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つらら姫は疲労困憊

 背後から指す赤信号の光線を感じながら、翔は鈴音らしき女生徒の歩いて行った道を進んだ。


 その道は、車がすれ違うにはギリギリくらいの細い道で、少し行くと、カーブになっている。そのあたりは、片方が住宅街で、もう片側は畑である。


 すでに女生徒の姿を見失っていた翔は、住宅側に入って行く小道があるごとに速度を緩めて、そこに人影を探した。


 三つ目の小道を覗いた時、制服を着た女の子を見つけた。


 ちょうど、アパートに入って行くところだった。


 翔は自転車の向きを変え、その小道を進んだ。


 ――女子生徒は、間違いなく北条鈴音だった。


 二階建てのアパートの階段を登っている。


 後姿でも、近くで見ればそれだとわかった。


 鈴音は、手すりにしがみつく様にしながら、一段ずつ、登っている。それはとても、高校三年生の所作には見えなかった。腰を痛めた老婆のようである。「はぁ、はぁ」と、苦しそうな息遣いまで聞こえてくる。


 翔は、その様子を、道の端――階段の手前からぼうっと眺めていた。


 どこか痛むのか、疲れているのか、何にしても、普通の状態ではない。


 しかし、だからといって、手助けなんて必要だろうか。


 翔がそんな事を考えているうちに、鈴音は階段を登り終えた。


 思わず翔は、ほっと胸をなでおろした。


 鈴音が階段から転げ落ちなかったという安堵が半分。


 もう半分は、彼女を助けるかどうするか、という葛藤から解放された気持ちが半分。


「はぁ……何しに来たんだかな……」


 翔は独り言ちると、元来た道を引き返した。


 栞のことは、別に、いつでもいいはずだったのに、何かが引っかかってここまでやって来た。でも、何が引っかかっているのかわからないから、彼女に声をかけることさえできない。


 もうこれ以上考えるのはやめよう、と翔はペダルに重心を乗せた。


 ――その時。


 バタンッ!


 ぶつかるような、倒れるような音がした。


 翔は再び自転車を止め、振り返った。


 音は、ちょうど鈴音の登って行ったアパートの二階あたりから聞こえて来た。


 そのアパートの二階廊下は、縦格子の手すりになっているので、人がいれば足まで見える。


 廊下には、もう鈴音の姿はなかった。


 扉が閉まっただけの音だったかと、翔は考えた。


 それにしては随分、ばらばらな音だったけれど――まぁいいか。


 翔は、腑に落ちないことはこの際放って帰ろうと思った。


 ところがその時、翔の目は、二階の扉の一つが、半開きになっているのを捉えた。


「うん?」


 おかしいな、と翔は自転車の向きを再びアパートの方に向けた。


 風通しを良くするとか、何か理由があって、今だけ空けているのか?


