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病弱な幼馴染の一言が、取り柄のない私の全部だった  作者: 秋月 もみじ


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第18話 遅すぎたのは私たちの方だったわ


 レイスが杖をつきながら歩いた日、侯爵邸は静かにざわめいた。それは歓喜の波動だった。彼が歩いている。病床の侯爵が、自分の足で、杖をついて歩いている。


 朝食の時間、彼は杖をしっかり握って起き上がった。足が不安定だったが、前より安定している。驚くほどに。医学的には考えられない速度で回復している。


 一歩。二歩。三歩。


「レイス様」


「大丈夫だ。もう。大丈夫だ」


 彼の手を握った。支えた。彼の腕には筋肉がない。廃用萎縮の兆候もある。それなのに彼は歩く。その腕で彼は杖を握ったまま歩いている。これは医学ではない。これは呪いだ。祝福だ。


「すごい。本当にすごい」


「ああ。医者の処方箋が効いている。そして。お前が。ここにいるから。その全てが、相乗効果を生んでいる」


 その言葉が全てだった。医学と呪いと、そして彼女の存在。まあ、その三つが揃った時、奇跡は起きる。


 ヨハンが朝食を用意した。いつもより多く。彼は知っていた。この時が来るのを。長年、侯爵に仕えてきたからこそ、その変化を感じ取っていたのだ。


 マルタが彼を見て涙を流していた。数ヶ月前の彼は、もう長くないと覚悟を決めていた。それが、今、こうして杖をついて歩いている。その感動は、言葉では表現できない。


 パウレッテが彼のためだけの特別なパンを焼いた。祝いのパン。彼女も知っていたのだろう。何か大事なことが起ころうとしていることを。


 全ての者が知っていた。何が起きたのか。呪いが弱まったのではなく、彼が呪いをコントロールしたのだ。祝福として使うために。それは並大抵のことではない。それは彼の意志の強さの証だ。



 一週間後、王都ではエドワード殿下が何か読んでいた。書状だ。アルヴァーン侯爵からの。


「侯爵が杖を使いながら、より安定して歩いたと」


「ふむ」


 エドワード殿下の計算は指の腹がかゆくなるほど崩れた。病弱な領主。衰退する領地。その隙を王家が狙う。その計画は終わった。


 書状には何も書かれていなかった。言葉はなく、ただ、侯爵の署名。彼の実印。その強い印鑑。それだけで全てがわかった。彼はもう病人ではない。領主である。その覚悟を示していた。


「では。政略結婚は成功した。ということだな」


 その言葉に含まれた苦さ。計算が外れたのだ。


「カタリーナは」


「どうなっているのか」



 ちょうどその時、カタリーナ本人が王都を歩いていた。その時、誰もが彼女を見て、ささやいた。


「あの。病人を捨てた女」


 それは一つの言葉ではなく、一つの烙印だった。侯爵が強く彼女を捨てた。その事実が王都中に広がった。前婚約者。病人を見捨てた女。その烙印は彼女の身に刻まれた。彼女の完璧さは全て無くなった。



