だってきみこそが勇者だから⑤
翼獅子の襲来は、風切音とともにやってきた。
おれたちはとっさに身を伏せて攻撃を躱したが、そのときになんとなく感じた違和感についてようやく確信する。
──こいつ、稲妻を使う気がない。
おれたちの村を襲ったとき、こいつは間違いなく殺意があった。確実に人間の世界を滅ぼそうとする強い意志のようなものを感じた。だからみんな〝その瞬間〟が訪れるまで気づかなかったのだ。
それが、微塵も気配を感じない。ラナも生きていたし、さっきの上空からの襲来も、どちらかといえばおれたちに自分の存在を教えようとしているみたいだった。
翼獅子は山の頂上付近の窪地のへりに向かって飛んでいき、やがて降り立った。
ラナは、その背後に隠れてしまう。
なぜ彼女が逃げられないのか、武器も持たず、鎧もなく、ただ無力に陸の孤島に立たされている。彼女は決して無力じゃない。にもかかわらず、金縛りにあったみたいにその場から離れられないようだった。
背後でみんなが一斉に身構える。
「手を出すな」
おれは一歩前に進み出た。
「アウル」
「ディー、気づかないのか。あいつは──」
「何をするのかわからない。やつは見た目よりも狡猾で、人の情など理解しないぞ。イシュテルのことを忘れたのか?!」
「忘れてない。だが、その話はやめてくれないか」
一瞬だけ、ディーを見た。
「いまはラナのことを助けたいんだ」
そうだ。おまえはいつまで過去に囚われているんだ?
言葉の外にその想いを込めて、宣言する。現在を生きるもの、過去に生きるもの。その違いを目の当たりにしているみたいで──
《そうね。賢明だわ、勇者アウル》
どこからともなく声がする。
一瞬混乱したが、それは翼獅子から発せられたものだと気づいた。向こうから話しかけてくるなんていままでにないことだった。
だがそんなことは問題じゃなかった。むしろ──
「なんでオマエが彼女の声で喋るんだ」
背後でディーが憤りの声を上げる。
そう、なにを言えばいいのか。
翼獅子の声が、イシュテルの声そっくりだったのだ。
こんなこと、おれとディーにしかわからない。だが、あまりにも、おれの心の底でくすぶっているものを焚きつけるに充分すぎた。
拳を握る。握りしめる。
「なぜだ」
《なぜ、とは?》
「なぜオマエは罪もない人間を殺し、この王国を滅ぼそうとし、おまけにおれたちまでむやみに傷つけようとする?」
哄笑。けたたましい嘲りが含まれた、苛立ちすら感じる嫌な嗤い声。翼獅子は牙を剥き出して口を開いた。
《罪がない? 罪が、ない?》
くくく、と嗤うそれは、まるで人間の意志が込められているみたいだった。
《この世界には罪のあるものしかいない。おまけにその罪を自覚すらしていない。アウル、あなたもよ》
「……おれが?」
《ああ、純粋な子どもだこと》
翼獅子の眼は油断なくおれを見ている。その眼と向き合ううちに、おれはだんだん自分の意志が鈍るのを感じた。
「おれが、どうして」
《あなたが分不相応な夢を語らなければ、わたしは目覚めることがなかった。あなたが夢を諦めなかったから、わたしは目覚めざるを得なかった。あなたが真実を知ろうとしなかったから、わたしはこうして言葉を持たなくてはならなかった》
どういうことだ?
