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自販機の妖精

作者: 杉浦ささみ

 梅雨の夜のことだった。私は大学の図書館で冒険小説を1冊、そして卒論のために学術書を2冊借りて、キャンパスの外へ通じる門に足どりを進めていた。


 ぼんやりした街灯に照らされる道には、うっかりすると踏んづけそうになるくらいナメクジが這い、棟の壁にもカタツムリがのろのろ伸びていた。傘もいらないくらいの霧雨で、月は陰っている。


 誰ともすれ違わないことに心細さを覚えながら歩いていると、道端に自販機を見つけた。街灯の柔らかい光とは違って怪しくきらめく赤。思わず私は歩み寄った。


 コーラ、緑茶、エナジードリンク、コーヒー……。ありきたりのラインナップが、逆に購買意欲をそそる。普段なら100円以上のジュースなんて素通りしてスーパーで冷えたのを買うが、今日は雨が降っていて、あちこち歩き回ろうとするのも面倒くさかったので、そそくさとサイフに手を伸ばした。


 小銭を入れる。ボタンの前に指を運んだ。ふと、自販機の内側からこつこつこつとショーケースを叩く音がした。甲虫が紛れ込んだのだろうかと思って目を凝らして見やった。女の子だった。


 本来ジュースのサンプルが飾られている空間に、場違いなかんじで閉じ込められ、右手のこぶしをケースの板に打ち付けている。助けを求めているのだろうか。


「出たいの?」


 私は聞いた。女の子は頷いた。なにか言葉を発するが、プラスチック板のせいで伝わらなかった。私は憐れんでボタンを押した。


 ぽとり、と音がして、自販機の真っ暗な取り口から女の子が顔を出す。もともと女の子がいたケースの向こうには、ペットボトルのオレンジジュース。幻でも見せられた気分だ。


「ありがとうございます」


 しゃがむと、女の子は私の手に飛び移った。モルモットみたいだった。私はまだ混乱していた。


「どうしたの、人が、それも小人のような女の子が、自販機の中に入ってるっておかしな話だよ。まるで夢を見てるみたいだ」


「それには訳があって……実は私、ジュースの妖精なのです」


 困惑したが、疲れていたので流れで納得してしまった。


「ははあ」


 だいだい色の長い髪、オレンジジュースだろう。女の子を無視する気にもなれず、私は雨に濡らすまいと前かがみの傘になる。


「近くにジュース工場がありますよね。私はそこで生まれました」女の子はぴかぴかと明滅する孤独な機械を眺めながら言った。「あそこのジュースは、結構特殊な作られかたをするんです」


「コンベアにペットボトルを進ませて、液体を注いでくのではなく?」


「あ、いやあ」女の子は首を横に振り、どうすれば伝わるのかなという風に悩みながら「そうしている地域もありますけど、うちは別です」と言った。


「なるほど。ジュースの作り方にも、たくさん方法があるんだね。私が知らないだけで」


 女の子は首肯する。「この町の工場ではまず、虹から降り注ぐ雨を回収して、タンクに貯蔵します」


「虹が雨を降らすの」


「はい。赤や緑、ピンクや黄色といった、さまざまな色水をこの町にもたらします。普通の人の目には見えず、触ることもできませんが、工場の面接に合格した人には、できるようになります。そうでないと、町の人みんな糖分でぎとぎとになってしまいますからね」


「不思議だね。面接ではどんなことを聞かれるの」


「モノクロの夢を見たことがあるかとか、幼い頃の記憶に紫色の花畑があるかどうかとか。まぁ、いろいろですね」


「なるほど」


 色に関することを聞かれるのかな、と私は思った。


「とにかく夢のある仕事なんです。タツノオトシゴのため息を炭酸にしたり、筑後川でとれるホトメキヒトデの表皮をラベルとしてボトルに巻きつけたり、それはもうすごくて」


「なるほど。こだわってるんだね」


「それほどでも」女の子は頭を掻いた。「ただ、私は工場のミスによってこんな姿になってしまいました」


「そうなんだ。ミスによって人の形を得ることがあるのかい」


「はい。作り手から愛情を注がれすぎたジュースは、人の姿になる場合があるのです。つくも神のようなものでしょうか。それを防ぐために、なるべく気持ちを抑えて作業するべしというルールも、うちの職場には、あったような気がします」


