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『STEAMPOCALYPSE』(スティーモカリプス)  作者: ひかみ
『白き沈黙、鉄の呼吸 ―蒸気暦(スチーム・エラ)の夜明け―』

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3/3

冷たい名刺

下層居住区(スウェット・クラス)

六波羅Industryの送迎バスを降りた瞬間、進は「白い闇」に呑み込まれた。  地上は摂氏120度の過熱蒸気が支配する死の世界だが、この地下居住区「スウェット・クラス」もまた、緩やかな地獄に変わりはなかった。


かつての地下鉄構内や地下街を強引に拡張したこの場所には、岩盤の隙間から染み出した地熱と、劣化した配管から漏れ出す蒸気が滞留している。  通路の脇には、かつて世界を繋いでいた光ファイバーや電力ケーブルが無残に垂れ下がっていた。高湿度と塩分を含んだ熱気によって、現代文明の神経系はすべてショートし、腐食し、今はただカビのエサと化している。代わりに壁を這うのは、溶接されたむき出しの真鍮蒸気パイプだ。それはまるで、無理やり繋ぎ合わせたバイパス手術のような、歪な生命維持装置だった。


進は吸湿布を巻いた布を外した。外の「濡れた空気」を直に吸い込めば、肺胞に水分が溜まり、陸上で溺れ死ぬことになる。  とは言え居住区はそこまで湿度が高いわけではないが、不快指数が相当高いのは間違いない。濡れた布をずっと巻いているのにも限界が来たようだ。 「乾いていること」こそが富と階級の象徴であり、進のような退役兵が住む区画には、そんな贅沢は微塵も存在しなかった。


錆びついた鉄扉を背中で押し開けると室内にも熱気が停滞していた。


「あ、おかえり進ちゃん!……面接、どうだった?」


 部屋の奥、薄暗いカドミウム灯の下で明日海(あすみ)が顔を上げた。  戦死した親友・和也の妹。兄によく似た涼やかな瞳が、期待と不安を混ぜた眼差しで進を見つめる。


「ああ……まあ、感触は悪くなかったよ」


進は嘘をつきながら、左手一本で不器用に上着を脱ごうとした。しかし、湿気を吸って重くなった布地は鉛のように肌に張り付き、思うように動かない。右袖が虚しく宙を舞い、バランスを崩した進は壁に肩を強くぶつけた。利き腕を失った男にとって、この物理法則と摩擦がすべてを支配する蒸気文明での生活は、あらゆる動作が自分の無力さを認識させられる。  明日海が駆け寄ろうとするのを、進は片手で制した。


「大丈夫だ。……それより、夕飯にしよう」


卓上に並んだのは、 保存液に浸かった冷たい合成豆と、湿気たパン。そして、常温よりもぬるい水。  かつて人類が愛した「湯気の立つ食卓」や火を使い「煙」を立てる調理は、環境破壊に等しい。わずかな蒸気の追加が、狭い室内を、居住区を致死的な熱帯へと変え、壁を腐食させる。そして何より——。


「っ、ケホ……ッ、ゲホッ!」


明日海が激しく咳き込んだ。  古びた配管の継ぎ目から、シュウ、と白く細い糸のような漏気リークが発生している。そのわずかな「湯気」さえ、彼女の病んだ肺には致命的な異物だった。


「明日海! 吸入器は?」 「……ごめん、なさい……もう、中身が……」


進は慌てて棚を漁ったが、高価な乾燥薬の入ったカートリッジは空だった。  部屋の隅で唸っていた小型冷却機が、断末魔のような金属音を立てて停止したのはその時だった。静寂が訪れた直後、地下世界の「重圧」が熱波となってなだれ込んでくる。


「進ちゃん……、苦しい………」


明日海の手が、進の左腕に縋り付く。  その細い指先の熱が、進の脳裏にある記憶を呼び覚ました。2041年、鉄の谷。瓦礫の下で同じように自分を呼んだ、和也の最期の時と重なる。 左手一本で彼女の背中をさすることすら、今の自分には満足にできない。


