっと。俺の側にいるのか」
その質問は確認ではなく願いだった。
「はい」
「わかった」
彼はその言葉で何かが決まったのだ。
◇
朝、彼は彼女を導いた。庭園へ。冬薔薇が咲く。その場所へ。あの花が最初に咲いた。その時、彼は何かを思ったのだ。その何かがずっと花を咲かせ続けていたのだ。
その時、全てが始まるのだ。子どもの時から、今まで、ずっと守り続けてきた想いを言葉にするために。愛を宣言するために。
「ミーナ」
彼が呼んだ。その声は決意に満ちていた。深紅の花がその名前を聞いていた。
「ここで。言いたいことがある」
彼はその言葉で、全てが始まる。子どもの時から、今まで、その全てがこの瞬間に繋がろうとしていた。冬薔薇が咲いている。深紅の花。その花はもう「たまたま」ではなく、彼の想いの証だ。
「言いたいこと」
彼は継ぎました。
「お前がいなければ」
「……」
「俺は。死んでいた」
その言葉が庭園に響いた。秋風が銀木犀の香りを運んだ。
「だから」
彼は彼女の両手を握った。
「今。言うんだ」
その時が来たのだ。全てが繋がる時が。