「なるほどね」私は首肯した。「ところで君は、どうして自販機の外側から見える位置にいたの。あそこにあるのは普通、サンプルだよね。ジュースって、暗いところに弾薬みたいに詰まってるでしょ」


「あれは、私が見せるちょっとした幻なんです」


「ほほう」


「あれのおかげで見つけてもらうことができたんです。ところで、さっき助けてもらったばかりでなんですが、ひとつお願いがあります。よろしいでしょうか」


「難しすぎるものじゃなければ」


 私は暇な大学生だった。家に帰っても、ご飯を食べて動画を見るくらいしかやることがない。ジュースじきじきに依頼を受けるなんて、退屈な日常と比べればかなり刺激的だった。


「もしよろしければ、私の体を人間の女の子くらいに成長させて、工場まで連れていってほしいのです」


「ええと」私は困惑した。「工場に連れていくのはべつに無理じゃないよ。帰り路の途中にあるし。でも、背を伸ばしてあげるってのは、いったいどうするの」


「うーん……」


 唸る女の子の体から、しゅわしゅわという音がする。七月中旬を彷彿とさせる、軽やかな音だ。去年かそれ以前の色水を、工場で大事に保管していたのだろうか。そんなことを想像していると、ふと私に馬鹿馬鹿しいアイディアが降ってきた。


「炭酸飲料ってさ、振ったら噴き出るよね。あれって見ようによっては大きくなるって感じじゃないかな。こう、ぶわーって、それで……」


 女の子は、はっとした顔で私を見上げた。


「その手がありました! 私を思い切り振ってください!」


「ええ、いいの。我ながらかなり苦肉の策だと思ったんだけど。なにより酔うよ」


「いえいえ画期的です。天地をひっくり返すみたいな破天荒なアイデアです」


「ならいいけど」


 当てずっぽうだなと思った。私は側溝に駆け寄り、高い高いの要領で、その子をできるだけ衣服から遠ざけて上下に振ってみた。人をこんなに振るのは、はじめてだと思った。


 女の子がぐるぐる目を回しはじめたので、慌てて止めようとした。しかし、それより先に全身から泡がはじけ飛んだ。玉手箱の煙のように、女の子をあっという間に泡が覆い尽くした。


 白波のようなそれに見とれていると、つかのま夢心地にとらわれた。というより幻覚の類だ。夏のイメージがスライドショーのように現れる。海の家で売っているブルーハワイ。大きなヒマワリ。室外機の上で休むネコ。懐かしい市民プールの塩素のにおい。


 オレンジの成分が、まとわりついて、はっとした。


 手のひらにあった質量は消えていた。その代わり、キャンパスの地面に女の子が立っている。背丈はおおよそ私の胸のところまであった。長い髪とワンピース。ぱちぱちした余韻が残っている。


「成長できました。ありがとうございます」


「ども。それじゃあ工場まで送ってあげるよ」


 私は両手にかかった甘いジュースを気にしながらハンカチで拭き取る。それでもやはり、べとべとが残る。家の鍵を出すときにポケットが汚れるなと困りながらも工場へ向かった。


「ところで君は工場に帰ってなにをするつもり。人間からまたジュースに戻してもらうの」


「いえ」女の子はふと立ち止まった。「面接を受けにいくのです。工場で働くための」


「へえ」私は相づちを打った。「今日行くのかい」


「はい、そうです」


「大丈夫なの、こんな夜中に。それに君みたいな子どもが」


「大丈夫です! ジュース工場に朝も夜も、大人も子どももありません!」


「ならよかった」


 手に付いたジュースは雨脚に洗われていた。女の子は意気揚々と口を開く。また歩き出した。


「私ですね、別にジュースとして生きるのも嫌いではないんです。色んな機械に通されて飲料としてできあがっていく感覚も、虹の橋からスカイダイビングする感覚も気持ちいいので。


