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つらら姫はやっぱりつらら

 由香利とフードコートで別れた後、翔は自転車を引いて、鈴音のアパートに向かった。


 車通りの無い道でも何となく信号を守りながら、住宅街の道に入っていく。


 鈴音のアパートは、昨日と同じように、ひっそりしていた。


 時間も、昨日と同じ九時半過ぎ。


 電灯だけがいくつか灯り、階段と、二階の廊下をちょっとずつ照らしている。


 翔は自転車を駐輪場の壁に横たえ、階段を登った。


 二階の、階段から三番目の扉。


 『北条』の文字の記されたステンレスの表札。


 翔はその扉の前で暫く、突っ立っていたが、やがて意を決して、表札下に設置されたインターホンのボタンを押した。


 ピンポーンと、いう可愛らしい電子音が二度鳴った。


 三十秒か一分か、少し過ぎた後、小さなスピーカーから返事があった。


『はい』


 短い、きっぱりした声。


 相手が押し売りなら丁度良いが、そうでなければ何事かとたじろいでしまう、そんな圧力がある。


「あ、ええと……北条? 俺、橋爪だけど、同じクラスの」


 翔が応えると、またしばらく間を開けて、次の声がスピーカーから帰って来た。


『どういうつもりですか』


 さっきよりも戦闘力の高い声。


 完全に、怒っている。


『家にまで押しかけて。警察呼びますよ』


「い、いや、そういうつもりはなくて! あのさ、あの……従業員証!」


 なんで俺はこんなに追い詰められてるんだと思いながらも、翔は必至だった。


「あれ、下駄箱に入れたの、お前だろ?」


 返事がない。


 不安に駆られた翔は、さらに付け足した。


「昨日さ、俺、たまたまお前の事見かけたんだよ。で、なんかふらふらしてるから気になってさ。そしたら家の前で倒れたから、運んだんだよ。勝手に上がったのは悪かったけど、放っておくわけにもいかないだろ!?」


『運んだんですか』


「そ、そうだよ!」


『どうやって?』


「どうって……」


 翔は答えかけて、絶句した。


 お姫様抱っこをしたなんて、とても言えないと思った。


「そりゃ、全く触れずには無理だったよ、でも――」


『触ったんですか』


「いや、それ語弊があるから! 触ったけど、触ってないって言うか……てかお前、俺ばっか悪者にしてるけど、それズルいからな!?」


 翔が言うと、また、長い沈黙があった。


 暫くしたあと、ドアの無効に人の気配があって、それから、ガチャリと、ドアが開いた。


 ドアチェーンのかかったままの、微かな隙間の向こうから、じろっと、鈴音の睨む顔があった。


「お、おぅ……」


 翔は息を呑んだ。


「本当に何もしていませんか?」


 逃げ出すことの許されない尋問の声と視線でそう訊かれ、翔はこくこくと頷いた。


「誓えますか?」


「はい、誓えます……」


 じいっと鈴音に見つめられ、翔は蛇に睨まれた蛙のような状態だった。


 やがて、鈴音の目元が少しだけ緩み、鈴音は口を開いた。


「勝手に家に上がったことは許します」


 鈴音の言葉に、ほっと翔は安堵した。


 しかし安心すると、今度は、一方的に迫られている事の理不尽に対して怒りを覚えた。


「でもそれは、お互い様だろ? 俺だって別に、上がりたくて上がったんじゃ――」


「私は、助けてなんて、頼んでいません」


「そりゃあそうだろ! お前、寝てたんだから!」


 翔が言うと、鈴音の目が再び鋭くなる。


 翔は、あぁもうと、頭を掻いた。


 別に、鈴音を怒らせる為にここに来たわけではないのだ。まずは昨日の誤解を解くため。しかし一番の目的は、栞のことだ。そもそも昨日、このアパートまで来てしまったのは、そのことを聞こうと思ったからなのだ。