 半月後、カタリーナが侯爵邸に来た。私は彼女に会った。その顔は王都にいた時と違っていた。何か欠けている。


「何かご用ですか」


 二人きりで庭園に出た。冬薔薇が咲いていた。彼女はその花を見た。


「綺麗」


「ええ」


「あなたが。植えたのですか」


「いいえ。レイス様が」


 その言葉に、彼女の目が変わった。完璧な目が割れた。


「あなたに。何ができたのですか」


「何も。できていません」


「嘘をおっしゃい」


「本当です」


「あなたに。何ができたのですか。私と。何が違うのですか。教えてください」


 その声は破れていた。王都で彼女は何か大切なものを失ったのだ。完璧さ。その色。その装い。すべてを失ったのだ。


「違いは。わかりません」


「本当ですか」


「ただ。私は。そばにいただけです」


「それだけ?」


 その質問に、彼女の絶望が見える。


「それだけです。でも。その『だけ』が。全てだったのかもしれません」


 その言葉を言った時、彼女の目がより一層割れた。


「そばにいるだけで。相手が。安心する。その力。その才能。それが。あなたにはなかったのではないか。と」


 彼女は何も言わなかった。その代わりに庭園を見た。深紅の花。その色は冷たい。彼女のドレスよりも暖かい。


「その程度のことで。あるのに」


 彼女は何か呟いた。虚しいだけだ。庭園の片隅に、自分のドレスを見た。その色は白い。冷たい色。完璧な色。でも、その色には何も無かった。温かさも、匂いも、何もない。


 一方、冬薔薇は香る。その香りは彼が植えたもの。彼女が見守らなかったもの。


「ご幸福に」


 その言葉は呪いのように聞こえた。それは彼女が呪ったのではなく、彼女自身が呪われたのだ。



 彼女が去った後、ヨハンさんが教えてくれた。第二王子殿下のアルヴァーン領への介入計画は、王宮で問題視されたらしい。病弱の侯爵を利用しようとした事実が露見し、殿下は北方領への視察という名目の左遷を命じられたそうだ。


 レイス様に会った。彼は杖を持ち、立っていた。その姿は完璧に領主だった。


「何も言わなくていい」


「……」


「彼女の。悔いは。俺のもの。だから」


「えー」


 彼は強く言った。その声はカタリーナを王都まで追い続けるような強さがあった。


「だが。ただ一つ」


「何ですか」


「そばにいろ」


 と。言った。その言葉に安堵の色があった。彼はカタリーナのことを忘れようとしているのではなく、受け入れようとしていたのだ。その過去を。その失敗を。そして、それを乗り越えようとしていたのだ。


 前世で、スーパーのセール、値段交渉のための笑顔。その技術。それがこの時代では何の役にも立たなかった。


 でも何かが違った。彼女は完璧だった。社交界では誰もが彼女を見た。でも、彼女の側にいる人は誰もいなかった。その違いがすべてだった。



 夜、レイス様が言った。二人きりの書斎で、窓から銀霧を眺めながら。


「カタリーナ。可哀想だ」


「そうですね。王都では、彼女は完全に立場を失ったと聞きました」


「だが」


 彼が何か言おうとしていることがわかった。


「何ですか」


「お前は。違う」


「どう違いますか」


「わかっているはずだ」


 その言葉に、彼女が王都で何を失ったのか、そしてなぜ、その男は彼女を選ばなかったのか、その理由が全て見える。


 彼女は誰かを安心させなかった。社交界では完璧だった。慈善事業も立派だった。社交術も一流だった。でも、その完璧さは何も生み出さなかった。誰かを守る力にはならなかった。一方、私は何も完璧ではない。何も秀でていない。でも、彼は安心する。それがすべての違いだった。


 その夜、彼は前世の記憶にある誰かの言葉を言った。その言葉は、彼の心底からの言葉だった。


「カタリーナ。可哀想だ」


「そうですね」


「だが。遅すぎたのは」


 彼の声が低くなった。


「何ですか」


「私たちの。方だったわ」


 その言葉は前世の誰かの言葉ではなく、彼自身の言葉だった。その中に何かが含まれていた。後悔。でも、それだけではない。受け入れ。


 カタリーナが離れた時に、彼女を止めることもできた。でも、その時、彼には、その力がなかった。その力を得るまでに、彼女は去ってしまった。その遅さが全てを変えた。彼の人生を。そして、私の人生をも。


「でも」


 彼は続けた。その声は確かだった。


「今。お前がいる」


「ええ。ここにいます」


「だから。俺は。前を見る。もう後ろを見ることはない」


 それでも、今、彼は生きている。彼女は去ったが、それはそれ。これはこれ。彼は確実に前を見ていた。


 子どもの時から、ずっと、ずっと、彼が見守ってくれた。その眼差しの先に、今、私がいる。その事実だけで全てが足りた。

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