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病弱な幼馴染の一言が、取り柄のない私の全部だった  作者: 秋月 もみじ


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第13話 明日、パン粥の約束したでしょう


 血の匂いがした。


 深夜、目が覚めた。理由はわからない。音がしたわけでも、夢を見たわけでもない。ただ、空気が違った。前世の施設で夜勤をしていた時に身体が覚えた、あの空気。何かが起きている、という気配。


 寝台から降りて、廊下に出た。石の床が裸足に冷たい。レイスの部屋の扉の隙間から、ランプの光が漏れている。まだ起きているのか。いや、違う。光が揺れている。普段のレイスは読書中にランプを動かさない。


 扉を開けた。


 レイスがベッドの縁に座っていた。身体を折り曲げて、洗面器を抱えている。洗面器の中が赤い。暗い赤。錆びた鉄のような匂いが、部屋中に充満している。


「レイス」


 声をかけた。返事がない。また咳き込んだ。咳のたびに、口元から赤いものがこぼれる。前世の施設で見た喀血とは比べものにならない量だった。


 走った。侍医を呼びに行くマルタとすれ違った。マルタの顔が青白い。「先生が来ます」と言ったきり、声を失っていた。


 レイスの部屋に戻った。背中をさすった。前世の手順が頭の中で回る。気道確保。体位。声をかけ続けること。

 でも今回は手順だけでは足りないとわかっていた。この量の血は、普通の発作じゃない。


 侍医が来た。薬を飲ませて、呪文を唱えて、何かの処置をした。私にはわからない処置だった。前世の医学とこの世界の医学は違う。私にできることは、レイスの手を握って、声をかけることだけだった。


 侍医が振り返った。


「奥様。覚悟してください」


 その言葉を聞いた時、奥歯がカチッと噛み合った。顎に力が入って、歯が軋む音が頭の中に響いた。


「覚悟……」


「旦那様のお体は限界に近い状態です。今夜を越えられるかどうか」


 マルタが泣いている。ヨハンさんは黙って立っている。使用人たちが廊下に集まっている気配がする。


 誰かが言った。マルタだったかもしれない。


「奥様がそばにいれば、旦那様は安心されますから」


 安心。


 また、その言葉だ。


 安心させる。そばにいれば安心する。それが私の役割。それが私の仕事。それが私の——


 違う。


 違う違う違う。今はそんなことどうでもいい。安心とか仕事とか役割とか、全部どうでもいい。

 この人に生きていてほしい。ただそれだけだ。安心させたいんじゃない。死なないでほしいだけだ。

 死なないでほしいのに、「安心させる」しかできない自分が。


 何もできない。薬も作れない。魔法も使えない。治療もできない。前世の知識も、この呪いには効かない。

 私にできることなんて、何もない。


 レイスの手が冷たかった。指先が白くなっている。意識があるのかないのかわからない。目は閉じている。


 手を握った。


 前世のおばあちゃんの手を握った時と同じように。でも、全然同じじゃなかった。あの時は穏やかに送り出すための手だった。今は行かせないための手だ。


「レイス」


 声が震えた。


「明日、パン粥の約束したでしょう」


 自分でも予想していなかった言葉だった。


「栗の蜂蜜が手に入ったんです。マルタが朝市で見つけてくれて。いつもの蜂蜜より甘いらしくて、パン粥に合うかどうか試したくて」


 馬鹿な話をしている。こんな時に蜂蜜の話を。でも、止められなかった。


「だから、明日。明日の朝、パン粥を作ります。食べてください」


 レイスの指が、私の指をきゅっと握り返した。弱い力だったけれど、確かに。


 どのくらい時間が経ったかわからない。窓の外が白み始めた頃、レイスの呼吸が少しずつ安定してきた。侍医が脈を取って、小さく頷いた。


「……峠は越えたようです」


 ヨハンさんが長い溜息をついた。マルタが崩れるように座り込んだ。


 レイスの目が開いた。暗い緑色の瞳が、私を見た。ぼんやりとした焦点が、少しずつ定まっていく。


「……泣いたのか」


 かすれた声だった。


 え。泣いた? 頬に手を当てた。濡れていた。いつから泣いていたのかわからない。パン粥の話をしている時からかもしれないし、もっと前からかもしれない。


「泣いてません」


 嘘だ。顔がぐしゃぐしゃだ。鼻も詰まっている。前世で泣いた時もこうだった。泣き方が下手くそで、きれいに泣けない。


「……嘘が下手だな」


 レイスが小さく笑った。笑って、また咳き込んだ。でも、さっきまでの血の混じった咳とは違う。乾いた、普通の咳だった。


「パン粥。明日、だったか」


「明日です。栗の蜂蜜で」


「そうか」


 そう言って、レイスは目を閉じた。今度は穏やかな寝息だった。


 私はレイスの手を握ったまま、その場にいた。手を離す気にはなれなかった。仕事だからじゃない。安心させるためでもない。

 この手を離したら、この人がどこかに行ってしまう気がした。



 朝になった。


 マルタが朝食を運んできてくれた。私はレイスの部屋から動いていなかった。背中が痛い。膝が固まっている。前世の夜勤明けよりずっとひどい。


「奥様、少しお休みに」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃないです。目が真っ赤で、声が枯れてます」


 まあ、そうだろう。一晩中泣いていたのだから。泣いてません、とは、さすがにもう言えなかった。


 ヨハンさんが毛布を持ってきてくれた。レイスのベッドの横の椅子に座ったまま、肩にかけてもらった。ヨハンさんは何も言わなかった。ただ、いつもより深くお辞儀をして、部屋を出ていった。


 レイスはまだ眠っている。呼吸は安定している。色は悪いけれど、昨夜のような冷たさはない。


 台所からパン粥の匂いがしてきた。パウレッテが作ってくれているのだろう。栗の蜂蜜は、まだ使っていないはずだ。それは私が入れたい。約束したのは私だから。


 レイスの手を見た。長い指。書類仕事で出来た、ペンだこ。爪は短く切り揃えてある。侍医に「爪を清潔に保つように」と言われて、律儀に守っている人だ。


 この手が昨夜、私の指を握り返した。あの弱い力を、一生忘れないだろう。


「……ミーナ」


 レイスの声。まだかすれている。


「おはようございます」


「朝か」


「朝です。パン粥、作りますね。栗の蜂蜜で」


「……約束、だったな」


「はい」


 立ち上がった。膝が笑っている。一晩中同じ姿勢で座っていたせいだ。前世の夜勤明けはいつもこうだった。身体が錆びたブリキの人形みたいにぎしぎし鳴る。


 台所に向かう廊下で、オルガさんとすれ違った。朝早いのに、薬の包みを抱えている。侍医に呼ばれたのだろう。


「あんた、ひどい顔だね」


「そうみたいです」


「……よく持ちこたえた」


 オルガさんはそれだけ言って、レイスの部屋に向かっていった。


 台所に入った。パウレッテが「おかえりなさい」と笑った。泣きそうな笑い方だった。


 パン粥を温めた。栗の蜂蜜を、スプーンで一杯だけ入れた。前世の施設長なら「入れすぎ」と言うくらいの量。でも今日は、甘くていい。


 レイスの部屋に戻った。スプーンを差し出した。


「食べてください」


「……ああ」


 レイスが一口食べた。飲み込んで、目を閉じた。


「甘いな」


「栗の蜂蜜です」


「甘い」


 そう言って、二口目を食べた。


 窓の外で、銀霧が朝日に溶けていく。

 パン粥は、約束通りの味だった。

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