「あのさ、栞……」


「はい?」


「トビウオの」


 翔はぽつりと言って、俯いた。


 鈴音の唇がきゅっと強張る。


「貴方に関係ないでしょう!」


 突然の怒った声に、翔は顔を上げた。


「私が何を持ってたって、とやかく言われる筋合いありません!」


「そんな、とやかくなんてっ――」


 言うつもりは無いと、翔がそう言葉を続ける前に、鈴音はバンと、乱暴にドアを閉めた。


 翔は、握りこぶしを作って、そのまま閉まった扉に叩きつけようとした。


 が、結局翔は、その拳を振り上げたまま止まり、やがて緩めた。


「良い栞だなって、思った、だけだよ……」


 翔は、独り言のようにそう言うと、首を垂れた。


 それから、もうここには来るまいと決めて、扉に背を向けた。


 その時ガチャと、再び扉が、また小さく開いた。


 翔はその音に振り向いた。


 するとまた、鈴音が、じっと翔のことを睨んでいた。


 何だろうと、翔は身構えた。


 正直な所、これ以上何か言われたくはなかった。


 しかし、いつまで待っても鈴音が何も言わないので、翔が口を開いた。


「な、何だよ……」


 鈴音は、唇を二度ほど小さく開いては閉じて、やがて言った。


「もう付きまとわないでください」


 さっきまでよりも少し、高い声。


 言葉の後、鈴音はまた、じっと翔を睨むことを続けた。


「別に……」


 付きまとってるわけじぇねぇよと、翔は答えようとしたが、一旦口を閉じ、言い直した。


「わかったよ」


 翔はそう応えると、今度こそくるりと鈴音に背を向け、廊下を歩いていった。


 その背後で、小さく扉が閉まった。



 ◇



 鈴音に門前払いをされた日から二日、翔と鈴音の間には、何もなかった。


 もともとが、接点のないはずの二人である。それどころか、翔はそもそも鈴音のことを、好ましく思っていない。鈴音の人嫌いは、翔には、高嶺の花ぶった(確かに紛うことない高嶺の花ではあるが)、高慢な態度に映っていて、そういう人間を、翔は嫌っている。一緒に行動しなければならないなら、言いたいことを言いつつ上手くやるが、一緒に何かをする必要が無いのなら、わざわざ絡んだりはしない。


 『もう付きまとわないでください』という鈴音の言葉を思い出して、翔はこの二日の内に何度も腹を立てていた。こっちだって、好きで絡んでるわけじゃない。それを、「つきまとうな」なんて、勝手に他人をストーカー扱いをしやがって。


「あぁ、ムカつくな」


 土曜日の三時間目が終わった昼休み、もう何度目か、翔は鈴音のことでいら立っていた。


「なんだよ、イライラして」


 翔の前の席の総司が、笑いながらくるっと振り向く。


「あの北条って野郎、やっぱりムカつく」


 翔は、今は誰もいない鈴音の席を一瞥して言った。


「女子だから野郎じゃないけどね」


「あれ、女じゃなかったら、俺一発ぶん殴ってるよ」


「お前が殴ったらシャレにならないだろ」


 そうだけどさ、と翔は不貞腐れて口を尖らせる。


 翔は小学生時代から中学生二年生まで、空手の道場に通っていた。そのことを、総司は知っているのだ。


「また北条さんと、やりあったの?」


 総司は翔に訊ねた。


「やりあっちゃないけどさ」


 翔はそう応えてから、小さく言った。


「付きまとうなとか、言われた」


「え、付きまとったの?」


「ちげぇよ、そんなことするか」


「まぁ、放っておけばいいじゃない」


 本当にその通り過ぎて、ぐぅの音も出ない。


 しかし、そのことを指摘されるのは、翔には何となく面白くなかった。翔は、ふんと鼻を鳴らし、総司から視線を外して、そっぽを向いて頬杖をついた。


 なんだよ、と総司は笑った。


 そんなやりとりをしているうちに、四時間目の始業のチャイムが鳴った。


 今日は土曜日で四時間授業(全く休みの日と四時間授業の日が交互にある)。四時間目が終わればホームルームなども無く、そのまま放課後となる。午後からは休日が始まるので、土曜授業の四時間目は、総じて生徒は授業のモチベーションも高い。翔もこの後は、総司やその他友人と連れ立って映画を見に行く予定である。


 ところがその四時間目(英語だった)、鈴音の席はずっと空席だった。


 三時間目も必修授業だったので、その時間には、鈴音が席に座っていたのを、翔も知っている。


「何、あいつ早退? 北条」


 授業が終わった後、翔は近くにいるクラスメイトに、無差別に聞いてみた。


 翔の口から北条の名前が出てくると、総司と由香利はちらりと、視線を合わせた。


 翔の質問には、イケイケグループの真面目枠である硯東子が応えた。


「さぁ、どうだろね。たぶん誰も知らないけど」


 東子はひとまずそう言ってから、今度は翔に訊ねた。


「北条さんに用事でもあるの?」


「いや、全然」


 翔はすげなく応え、筆記用具をバックにしまった。

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