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病弱な幼馴染の一言が、取り柄のない私の全部だった  作者: 秋月 もみじ


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第10話 あなたの領地だから


 王家の紋章が入った書状は、蝋の匂いがした。古い蝋。豪奢な蝋。それは、平民の蝋ではなく、王家専用の蝋だ。深い赤。金色の封印。王冠が描かれている。前世のメモリアルホールで、公式文書を見たことがある。市役所の書類。それにも蝋がついていた。でも、こんなに深い香りではなかった。施設の事務所の蝋セットでは、この香りを再現できなかった。


「エドワード殿下からのお便りです」


 使者は、そう言った。厳しい顔をした男。王家の側近らしい。彼は、朝も早く、玄関に現れた。レイス様は、まだベッドの中にいた。昨夜は、眠ったのか。朝の彼の顔色は、悪かった。医者に見せるべきか。でも、使者が待っている。


「読め」


「かしこまりました」


 使者は、破封された手紙を、読みあげた。長い手紙だった。エドワード殿下からの、慰問。病気についての同情の言葉。そして、領地のことについての心配。


「アルヴァーン領の統治は、確かに、負担が大きいと聞く」


 その部分で、レイス様の手が、拳を握った。


「病弱な領主が、その重責を担うことは、危険だ。そこで、我が王家は、援助を提案する。アルヴァーン領の一部の行政権を、王家に移譲していただければ、その負担を軽減できるかもしれない。それにより、なんじは、より自分の健康に専念できるであろう」


 移譲。つまり、支配権を譲り渡すということだ。少しずつ。でも、確実に、この領地は、王家のものになる。


「返答は」


「本国に戻ります」


「いつまでに」


「三日以内」


「そうか」


 使者は、去った。その後、レイス様は、目を閉じたまま、動かなかった。午後まで。



 午後。私は、レイス様の部屋に入った。彼は、起き上がっていた。窓の方を見ている。手紙は、ベッドの上に置かれていた。もう一度、読んだのか。それとも、読めないのか。肩甲骨の間がゾクゾクした。


「何かお飲みになりますか」


「いいえ」


「では、昼食を」


「いいえ」


 彼は、返事をしなかった。それ以上、彼は何も言わなかった。でも、彼の手は、震えていた。


 まあ、王家の脅迫だ。それは、明らかだった。移譲しなければ、どうなるのか。それは、書状には書かれていない。でも、誰もが、知っている。病気の領主。衰退する領地。その隙を、王家が狙っている。エドワードは、母親の王妃に従うしかない。だから、この手紙は、王妃の命によって書かれたのだ。それは、単なる提案ではなく、命令だ。


「レイス様」


「言うな」


「わかりました」


 彼は、ずっと、窓を見ていた。春の庭園を。冬薔薇が、もう枯れかけていた。



 夜。彼は、ずっと、ベッドの上で、目を開いていた。何も言わない。何も食べない。何もしない。ただ、目を開いている。


「レイス様」


「何だ」


「何かお手伝いできることはありますか」


「いいえ。何もない」


「そうですか」


「ミーナ。お前に、何かを求めるべきではない。これは、俺の責任だ。領地の統治。王家への対応。これは、すべて、俺の判断で、ある」


「そうですね」


「だから、お前は、何も言わなくていい。何も判断しなくていい。ただ、そばにいてくれればいい」


「わかりました」


「本当か」


「はい」


 彼は、また、目を閉じた。でも、眠ったのではなく、考えていたのだ。



 一日目の夜。彼は、何も食べなかった。何も言わなかった。ただ、ベッドの上で、目を開いていた。考えているのか。それとも、考える力を失っているのか。



 二日目の朝。彼は、起き上がると言った。


「起き上がりたいのですか」


「ああ。書斎に。使いを出す。本国に。返答を」


「かしこまりました」


 でも、彼が立ち上がる時、杖を握る手が、震えていた。


「でも、ミーナ」


「はい」


 彼は、書斎に向かう途中で、止まった。


「俺は、何を返答するべきか、わからない」


 その時、私は、何かが、違うと気づいた。彼の様子が。彼は、判断を、誰かに求めていた。でも、それは医者ではなく、家臣ではなく、私だった。


「レイス様」


「何だ」


「あなたは、どうしたいのですか」


「え」


「王家に領地を譲り渡したいのですか」


「……いいえ」


「では、譲り渡さないのですか」


「……」


「あなたが望んでいることが、わかれば、その方法を、見つけることができるはずです」


 彼は、私を見た。目には、涙があった。


「お前が、決めるのか」


「いいえ。あなたが、決めてください。これは、あなたの領地だから」


「……そうか」


 彼は、身を起こした。杖を握った。書斎へ向かう彼を、見送った。この領地の主人は、彼だ。誰でもない。彼だ。



 数時間後。彼は、書斎から出てきた。


「返答を、決めた」


「かしこまりました。何でしょうか」


「本国に、書面で、返答を送る。領地の行政権は、一切、譲り渡さないと」


「かしこまりました」


「だが。だが、だな。もし、王家が、別の形での支援を望むなら、その形を、聞きたい。と」


「かしこまりました」


「ミーナ。お前は、何か言いたいのか」


「いいえ。あなたが、決めたのですから」


 彼は、微笑んだ。でも、その微笑みは、疲れていた。



 午後。使者に返答を預けた。彼は、去った。レイス様は、疲れきっていた。


「休んでください」


「そうだな」


 彼は、ベッドに戻った。でも、その時、彼は言った。


「ミーナ」


「はい」


「お前だけだな。俺を、病人扱いしないのは」


「え」


「ほかの者は、みんな、俺の病気を、考慮して、話す。だから、俺は何も言えない。何も判断できない。でも、お前は、違う。お前は、俺に、『あなたは、どうしたいのか』と聞いた。あたかも、俺が、普通の人間であるかのように」


「あなたは、普通の人間です」


「そうか」


 彼は、また、眠った。でも、今度は、平穏な眠りに見えた。



 夜。マルタが、台所で、言った。


「先生が、返答を送ったんですね」


「ええ」


「王家のお話を、ね」


「そうです」


「大変だ。先生も。でも」


 マルタは、笑った。


「大変なことに、ちゃんと向き合ったんだ」


「はい」


 パウレッテは、パンを焼いている。いつもより、一枚多く。「領地の主人は、強い」と、彼女は、そう言うように。ヨハン老執事は、紅茶を用意している。いつもより、丁寧に。「領地の主人は、決断した」と、彼のしぐさが、そう言っている。


 私は、ここにいる。彼の側に。彼が、何かを決断する時。彼が、何かに直面する時。彼が、病気と闘う時。それすべてに、寄り添う。それが、私の役目だ。それが、私の仕事だ。前世での職業は、介護士。この世界での職業は、看護係。でも、正直に言えば、それ以上のものだ。彼が、望むもの。それが、今の私だ。

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