第12話 あの空気令嬢が?
領地の朝市に行くようになったのは、パン粥に入れる蜂蜜を買うためだった。朝六時。大人たちが動き出す時間。市場は、もう活気に満ちていた。野菜を積み重ねた車。パン職人の籠。蜂蜜を瓶に詰める老人。
「おはようございます」
蜂蜜を売っている老人に声をかけた。毎朝、同じ人だ。
「おはよう、お嬢さん。今日も、来てくれたか」
「ええ。蜂蜜を、一つお願いします」
「この瓶か。いいのが取れたんだ。この季節のアカシア。香りが違う」
彼は、瓶を持ち上げた。金色の液体が、光を反射していた。
「いくらですか」
「五百銭。安くしてあるんだ。お前が毎朝来るようになってから、売り上げが上がったんだ」
「そんなことはありません」
「いや、本当だ。お前がいつも笑顔で来るから。他のお客さんも『気分がいいな』って、言い始めた」
前世で、スーパーのセール品を探す時の感覚に似ていた。安いものを見つけた時の、あの微かな達成感。だが、この時代のセールは、違った。値段交渉が、人間関係の一部だった。
「では、来週も来ます」
「ああ、待ってるよ。お前と話すのが、楽しみになってるんだ」
◇
市場を出て、帰路につく。この領地の朝は、冷たかった。たとえ春が近くても。石の路面が、足の裏に冷感を伝える。前世の施設の廊下も、こんな冷たさだったな。夜勤が明けた朝、よく足が冷えていた。
「おはようございます、奥様」
子どもたちが、道端で遊んでいるのを見かけた。五歳くらいの女の子。兄妹だろう。
「おはよう。何をしているの」
「石を集めているんです。侯爵邸の庭園に、きれいな石があるって聞いたから」
「そうなの。それは素敵ね」
「奥様は、ご存知ですか」
「はい。庭園に、いろいろな石があります」
「いつか、見に行ってもいいですか」
「え。庭園に」
「はい。奥様が、一緒なら」
私は、その子の目を見た。純粋な好奇心。何も期待していない。ただ、聞いている。
「レイス様に、聞いてみましょう」
「ありがとうございます!」
その子の笑顔を見て、顎の付け根がきゅっとなった。この子たちが、レイス様に会うことはあるだろうか。まあ、レイス様は、この領地を歩くことがあるだろうか。
◇
侯爵邸に戻ると、レイス様は、まだ眠っていた。昨日の疲労が、激しかったのだろう。朝食を用意した。パン粥に、蜂蜜を混ぜる。その香りが、室内に広がった。アカシアの蜂蜜。白い香り。甘い香り。前世の実家近くのセール品売り場で、はちみつバターが安く売っていたのを思い出した。当時、給料が少なかったから、毎回、その棚の前で迷っていた。買うべきか、買わないべきか。この時代では、蜂蜜は、思いのままに買える。不思議だった。
◇
昼間。レイス様は、書斎で何かを読んでいた。
「お忙しいですか」
「いや」
「庭園の石について、お聞きしたいことがあります」
「石?」
「ええ。領地の子どもたちが、庭園の石に興味があるということです。見学を許可していただけますか」
レイス様は、本を閉じた。
「子どもたちが」
「はい。小さな子たちです」
「庭園は、誰のためにあると思う」
「あなたの領地ですから」
「そうではなく。その庭園の存在意義を、お前は何だと思う」
「……」
私は、答えられなかった。
「庭園は、領民のためにある。領地の者たちが、心を休める場所。だから、許可する」
「ありがとうございます」
「ミーナ。お前が、子どもたちと話しているのを、見たのか」
「え。何を」
「朝市に行っているのを、知っている」
「……」
びっくりした。見張られていたのか。
「毎朝、同じ時間に出かけている。一時間。蜂蜜を買う。ヨハンから聞いた」
「そうですね」
「お前は、誰のために、そんなことをしている」
「パン粥が、美味しくなるから。蜂蜜は」
「本当か」
「はい」
「そうか。なら、続けるがいい」
彼は、また、本を開いた。でも、彼の手は、本の上で止まっていた。何か、彼の心が、動いていた。
◇
夜。レイス様から、血を吐く音が聞こえた。洗面器に落ちる音。ドサッと音。
「レイス様!」
私は、走った。彼は、洗面台に両手をついていた。赤い。その汁が、白い陶器に落ちている。
「レイス様!」
「いや。近寄るな」
「医者を呼びます」
「来なくていい」
「でも」
「近寄るな。ミーナ。絶対に。これを見るな」
彼の声は、激怒していた。
「わかりました」
私は、一歩下がった。彼の肩が、震えていた。
「出ていってください」
その言葉が、全部を物語っていた。彼は、自分の弱みを見せたくなかった。だから、私は、出ていった。
◇
朝。私は、医者を呼んだ。
「最近の血は、量が多いですか」と、医者が聞いた。
「はい。昨夜は」
「わかりました。侯爵に話します。でも、このままでは」
医者は、言葉を濁した。でも、その医者の顔を見て、私は知った。彼の体が、崩れ始めているのだ。
◇
その日の夜。王都では、エドワード殿下が、何かを聞いていた。
「あの空気令嬢が?」
彼の声は、驚きに満ちていた。
「ええ。領地の子どもたちと話しているらしい。市場にも、毎朝」
「不可能だ。カタリーナが言っていた。あの令嬢は、社交界で何もできない。話題も、つくれない。ただ、そこにいるだけだと」
「ですが、領地の者たちは」
「何」
「奥様がいるおかげで、領地が安定していると言っています」
エドワード殿下は、沈黙した。彼の計画は、違う方向に進み始めていた。
◇
一方、王妃は、カタリーナに相談していた。
「あの令嬢を、説得してみてくれ」
「説得ですか」
「ああ。领地から出るよう。アルヴァーン侯爵は、もう長くない。嫁の身分に固執する意味があるまい」
「わかりました。参ります」
カタリーナは、侯爵邸に向かった。
◇
翌日。カタリーナが、やってきた。相変わらず、完璧な装いだった。ドレスも、髪も、すべてが整っていた。でも、彼女の目には、何か違う光があった。焦燥。
「ミーナ。お話しがあります。二人きりで」
「ええ。こちらへ」
私は、彼女を庭園に導いた。彼女は、庭園を見回った。冬薔薇が、咲いていた。深紅の花。
「綺麗ですね」
「ええ」
「あなたが、こんなに変わるなんて。王都では、考えられませんでした」
「変わりました。ここに来て」
「何が、あなたを変えたのでしょう」
その質問に、私は答えられなかった。
「帰ってくることを、お勧めします」
「どうしてですか」
「アルヴァーン侯爵は、もう長くない。そんな男のために、あなたの人生を無駄にする必要はありません」
「それは」
「あなたに価値があることを、知っていますか。社交界では、あなたは何もない。でも、ここでは」
「違います」
「何が」
「ここでも、私は何もしていません」
その言葉を言った時。私は、自分の嘘に気づいた。




