猿の気まぐれ
「なんで俺様が、こんな雪山歩いてんだよ……」
誰もいない、吹雪き荒れる森の中。
ぶつぶつ文句を言いながら、金色の猿は腰まで雪に埋もれた道なき道を進んでいた。
かつては筋斗雲一つで三界を駆け回った男。
だが今はただの獣。凍え、空腹に苦しみ、氷の枝に頭をぶつけては罵声を吐く。
「クソが……食いもんもねぇ、寝床もねぇ……何が“異世界”だよ、ふざけやがって……!」
ガチガチと震えながら歩いていたそのとき——
「た、助けてぇえええええ!!」
遠くから、悲鳴が聞こえた。
「……は?」
悟空はぴたりと足を止める。
また、声。
「誰かぁっ! 村が、怪物に……!」
吹雪の中、必死に走る少年の影が見えた。
まだ十にも満たぬ小さな人間の子。足元もおぼつかず、転びそうになりながら助けを呼び続ける。
「……ほーん。こいつが最初の“試練”ってワケかよ」
誰にともなくつぶやき、悟空はその場で立ち止まった。
「——知らねぇな」
そっぽを向いて歩き出す。
だが、数歩進んだところで……足が止まる。
うるさい風の音。冷えて痛む腹。震える肩。
「……チッ。俺様のメシが食われてたらシャレになんねぇしな」
口ではそう言いながら、悟空はくるりと踵を返し、少年の方へと歩き出した。
「おい坊主! 村に飯はあんだろうな」
* * *
少年の案内でたどり着いた村は、すでに半壊していた。
吹雪に包まれたこの異世界の小さな集落は、どうやら強い何かの襲撃を受けたらしい。
「で、なんだあれは……」
遠く、村の中央に見える黒煙。
その中に、黒い影がうごめいていた。
——巨大な狼。
目は血に染まり、牙は鋭く光る。
まるで、地獄の怪物のような姿だった。
「そんな……! まさかもう村のみんな……」
震える少年の隣で、悟空は鼻を鳴らした。
「おい坊主。お前、この俺様を誰だと思ってんだ?」
「え……?」
「最強の斉天大聖様だぜ。雑魚一匹に負けるかってんだよ」
そう言い放ち、悟空は雪の上を蹴った。
だが次の瞬間、重力がずしりとのしかかる。
体が重い。封じられた力は、やはり戻っていない。
「クソ……!」
動きは鈍く、思うように体は動かない。それでも——
「うぉぉおおおおおおっ!!」
叫びながら飛び込んだ。
全盛の力はない。如意棒もない。妖術もない。不死の肉体もなく、あるのはただの拳と、猿の体に染み付いた反射神経のみ。
「ガルルルゥア!」
魔狼が唸り前足を振るう。
一撃を紙一重でかわすが悟空はすぐに理解した。
“当たれば死ぬ“と。
悟空の身体に死の緊張が数百年ぶりに走る。
「ふざけんなよ犬畜生がァ……あの程度の攻撃が今の俺には致命傷とはよォ」
悟空は力を失う前は不死であった。故に攻撃への警戒が他の妖怪や魔物よりも雑な傾向にある。
「グルルゥガァ!!」
ブンッ! とさっきよりも大きく前足を振るう。
「やべっ」
ゴォッ! と鈍く大きな音が村全体に響き渡る。直撃だった。
不死の癖が抜け切らず、大振りに当たってしまう悟空の悪癖。以前の肉体ならば、びくともしなかった攻撃にも、今では為す術なく吹き飛ばされ森の奥へと消えた。
「そ、そんな……。おじさん……」
悟空が消え魔狼のターゲットは少年へと向けられる。
歳にして十にも満たぬ少年に為す術などあるはずもない。
「ガルルルゥ……」
「あ……ああ……」
魔狼は低く唸りをあげ少年の元へとにじり寄ってゆく。『捕食者と獲物』末路はもう決まっていた。
「ごめんなさい!!」
しゃがみ込む少年に容赦無く魔狼が飛びかかるその刹那、魔狼の頭に拳サイズの石がゴッ! と音を立てヒットする。
「よお、こっちがまだ終わってねぇだろクソ犬」
森の茂みから、血で真っ赤な猿が不敵に笑い魔狼を挑発しながら石を握る。
魔狼は怒り狂い悟空へと猛進する。
「けっけっけ! 上等だかかって来いよ! 俺様は『斉天大聖』孫悟空様だ!」
そう叫び、石を握った拳を向かってくる魔狼に放つ。全盛の一撃に比べれば撫でるよりも脆弱なか細い攻撃。
だが、その一撃は——
魔狼の片目を潰し、撃退するには十分だった。
隠れて見ていた村の者たちは驚愕し、何より近くで見ていた少年は目を丸くして言った。
「す、すごい……おじさん、本当のほんとにすごいよ……! 勇者様みたいだ!」
「ぜぇはぁ……だろ? 俺様はーーん? お、おじ……っ!? 誰がおじさんだこのガキャア!!」
怒鳴り返す悟空の拳から、かすかに金色の光が立ちのぼる。
——封じられた力のほんの欠片。
「……なんだ、今の」
光はすぐに消えた。だが悟空は気づいていた。
力が、ほんの少しだけ戻っていたことに。
「……チッ。めんどくせぇけど……これがカギかよ」
善行。成長。心の変化。
悟空はその意味をまだ知らない。だが、何かを掴みかけていた。
そして——
「おいクソガキ。礼なら飯でいい。腹減った。食わせろ」
「う、うん!!」
少年の顔に笑顔が戻る。
悟空はあくまで気まぐれで助けただけだったが、その一歩が、この異世界での彼の“最初の成長”だった。