 そう思った翔だったが、何かがおかしいような気がした。


 暫く待ってみても、半開きの扉は、半開きのまま放置されている。


「あぁ、もう」


 翔は自分の好奇心のようなものに苛立ちながら、自転車をアパートの屋根付き駐輪場の鉄板壁に立てかけ、アパートの階段を登った。


 階段上り、三つ目の扉。


 相変わらず、半分程度開いている。


 翔は慎重に近づき、扉の、開いている側に回った。


 そこで翔は、扉が何によって開いているかが分かった。


 鈴音が、玄関側を頭にして倒れていた。


 脚が扉につっかえている。


「おいおいっ……!」


 翔は思わずたじろいだ。


 それから、きょろきょろと、この状況を解決してくれるような何かを探す。


 しかし、そんなもの、ありはしない。


 とりあえず、翔は鈴音の怪我を確認することにした。


 頭は、スクールバックを咄嗟にクッションにしたらしい、血が出たり、腫れたりはしていない。


「なんなんだよ……」


 そう言いながら、翔は玄関の電気をつけ、溺れた人を砂浜に引き上げるように、家の中に鈴音を引っ張り上げる。カチャンと、扉が閉まる。


「おい、北条、起きろ」


 ゆさゆさと、翔は鈴音の肩をゆする。


 鈴音の顔は不健康に青白いが、苦しい様子はない。


 スースーと、寝息を立てている。


「大丈夫、なのか……?」


 わかんねぇなと思いつつ、翔は鈴音の靴を脱がせ、自分も靴を脱いだ。それから、「お邪魔します」と、暗いリビングに声をかけ、ずるずると、鈴音の両脇を抱えて引っ張った。


 リビングの電気をつけ、とりあえずは、その絨毯の上に鈴音の身体を乗せる。


 近くに転がっていた白いマシュマロのようなクッションを、鈴音の頭の下に差し込む。


 そこまでの仕事を終えて、翔は冷や汗やら脂汗やら、色々な種類の汗がどっと体中に滲んでくるのを自覚した。


「本当に大丈夫なのかよ……」


 翔は再び、鈴音の鼻先に手をやって息をしているかを確認したり、額に手を置いて、熱があるかを確認したりした。そんな事をしても、何が解るでも無かったが、そうせずにはいられなかった。しかしとにかく、熱病にうなされている感じでもない。ただ、気持ちよさそうに眠っているだけに見える。


 はあっと、翔は深いため息をついた。


 リビングの角にはベッドがあり、布団がめくれている。


 ごくり、と翔は反射的に生唾を飲み込む。


「北条、ほら、寝るならベッドで寝ろよ」


 しかし翔がそう言っても、鈴音は起きない。


 絨毯の上とはいえ、かたい床に寝かせておくのも可哀そうなので、仕方が無いと、翔は鈴音をベッドに寝かせることにした。


左腕を鈴音の膝の裏から回し、右腕で頭を背中を支え、立ち上がる。


いわゆる、お姫様抱っこ、という形。


「うわっ、軽っ……!」


 鈴音を抱えてみて、翔は思わず感想を述べた。


 覚悟していた重さよりも遥かに軽かった。人である以上それなりに重いが、体重の密度のようなものが、圧倒的に薄い。何食ってんだよと、翔は少し心配にさえなった。


 鈴音の身体を持ち上げた翔は、その髪先、首筋から、微かに甘い、柑橘系の匂いを嗅ぎ取った。


 翔はよくわからない罪悪感を覚えて息を止め、そのまま鈴音の身体をベッドに横たえた。


 翔は、絨毯にぺたりと坐り込み、止めていた息を吐きだした。


 そうして、近くで改めて鈴音の顔を見た翔は、再びすうっと息を呑み込んだきり、少しの間、息を吐きだすのを忘れてしまった。


 北条鈴音は、確かに綺麗だと、翔は思った。


 でもそれは、今突然そうなったわけでは無い。


 同じクラスになってもうひと月、毎日のように顔を合わせている。その間、確かに北条鈴音は、ずっと綺麗だった。でもそれは、ただそれだけのことだった。同じクラスに〈つらら姫〉というマネキンがいるという、ただそれだけのことだった。


 それなのに今、目の前で眠っている北条鈴音は、マネキンではない。


 彼女の無防備な寝姿に男として欲情しているのかもしれない。


 寝ている女の部屋に二人きりというシチュエーションがそう思わせているのかもしれない。


 けれど、それだけではないと翔は思った。


 翔は、鈴音の体に布団をかぶせ、息をついた。


 腕のチプカシを見れば、デジタルな文字盤が十時を表示している。


 翔はもう一度だけ鈴音の息遣いと、顔色を確認し、立ち上がった。そうして、部屋の電気を消し、静に鈴音の家を立ち去った。



 ◇



 翌日、〈つらら姫〉は何事も無かったかのように登校してきた。


 いつもと同じ氷のマスク。


 怒っているような真顔。


 翔のことなどは、一瞥もしない。


「ったく……」


 と、翔は軽く悪態をついた。


「うわぁ、舌打ちとか、朝からこっわぁー」


「カルシウム足りてないんじゃないのぉー?」


 翔の座っている後ろから女子二人組がやってきて、翔をそう言ってからかった。「うるせぇ」と応えた翔の顔には、微かな笑みが浮かんでいた。

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