つらら姫の落とし物
体育の授業の前。
翔は思わず、身を屈めて、床にばらまかれた文房具類の中から、その革の栞を手に取った。
ミルクティー色の、トビウオの形をした栞。
なんでこれを、お前が?
翔は屈んだまま、栞の持ち主を見上げた。
北条鈴音の鋭い視線が、眼下の翔に突き刺さる。
外見だけなら、滅多にいないほどの美少女。シルクのような白い肌に、微かな茶色味を帯びた、柔らかそうなセミロングの髪。大きな瞳に、シュっと薄い真っすぐな眉、桜色よりも少し濃い色の唇。ほっそりとした首から、華奢な肩にかけてのライン。シルエットだけでも、北条鈴音は美人とわかる。
しかし彼女は、人を寄せ付けない。
一瞬開きかけた鈴音の唇は、しかしすぐに閉ざされて、さらにその端がきゅっと引き締まった。白い頬がそれに応じて、ぴくりと力む。
「返してください」
鈴音は、挑む様な声音でそう言うと、呆けている翔の右手から、さっと、トビウオの栞をさらい取った。
翔の近くに居たクラスメイトは、鈴音の無礼な態度に、翔がついにキレるのではないかと身構えた。
ところが翔は、怒らなかった。
屈んで、栞を失った右手をぼんやり空中に漂わせたまま、ぼうっとしている。
その間に鈴音は、翔の足元に散らばった文房具を回収していく。
「退いてもらっていいですか」
そう言った鈴音の怒った声に、翔は「あぁ」と、大人しく返事をして、立ち上がりながら退いた。
鈴音は、落とした文房具を全て拾うと、スマートな茶色のペンケースにそれらを入れて、スクールバックにしまった。そうして、風のように教室を出て行った。
◇
「ヒヤヒヤしたよ」
更衣室――体操着に着替えながら、富田総司が翔に言った。
「ヒヤヒヤって?」
「さっきのだよ。北条さんにブチキレるかと思った」
「あぁ」
翔は、総司の指摘に曖昧に応えた。
何となくぼんやりした翔の様子に、総司は首をかしげる。
先日総司は、翔の口から「あいつ性根腐ってんだよ」と、鈴音についての評価を聞いたばかりである。翔も、根拠なくそう言ったわけではない。それには相応のエピソードがあったのだ。
場所は購買、翔はたまたま、鈴音の少し後ろに並んでいた。
四限目直後の購買は、いつも行列である。翔はその日は、カツサンドパン、ウィンナーパン、そしてイチゴクリームサンドを買った。ほとんど毎日バイトをしている翔は、他の生徒より随分贅沢ができるのだ。
そしてふと列から外れた時、翔は、鈴音が買ったばかりのパンとそれを入れた小さい手提げ袋をテーブルに置いて――つまり、財布だけを手にして、その場を離れていくのを見た。
席をとっているつもりかと翔は一瞬思ったが、どうも違う。
我が学園の〈つらら姫〉こと北条鈴音は、昼食をどこで食べているのか誰も見た者がいない。そんな学園七不思議がある。そんな〈つらら姫〉が、食堂で座席取なんて、する友は思えない。
たぶん、忘れたのだろう――。
翔は仕方なく鈴音の忘れ物を取って、彼女を追いかけた。
「おい、忘れてんぞ」
翔はそう言って、廊下を早足に進む鈴音の背中に声をかけた。
「おい、北条」
立ち止まらない鈴音に、さらに声をかける。
やっと鈴音は立ち止まって振り返り、そうして、翔が自分の手提げを持っているのを確認した。
流石に今回は、「ありがとう」と言う以外無いだろうと、翔は少し、勝ち誇ったような気持ちでいた。
実はそれ以前、クラス懇親会のことで、翔はこの時すでに、鈴音に対して敵意じみた気持ちを鈴音には持っていた。
懇親会――鈴音は男女ともに敬遠されていたので、誰も彼女を誘わなかった。それに、気を使ったのは総司だった。総司は彼女を懇親会に誘った。ところが彼女は、「結構です」とつっけんどんな態度で、総司の誘いを突っぱねたのだ。
行く、行かないは別にして、その態度は何だと、翔は思った。その時は翔に宥められて食って掛からなかった翔だったが、今は違う。
「これ、お前んだろ?」
翔は手提げを持ち上げた。
鈴音の目が、こんどはしっかりと、手提げを捉えた。
ところが、鈴音が唇を開き、出てきた言葉は、翔の予想していたものとは違っていた。
「放っておいてください」
翔は少し固まった後、「は?」と顔をしかめた。
「それがお前、物拾ってやった奴への態度か」
「拾ってなんて頼んだ覚えありません」
おいおい、と翔は逆に笑えて来てしまった。
「いや……俺はさ、お前が困っていると思って――」
「貴方の自己満足でしょ?」
「は?」
「善いことをしたいっていう」
この野郎、と翔は舌打ちを禁じえなかった。
「別に困ってません。それもいりません」
「いらないって……じゃあどうすんだよ。俺だっていらねぇよ」
「ゴミ箱にでも捨てておけばいいんじゃないですか」
翔はついにカっとなって、「ふざけんな!」と言いながら、袋を鈴音に放った。
鈴音はその袋を受け取りもしなかった。
袋はぽとりと、鈴音の足元に落ちた。
しかし翔は、もう知った事では無いと、鈴音に背を向けて、購買の方へと戻った。そうして最後に一度だけ、やはり少し気になったのでちらりと振り返ると、ちょうど、鈴音が、落ちた手提げ袋を拾い上げる所だった。
「なんだよ、結局拾うのかよ」
翔はそんな事をぶつぶつ言って、その後は振り返らなかった。
――と、そんな出来事があり、翔はそのことを総司に話したのだ。総司が翔の口から「あいつ性根腐ってんだよ」と聞いたのは、その時である。
そんな事の後なので、さっきの翔の大人しさは総司には不思議だった。
「何、寝不足?」
「いや、全然」
「ふーん」
変な奴、と総司はそんなことを思ったが、ロッカーの扉を閉める頃には、すっかりそのことは忘れてしまった。