おれは一瞬だけディーに目配せをする。
しかしディーも、もの問いたげにおれを見ている。
「おれが、おれが何をしたって言うんだ」
「惑わされてはだめ!」
ラナだった。
「この怪物が言っていることはすべてまやかしにすぎない! きみが勇者になりたいことと、怪物が出現したことに関係はない!」
《黙りなさい小娘!》
翼獅子の前脚が、ラナを殴り飛ばす。ラナは無防備にもそれを受けて、地面に這いつくばっている。
どうしてだ、どうしてなんだ、ラナ。きみはそんな受け身じゃなかったはずだ。いつものきみなら──
「くそっ」おれはつい剣を抜いた。
振り返っておれを見た翼獅子は、喜びを満面に浮かべたように牙を剥いた。
すかさず間合いを詰める。翼獅子は飛翔のために前方に駆け出した。
「アウル! 伏せろ!」
言われたとおりにした。そして矢が空を切ると、翼獅子めがけて飛んでいくのを見た。
ところが、矢は見えない壁によって阻まれたかのように、軌道を捻じ曲げられた。
落ちる。
「なッ」
《無駄よ。あの日のわたしとは別物だから》
そうこうしているうちに、翼獅子とおれの間合いが詰まった。
とっさに剣をふるった。その剣は志願兵になってから何度もおれの手元にある、ごくありふれた剣だった。その剣すらも翼獅子の手前で固い壁のようなものに阻まれ、おれは強い衝撃とともに、腕から剣を取り落とした。
翼獅子は嗤っている。
《だから無駄だって言っているでしょう》
屈辱だった。あの日から──いやあの日よりも無力な自分に。
そしてそれをいたぶるのが、守れなかったイシュテルの声だということに。
「うおおおおお!!!」
ディーが、必死の形相でやってきた。
だが、結果は同じだ。
どれだけの技量で刃先を当てようとも。
どれだけの力で刀身を振るおうとも。
見えない壁は依然、見えない壁としておれたちの攻撃をはばんでいた。
おれも途中から乱入し、前と後ろで挟み撃ちするように精いっぱい戦ってみた。
だが、だめなのだ。
そもそも鉄で太刀打ちできていない。
やがて疲れが溜まり、一瞬だけ動きが鈍くなる。そこを、前脚と後ろ足が同時におれたちの胴に食い込んだ。
勢いよく吹っ飛ぶ。
激痛が走る。
しかし、前脚は爪、後ろ足は蹄にあたる部分が、決して致命傷にならないようにうまく力の加減がなされていた。
まるで、だれかから「殺すな」と含みおきされていたかのようだった。
《あなたは……知りすぎたのよ》
なにを? なにをだ?
《あなたはいずれたどりつくでしょう。この世界の真相に。でも、それが救いにつながるとは限らない。だから──》
そこから先に続く言葉は、おれにとっても予想外の言葉だった。
《わたしを斃して、それでお仕舞いということにできないかしら?》
「……は?」
何を言っているんだ?
《あなたはわたしを憎んでいる。それはそう。だってわたしはあなたの故郷と幼馴染を殺したから。でもね、それ以上は探らないでほしいの。怪物はわたしを含めてあと二体。でも、もう特に王国の民に目立った害をなしていない。だって、あなたが頑張って、ほかの怪物を斃したんだもの。もう懲り懲りだわ。だから、あなたはあなたの宿敵を斃して、それで世界を元通りすればいい。そのまま平和な世界に還ればいい。あとのことは何も知らない。考えない。それが一番なのよ》
翼獅子が言っていることが耳を素通りする。つむじ風が外套のなかの熱を奪い去っていくかのように、おれの心の怒りを冷ます。
しかしそれは決して冷静になるという意味じゃない。恨みでも、むかつきでもなく、もっと深いところから沸騰してくるような、強い怒りだった。
《こういうのはどうでしょう? わたしたちは竜の巣山で激しく戦い合って、ベッソン家中の人間を含む大勢の犠牲者を出し、かろうじて勝利した。しかし勇者アウルは〈折れた剣〉を携え、その剣の力によって翼獅子を斃した。勇者アウルは女騎士ラナ・オーエンハイム嬢を奪還し、その後末永くしあわせに暮らしましたとさ──こういうお話は、みんなが喜ぶわ。あなたも、わたしも》
おれはようやくある疑問に至った。
「おまえはだれだ」
最初からこれを訊くべきだったのだ。
怪物は初めて嬉しそうに微笑んだ。
「だめ! そいつに名乗らせてはだめ!」
ラナが、また叫んだ。
彼女は必死におれに近づいた。それを翼獅子はいかにも憎々しげに、後ろ足で蹴散らす。また彼女は無防備にやられている。いったい、どういうことなんだ──
「ラナ、なんできみは戦わない?」
思わず言ったこの言葉に、自分でも驚くしかなかった。
そうなのだ。彼女は明らかに戦おうとしていないのだ。
「わたし、わたしは……」
倒れ伏した場所から、全身を震わせて、ラナは言葉を選んでいた。
それを翼獅子は嗤った。
《べつに隠すつもりはない。だが、ラナ・オーエンハイム、きみが口止めしたんだからな。きみが言うべきか否かを判断してくれればいい》
おれはラナを見た。
そこで見た彼女は、いままで見たことのないほど衰弱しきっていて、思い詰めたような面持ちだった。
「ラナ……なにが」
なにがきみをそんなに追い込んでしまったんだ?