 でも、工場で運ばれるうちに、働くことへと憧れるようになったのです。だって、お星さまの力を借りたり、いろんな金具でボトルの形を整えたり、休憩時間はシャボン玉を飛ばしたり。そういうのが、とっても夢いっぱいで楽しそうに見えましたので!」


 私は聞き入って、ただうんうんと感心していた。もうジュース工場は目の前にあった。パイプオルガンのような煙突が空にそびえ、入り口のわきには自販機があった。女の子は、小さく手を振りこう言った。


「ということで、今日はありがとうございました。私はこれから面接をがんばってきます」


「よしよし、健闘を祈るね。それと、くれぐれも愛情を注ぎすぎないように」


「はい!」


 自動ドアのガラスから溢れる光が、女の子に当てられた。振り向きざまの白い歯が印象深かった。私も笑顔で返した。すると女の子が言った。


「あ、あのっ。さっき言ってたお礼なんですが、どこに贈ればいいですか。住所と時間が分かれば工場の偉い人に届けさせることができます。……多分」


 私は首を傾げた。そういえばそんなことを言っていた。別にお礼を貰うほどでもなかったけど、その身振り手振りが厚意に溢れていて、無下にしようとは思えなかった。


 私はカバンの中から大学ノートとボールペンを取り出す。独り言のように淡々と住所を呟きながら、斜に破ったノートの切れ端にペンを走らせた。一画目から、小雨にインクが滲む。


「福岡県久留米市──」


「ふむふむ」


「──号室。まあ、なんというかあれだよ」そう言って私は夜の町の一点を指差した。「あのマンションみえる?」


「えーっと、あれですか」


「そうそうそこそこ。3階のいちばん左の部屋」


「なるほど、あそこですね」


「うん」


「日付の希望はありますか?」


「日付の希望……」私はあごに手を据えた。「んー、私ヒマだし別にいつでもいいけど」


「今週末、日曜なんかは」


「じゃあ、その日で」


 私は紙切れを渡した。


「わかりました! 楽しみにしててください!」


 そう言うと、女の子は駆け足で工場へと入っていった。自動ドアが閉まる瞬間に振り向き「おたしゃでー」と告げる。その顔には、変化の兆しが見て取れた。


「お達者で」


 私は踵を返した。シャワーを浴びたらすぐに寝よう。


 しばらく経ったある日。夢の中か、寝ぼけた現の中でか、私はマンションのドアホンで取引をした。そうか、届けてもらうにはこちらからカギを開けさせないと……と思っているうちにマンションの角部屋で目を覚ました。7月12日がやってきた。


 11時半くらいだった。寝ぐせのついた髪なんて気にせずに袋から食パンを1枚とりだし、ふらふらしながら窓辺に近寄り、空いた左手でカーテンをぱーっと押し開けた。


 虹がかかっていた。梅雨入り前、当然のように町を見下ろしていた、快晴の空を久しぶりに思い出した。アルミサッシをすり抜けて、聞こえよがしにセミの声が届く。入道雲は、筑紫平野の青々とした田畑のむこうに、大げさな態度で腰を据えていた。うつむいてスマートフォンに目をやった。梅雨が明けたらしい。


 約束を思い出す。暗く湿っぽい廊下を歩いた。きらきらの小さなレンズに引き込まれるように、玄関のドアノブを握る。ドアの隙間から、おうぎの形に光が差す。私はゆっくり踏み出した。


「あっ」


 私はおどろいた。マンションの通路に、私の身長と同じくらい大きなジュースのボトルがあったのだ。縦型の水槽のようだ。トパーズのように透いたオレンジは、通路の手すりをぼやけて見せる。びっしりと浮き出た結露が、新しさを物語っていた。


 手触りを確かめた。ボトルのフタは、そのまま子道具入れにできそうなくらい、サイズ感がちょうどいい。私は思わずくすりと笑った。


 運び方がわからないのを除けば、完璧なプレゼントだった。抱きついて引きずっていこうとしたところで、この暑さだと不毛な気もする。めんどくさくなって手すりに体をゆだねた。駐車場を見下ろすと、涼しげな木のそばに、かげろうに揺れる小さなオレンジを見つけた。こちらに気づき手を振る。私もそれに手を振り返すと、ちょっとちょっと、と助けを呼んだ。

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