第1話 あなたがいると安心する——その言葉の重さを、私はまだ知らない
「あなたがいてくれると安心するわ」
それが、前の人生で最後に聞いた言葉だった。
特別養護老人ホーム「ひだまり」の三〇二号室。窓の外では桜が散っていて、消毒液の匂いの奥にかすかな花の気配がした。ベッドの上の小さなおばあちゃんが、枯れ枝みたいな指で私の手を握って、そう言った。
名前は、もう思い出せない。ごめんね。
でも、あの指の細さと、手のひらの温かさだけは覚えている。
次の瞬間、私の意識は途切れた。
過労による心不全。享年三十歳。
まあ、介護士としては平均より少し早いリタイアだったと思う。
十二時間勤務を週五日。夜勤明けにそのまま日勤に入る週が月に二回。休日は洗濯とコンビニ弁当。それが六年続いた。よく持った方だ、と今なら思える。
そして。
目が覚めたら、子爵令嬢だった。
ブルーム子爵家の一人娘、ミーナ・ブルーム。前世の記憶は五歳の頃にぼんやりと蘇って、「ああ、転生ってやつか」と妙に冷静に受け止めた。前世で読んだ漫画にそういうのがあった気がする。
ただ、この世界の私には、何の取り柄もなかった。
魔力は平均以下。剣術の才能はゼロ。社交術は「いてもいなくても変わらない」レベル。社交界では「ブルーム子爵家のお嬢さん」としか呼ばれない。名前すら覚えてもらえない。
唯一よかったのは、子爵邸の隣にある大きな屋敷、アルヴァーン侯爵家の男の子と、幼い頃に友達になれたことだった。
レイス・アルヴァーン。
身体が弱くて、外で遊べなくて、いつも屋敷の庭で本を読んでいた男の子。私が垣根の隙間から覗くと、「何してる」と不思議そうな顔をした。
それが始まりだった。
レイスの隣に座っていると、不思議と彼の咳が減った。私はそれを「気のせい」だと思っていたし、レイスは何も言わなかった。ただ、毎日私が来るのを、庭の椅子で待っていた。
帰り際にいつも言った。「ミーナがいると安心する」と。
前世のおばあちゃんと、同じ言葉。
でも。
十歳を過ぎた頃から、会えなくなった。侯爵家と子爵家の身分差は年齢とともに壁になり、社交界に出る年齢になってからは、レイスは病を理由に公の場に姿を見せなくなった。
噂だけが聞こえてきた。「アルヴァーン侯爵家の嫡男は長くない」と。
◇
「ミーナ。あなたに縁談が来ているの」
母の声は、いつもより少しだけ高かった。リンデン茶のカップを持つ手が微かに震えているのを、私は見逃さない。介護士の職業病だ。人の手の震えには、嫌でも目がいく。
「相手は……アルヴァーン侯爵家のレイス様よ」
レイス。
その名前を聞いた瞬間、耳たぶが冷たくなった。それから、妙にお腹が空いた。前世で食べた年末のおせちの黒豆の甘さを思い出した。脈絡はない。人は動揺すると変なことを考える。
「レイス様は……お体が」
母が言い淀む。父は窓の外を見ている。
知っている。侯爵家の跡取りなのに、幼い頃から病弱で、社交界にほとんど姿を見せない。婚約者だった公爵令嬢、カタリーナ・ホーフェンは、彼の病を知って逃げるように婚約を破棄した。
だから嫁の来手がなくて、王家が「誰か適当な令嬢を」と押し付けてきた。
適当な令嬢。私のことだ。第二王子エドワード殿下が「ブルーム子爵家の娘がちょうどよい」と推薦したらしい。ちょうどよい。まあ、取り柄のない令嬢を体よく片付けたかったのだろう。
「断っても構わないのよ」
母の目が赤い。この人は私が「病人の世話係」として売られるのだと思っている。
「行きます」
「……え?」
「行きます。受けます」
即答だった。
母が目を丸くしている。父も窓の外から振り返った。まあ、そうだろう。取り柄のない娘が、病弱な侯爵との政略結婚を二つ返事で受けたら驚く。
でもね、お母さん。
ごめん。これは同情でも義務感でもない。
あの子の隣に、もう一度座れるなら。
政略結婚でも何でもいい。
◇
馬車は三日間走った。
王都を離れ、北東へ。景色がだんだん変わっていく。平野から丘陵地帯、そして深い森。御者が「今夜は宿場で休みます」と言うたびに、私は小さな宿の固い寝台で目を閉じた。枕が薄くて首が痛い。もっとましな枕が欲しかった。
四日目の朝。馬車の窓を開けると、空気が変わっていた。
冷たくて、甘い。
草と、土と、何か花のような。銀木犀だ。秋に咲く花だと、昔レイスが教えてくれた。
そして、霧。
銀色の霧が、森と丘を覆っていた。朝日を浴びた霧の粒が一つ一つ光って、どこか懐かしい光景に似ていた。温かい朝ごはんの匂いを思い出す。焼き鮭と味噌汁と……何を考えているんだ、こんな時に。
「銀霧の領地でございます」
御者の声で、馬車が速度を落とした。
◇
アルヴァーン侯爵邸は、石造りの屋敷だった。壁に蔦が這い、屋根の石瓦は苔むして、どこか古い教会のような重みがある。前世のワンルームが何個入るだろう。三十個くらいか。いや、もっとか。数えても仕方ない。
門をくぐると、使用人たちが整列していた。十五人ほど。一人ずつ顔を見る。これも職業病だ。
微笑んでいる。でも目が笑っていない。「また来たか」という空気。前の婚約者が逃げた後に押し付けられた政略結婚の花嫁。そりゃ歓迎ムードにはならない。
一人だけ、白髪の執事が穏やかな目をしていた。
「……ミーナか」
声がした。
玄関の奥、薄暗い廊下から、杖をついた人が歩いてくる。
一歩ごとに杖の音が石の床に響く。こつ、こつ、こつ。
痩せていた。
頬がこけて、手首の骨が浮いている。二十三歳だと聞いたけれど、もっと年上に見える。かなり痩せている。同年代の男性としては明らかに痩せすぎだ。
でも。
目だけは、変わっていなかった。
暗い緑色の瞳。五歳の私に「虫、怖いか」と聞いてきた時と、同じ目。あの頃より疲れた色をしているけれど、奥の方にある穏やかな光は同じだ。
「……十年か」
レイスが言った。
「随分遅かったな」
少し斜めに口角が上がる笑い方。あの頃と同じ。
ただ、その笑い方の奥に、「もう長くない」と覚悟した影が、うっすらと見えた。
介護士の目は、そういうものを見逃さない。
私は何か気の利いたことを言うべきだった。「お久しぶりです」とか「お体の具合はいかがですか」とか。侯爵夫人になる人間として、もっとちゃんとした挨拶を。
「——ただいま、です」
出てきたのは、そんな言葉だった。
レイスの目が、ほんの一瞬だけ見開かれた。
杖を持つ手が、少しだけ力を失ったように見えた。
「……ああ」
短い返事。短すぎる。でも、その声は少しだけ、ほんの少しだけ、震えていた。
「おかえり」
銀霧の向こうで、冬薔薇が静かに蕾をつけていた。
その花がレイスの手で植えられたものだと、私はまだ知らない。




