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病弱な幼馴染の一言が、取り柄のない私の全部だった  作者: 秋月 もみじ


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第11話 壁のおかげです


 杖の音が、石の廊下に響いた。かつかつ。かつかつ。一歩ごとに、この人は侯爵になる。廃止された招待の返答から、三日が経っていた。


 レイス様は、その三日の間に、何かが変わった。朝食の時、彼は着替えた。黒いジャケット。襟には、アルヴァーン侯爵家の紋章が刺繍されていた。その紋章は、銀色だった。月のような、冷たい銀色。


「これを着るのは、何か月ぶりですか」と、私が聞くと。


「一年半だ」と、彼は答えた。寝巻きではなく。病人の衣装ではなく。侯爵としての装いだ。杖を持つ手が、震えていない。かつかつ。かつかつ。廊下の先に、応接室がある。そこに、王家からの使者がいると聞いていた。二度目の訪問。今度は、別の圧力を持ってくるのだろう。


 レイス様は、一歩ずつ、確実に歩いた。ヨハンが、応接室の扉を開いた。


「アルヴァーン侯爵です」


 使者は、椅子から立ち上がった。昨日とは違う男だ。もっと身分が高い。王妃の側近らしい。


「侯爵。お目にかかります」


 儀式的な挨拶。丁寧だが、冷たい。


「ご苦労さん」


 レイス様の声は、静かだが、重かった。前世で見た時代劇の将軍みたいだ。戦場から戻ってきた、疲れた将軍。いや、もっとかっこいい。


「先ほどのご返答については、陛下はいくつか御質問がありまして。可能でしたら、お話を聞かせていただきたいのですが」


「どうぞ」


 レイス様は、椅子に座った。その時、彼の手が、一瞬だけ光った。青白い光。咳の時と同じ、謎の光。でも、その後、彼は何も言わなかった。使者は、何かを言い始めた。王家の懸念。領地の安定性。王家の支援の必要性。すべて、同じ言葉だった。


 でも、今度は、レイス様が、それに応えた。


「領地の財政は、赤字ではない。農業の収穫は、昨年より十パーセント増加している。鉱物の産出量も、同じ傾向だ」


「ですが、侯爵のご体調が」


「体調が、領地の統治能力を奪うことはない。もし王家が懸念されるなら、帳簿を確認いただきたい。すべて、ここにある」


 レイス様は、机の上に、分厚い書類を置いた。使者は、それを見た。彼の顔色が、変わった。


「わかりました。陛下に、このお話をお伝えいたします」


「そうしてくれ」


「では、失礼させていただきます」


 使者は、立ち上がった。レイス様は、立たなかった。


「ヨハン。見送ってくれ」


「かしこまりました」


 ヨハンが、使者を導いた。応接室には、レイス様と私だけが残った。彼の身体が、揺らいだ。杖を握る手が、急に力を失った。


「レイス様!」


 私は、走った。彼の腕に、自分の肩を入れた。彼の体重が、全部乗ってくる。重い。けど、支えられる。


「だ、大丈夫ですか」


「ああ……」


 彼の声は、小さかった。彼の手は、私の腰を握った。強く。


「つかまっていろ」


「わかりました」


 彼の額から、汗が落ちてくる。塩辛い匂いだ。かつかつ。杖の先が、床に落ちた。私は、彼を椅子に戻した。彼は、身体を折り曲げて、深く呼吸していた。


「医者を呼びますか」


「いや」


「水を」


「いや。ここにいろ」


 だから、私は、そこにいた。


「今日は……強く見えました」


「強く?」


「ええ。使者と話しておられるとき。あなたは、侯爵でした。病人ではなく」


 彼は、何も答えなかった。


「領地を守るために。あんなに」


「お前は、それに気づくのか」


「はい」


「なら、あほだ」


「え」


「これは、義務だ。領地の統治。責任。それは、病気がなくても、誰もが負う。だから、お前は、誰かが強く見えることに驚いてはいけない。それは、当然のことなのだ」


「……わかりました」


 彼は、また、窓を見た。月明かりが、彼の顔を照らしていた。その顔には、疲労の色が濃い。支え続けることで、彼がどれだけの力を使ったのか、わかった。


「ミーナ」


「はい」


「お前が、いなかったら」


「わかりません」


「そうか」


「でも、いま、あなたはここにいます。領地は、守られました」


 彼は、ため息をついた。


「今夜、眠れるだろうか」


「睡眠薬をお持ちしましょうか」


「いや。お前がいるだけで」


 その言葉は、医学的な根拠があるのか。それとも、別の何かなのか。その区別が、もう、つけられなくなっていた。



 使者が去ったあと、ヨハンは、応接室を片付けていた。使者の残した茶の杯。彼が座った椅子。すべてが、緊張を示していた。台所では、マルタが、夜の支度をしていた。通常より丁寧に。いつもより多くの水を用意して。


「レイス様が、大丈夫かどうか、まだ確認できていないのですか」と、パウレッテが聞いた。


「ああ。今、寝室で休まれている。ミーナが、そばにいるから」


 ヨハンは、そう言った。何も言わない。何も判断しない。ただ、事実をいう。その口調に、私は安心した。



 夜。ヨハンが、台所で言った。


「先生が、あのようにお振る舞いになられたのは、初めてのことです」


「そうですか」


「ああ。あの気力。あの声。病人のものではない。侯爵そのものだった。だからこそ」


 彼は、何か言いかけて、やめた。マルタが、歯を磨きながら、その言葉を続けた。


「奥様のおかげですね。まあ、誰が支えようと同じことかもしれませんが」


「え?」


「あの時、先生が倒れて。奥様が支えなければ、もっと大変なことになっていたんです」


「それは……」


 私は、否定したかった。褒められるのが、怖かった。


「壁のおかげです」


 と、言ってしまった。


「え?」


「もし壁がなかったら、彼は倒れる時に、頭を打っていたかもしれません。壁が、彼のバランスを支えた」


 マルタと、ヨハンが、顔を見合わせた。ヨハンの口元が、ほんの少し、緩んだ。


「そうですか。壁のおかげですか」


「はい。そうです」


 でも、私の手は、震えていた。なぜだろう。褒めてもらうと、こんなに体が反応してしまう。見つめられると、手首の内側がピリピリした。それは、何なのか。彼のためなのか。それとも単なる身体の反応か。その考えを、振り払わなければならない。



 夜遅く。レイス様の部屋に、水を運んだ。


「今日は、お疲れになられたでしょう」


「ああ」


 彼は、ベッドの上で、窓を見ていた。月が出ていた。満月の一つ前。


「領地のためになったでしょうか」


「わかりません。でも、やらねばならなかったことはできた」


「そうですか」


「ミーナ。お前は、何か言いたいのか」


「いいえ。何もありません」


「そうか」


 彼は、杯に唇をつけた。


「明日も、使者が来るだろう。もう一度、同じことを言わねばならないかもしれん」


「そうですか」


「お前は、何も言わないのか」


「あなたが、決めたことですから。私は」


「そうだな」


 彼は、月を見ていた。その手が、また光った。青白い光。今度は、明るく見えた。まるで、何かが、彼の身体から逃げ出そうとしているように。その光は、何なのか。医学では説明できない現象だ。でも、それを聞けば、彼は「たまたまだ」と言うだろう。だから、私は、何も聞かなかった。

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