「……クソ……ッ!」


進は床に膝をつき、己の右腕があった場所を強く握りしめた。  幻肢痛が、激しい火花を散らす。かつての感覚が今、猛烈に「力」を求めて咆哮していた。


その時、進の胸ポケットから一枚のプレートがこぼれ出た。  六波羅Industry、柳生の名刺。  周囲の空気はむせる程ぬるいと言うのに、その真鍮の塊だけは氷のように冷徹な温度を保っていた。贅沢な「冷たさ」だった。


進は名刺の角が指に食い込むほど強く握りしめた。


「……明日海、ごめんな」


進は背後で扉が閉まる音すら待たず、湿った廊下へと飛び出した。  背中越しに聞こえる明日海の苦しげな咳が、心臓を直接掴まれているかのように痛い。


居住区の通路は、先ほどよりもさらに視界が悪くなっていた。どこかの基幹パイプが破裂したのか、天井からは熱湯に近い雫が滝のように降り注いでいる。  進は泥濘(ぬかるみ)と化した床を、右肩の空白にバランスを乱しながら猛然と駆けた。行き交う人々が、正気を失ったような目で進を見る。この高湿度の世界で走ることは肺に水を入れるような自殺行為に等しい。だが、今の進にとってはどでもよかった。


中央広場――とは名ばかりの、剥き出しの真鍮配管が心臓の鼓動のように脈打つ巨大な空洞。  その一角に上層階級と下層を繋ぐ唯一の神経系、真鍮製の伝声管がそびえ立っていた。

進は受話器をひったくるように掴み名刺の番号を入力した。  



「……坪内進だ。柳生さんに繋いでくれ」



音声を伝える管の向こう側から、いくつもの機械的な接続音が響く。やがて、ノイズの向こうから、あの氷のように整った声が聞こえてきた。


『お早い決断でしたね、坪内さん』


柳生の声だ。彼は最初から、進が今日中に電話をかけてくることを確信していたのだろう。その余裕が、今の進にはたまらなく忌々しく、そして頼もしかった。


「……条件だ。今すぐ、俺の家に乾燥薬と最高級の冷却機を送れ。明日海を……親友の妹を、救え。それができるなら、俺の身体はどうなっても構わない」


『取引成立です。既に医療班は動かしました。彼らは間もなく貴方の家に到着し、彼女を我が社の医療カプセルへ収容するでしょう。……それで、貴方のほうのお覚悟は?』


柳生の問いに、進は一瞬だけ、かつて戦場に散った戦友たちの顔を思い浮かべた。  人間であることを捨て、六波羅の「規格」となる。それは、自らの意志を、血を、尊厳を、すべて高圧蒸気の歯車に捧げることを意味する。


「……あぁ、出来ている」


進の言葉に、受話器の向こうで柳生が低く笑ったような気配がした。


『承知致しました。では、その真鍮の名刺を管の横にあるスロットへ。それが貴方の「地獄への片道切符」になります』


言われた通り、進は震える手で名刺を差し込んだ。  ガチリ、と機械が名刺を噛み潰すような音が響き、スロットから赤い光が溢れ出す。それは進の網膜を焼き、契約が不可逆であることを告げる刻印のようだった。


『明日、午前零時。送迎バスが同じ場所へ迎えに行きます。……坪内さん、いえ、六波羅Industry・特別執行官殿』


柳生の声が、これまでになく冷徹な重みを帯びる。


『ではまた明日、弊社でお待ちしております』


通信が切れた。  後に残されたのは、配管から漏れ出す蒸気の虚しい音だけだった。  進は受話器を置き、自分の左手を見つめた。掌は汗と油で汚れ、ひどく震えている。    広場の天井を見上げると、厚い岩盤の向こう側に、明日を拒むような過熱蒸気の雲が渦巻いているのが見えた気がした。  もう、後戻りはできない。  進は、重く湿った空気を肺いっぱいに吸い込んだ。これが「人間」として吸う、最後の空気だと自覚しながら。


 

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