4.聖女の決断
神殿の奥深く、神託の間。
リュシアはひとり静かに跪き、祈りを捧げていた。
「……神よ。どうか、迷える人々を導いてください」
その言葉に応えるように、空間に微かな風が吹いた。
花の香りを含んだ清らかな風――神の気配をはらんだその空気に、リュシアはまぶたを閉じる。
神の声は、直接音として聴こえるわけではない。
けれど、その存在は確かに感じられる。胸の奥に、温かな光のように。
「おまえは選ばれし者。されどそれは、冠ではなく灯火である」
神の声は、心にそっと染み渡った。
「他者の足元を照らすために、その光を使いなさい」
リュシアはそっと目を開け、立ち上がった。
「……はい。わたしは、聖女としてこの世界に仕えます」
神殿ではすでに、彼女の神託をもとにさまざまな改革が進められていた。
病者の癒し、民の嘆きへの傾聴、戦災孤児の受け入れ――。
かつて聖女という役割が、ただ象徴でしかなかったことを思えば、今やリュシアの存在は「変革そのもの」だった。
王宮からの密使がやってきたのは、その日の午後だった。
「リュシア様、第一王子殿下より伝言を賜っております」
使者は丁重に頭を下げ、王印のついた書状を差し出す。
そこには、こう記されていた。
『──姉上、よろしければ、王宮に戻っていただけませんか。
神殿と王家との橋渡しを担ってほしいのです。
この国は、貴女のような誠実な聖女を必要としています。 』
第一王子カシウスは、かつては静かな青年だったが、アルフォンスの失脚後、急速に政治の表舞台へと姿を現した人物だ。
リュシアはしばし黙読し、やがて穏やかに笑った。
「……やさしい人。でも、わたしはもう、王宮には戻りません」
使者が驚いた顔をする。
「な、なぜでございますか? 現在の聖女としての影響力をもってすれば、国の中枢にも……」
「わたしは、“光”でいたいのです。玉座に近づけば、影が濃くなります。
誰かの心を照らす光であり続けたい。それが、神に選ばれた意味だと思うの」
その答えに、使者は神妙に頷くしかなかった。
その夜、神殿の広場では、大勢の民が集まり、リュシアの祝福を求めていた。
「聖女様、うちの子が病気で……」
「どうか、村に神託を……」
「聖女様、お言葉を!」
無数の声に囲まれても、リュシアは一人一人に微笑みを向け、手を取り、祈りを捧げていた。
その姿に、誰もが感じるのだった。
──ああ、確かにこの人こそが、本物の“聖女”なのだと。
かつて婚約破棄され、侮辱され、断罪された少女は、
今や、民の祈りの中心にいた。
復讐も怒りも、彼女の歩む道には存在しなかった。
あるのは、ただ真摯な祈りと、神への信頼、そして──
「世界は変えられる。もし、愛と誠実があれば」
その静かな信念だけが、彼女の胸に宿っていた。