侯爵令嬢マティルダの最期
マティルダのざまぁです。
「マティルダ様、お願いです、立ち去ってください。これ以上、ここにいられては──」
城下の屋敷街にある小さな薬屋の娘が、戸口で泣いていた。
ボロを纏った女が、その前に立ち尽くしている。
髪はかつての燃えるような赤ではなく、煤けた藁のよう。
華やかなドレスも、もうどこにもない。
侯爵家が没落して三年。
マティルダ・フォン・ブライアの名は、いまや「詐称聖女」として、子どもたちの怪談話にすらなるほどの“呪い”のような存在となっていた。
初めの一年は、故郷の片田舎に逃げた。
だが彼女を受け入れた親族も、やがて「神の裁きが下る」と言って手のひらを返した。
次の年には、都市の貴族を頼ろうとしたが、門前払い。
仕事すら与えられないまま、彼女は路地裏の廃墟で暮らすようになった。
「なぜ……わたしがこんな目に……」
彼女は誰よりも誇り高かった。
美貌に恵まれ、学び、身分も才能もあると信じていた。
それが今や、腐ったパンを奪い合う日々。
それでも、彼女は認めなかった。
「リュシアのせいだわ……あの女がすべてを奪った……」
呟く声は日に日に濁り、やがて喉を焼くような恨みに変わっていく。
ある夜、彼女はひとつの噂を耳にする。
──北の地で、聖女が“神の泉”を開いたらしい。
──病が癒え、土地が豊かになった、と。
それを聞いた瞬間、マティルダの顔に狂気が宿った。
「そう……ならば、奪えばいい。神の力を、今度こそ……私が」
深夜、マティルダは北へ向かった。
朽ちかけた馬車を拾い、道なき道を歩き続けた。
誰も彼女に助けの手は差し伸べない。
神に見放された女に近づけば、自分まで呪われると皆信じているからだ。
北の泉に着いた時、彼女の足元は血で濡れていた。
裸足だった。髪は抜け落ち、手は震えていた。
そこには──聖女の姿があった。
リュシアは、子どもたちに手を差し伸べ、民と共に野草を摘んでいた。
その背は、光に包まれていた。
「……リュ、シア……」
もはや自分の声ですらない。
マティルダは叫びたかった。
訴えたかった。奪いたかった。
でも、口が動かなかった。
彼女の中で何かが壊れていた。
──どうして、私はあのとき微笑まなかったのだろう。
──どうして、勝ち誇ることでしか、自分を保てなかったのだろう。
聖女と自分が大きく隔たっていることに、ようやく気づき涙がこぼれた。
「マティルダ……?」
リュシアが彼女に気づき、駆け寄ろうとした。
「……助けて……」
マティルダが絞り出すように言った瞬間──
突如、空が唸った。
空からは雷鳴が轟き、泉の水面が激しく打った。
マティルダの身体が跳ね、衝撃に胸を押さえた。
神の裁きが、再び下されたのだった。
「……ごめんなさい……」
最期の言葉は謝罪だった。マティルダは、地に吸い込まれるように崩れ落ちた。
泥に塗れた顔は、もはや誰の記憶にも残らなかった。
その日以降、泉のほとりには、白い百合が咲くようになったという。
それは人々の間で「贖罪の花」と呼ばれた。
だがその名前を口にする者は、誰もマティルダという名を知らなかった。
彼女の最期もまた、名もなき死として消えたのだった。
お読みいただきありがとうございました!これにて完結です!