肘を抱きかかえ、震える。煮詰まってない考えを必死に言葉にしようとするときの焦りがそこにあった。青灰色の髪がいまとなっては痛々しいほどの色味を添えて、血の気の失せた顔を際立たせた。
彼女のなかには何かがあった。確信めいた何か──それは間違いなくこの怪物の正体についての確信だった。だが、彼女はそれを口にするのをためらっている。まるで、自分にそれを語って、指差すことに後ろめたさがあるようだった。
おれは固唾を呑んで見守っていた。
というより、それしかできなかった。
剣は、もはやなんの意味もなさないこのような状況で、おれはなんて無力なんだろう。
そう思う。
痛いほど、苦しいほどに、そう思う。
「ラナ、どうして」
「だめなんだ。アウル。わたしは──」
ラナはいつしか涙を流していた。
「わたしには勇気がないんだ」
おれはいま受け止めた言葉の意味をつかむために、もう一度耳に入ったことを繰り返した。
「勇気?」
「真実を受け止める勇気だよ。真実を受け入れる勇気であり、そしてそれと向かい合う勇気なんだよ、アウル──」
おれはどうしていいかわからなかった。
でも、ラナをそっと抱きしめて、少しだけ身体を温めてあげることならできるはずだった。翼獅子の眼の前で、警戒をしながらも、そっと彼女を抱き寄せる。
そっと腕で包んだ彼女の身体は、驚くほど冷たくなっていた。瞬く間におれの体温が下がっていくのを実感する。だがそれ以上に彼女もなかで揺れている気持ちが、はっきりと伝わってきた。
これは、恐怖というほど簡単な感情ではなかった。恐れであり、悲しみであり、同時に途方に暮れているような、そんな──
《どうするの? わたしの提案を受けるのか、それとも》
「いいや」
おれは翼獅子と向かい合った。
金色の片眼が、おれを見る。
「もしおれが──この世界の異変になにか関係があるのだとしたら、ちゃんと知る。自分の手で、自分の脚で、ちゃんと真実にたどりつく。それが、どんな真実であっても」
そこで、息を継いだ。
胸いっぱいに山の冷たい空気が入り、おれの心の熱を根こそぎ奪うかのようだった。
「おれは、最後まで戦う」
背後でがくっとラナが膝を突いた。
まるでおれの言うことが最初からわかっていたかのような反応だった。
「強いんだね、アウルは」
「……」
「きみは強いよ」
「そんなこと言わないでくれ」
「……」
「おれは、ラナ、きみがいたから苦しくても戦えたんだ。きみが人の為に頑張ったその背中を見たからここまで来れたんだ」
「……そうか」
「そうだよ。だからさ、」
「わたしも夢の責任を取らなければならないってことだな」
ラナの面持ちが引き締まる。
「どういうことだ?」
「言葉の通りだ。この世界の〈勇者〉の物語は、最初から仕組まれていたんだ」
「だれに?」
「…………」
「なあ、教えてくれよ」
「それは言えない」
「どうして」
「言ったら、きみの決意が鈍る」
ラナは少年のように、イタズラっぽく微笑んだ。だれよりも美しい笑顔だった。
その顔が、急に引き寄せられて、おれは、ラナから強く口づけを受けたことにあとから気づいたのだった。
「愛してる」
それが最期だった。
突如として、ラナは怒り狂った翼獅子の牙に掛かったからだった。




