立ち上がり
野球を始めたのは小学生。地元の弱小チームで、左利きだからってだけの理由で投手をやった。
中学に入るころには自分よりすごい奴はいくらでもいるって分かっていたけれど、それでも部活に入ったし年功序列でマウンドに立った。
高校は地元。俺の頭で入れる場所で、家から通える一番野球部が強かったところ。
強いと言っても俺くらい凡庸な選手ばっかりで、県下には強い甲子園常連校もあって、俺たちは県大会の準々決勝までいけるかどうか、くらいの中堅どころだった。
……あの野郎が、入ってくるまでは。
「プレイボール!」
審判の掛け声に顔を上げる。
バッターボックスで一番打者が構えていた。左打ちで、バットの先がリズムを刻むように揺れていた。
「……甲子園って、コールドねぇんだよな」
俺は絶望のように呟いて、足元を確かめるように甲子園の土を踏みしめる。グローブの中でボールを握る。
フゥー、と息を吐いた。そしてやっと覚悟を決めた。
振りかぶって、投げる。
キンッ、と硬質な音。
「ショート!」
初球を狙われての三遊間。大きくバウンドした打球に跳びついたショートのユーゴはすぐさま送球。焦りすぎて少し高さがブレるが、一塁はそれを跳躍してキャッチする。
「セーフ!」
は?
驚いたのは審判の声ではなく、一番打者の足だった。クソ当たりだったのに間に合うなんてなんて早さだ。
一塁がベースから足を離したわずかな瞬間が命取りだったか……。いや、打球の跳ね方に運がなかったのだろう。ハーフバウンドで高く上がってしまうと、捕るのは楽だが少し時間を稼がれてしまう。
とはいえ、それでセーフになるなんてとんでもない足の速さがなければ無理だが。
「……さすが春の甲子園ベストエイト」
甲子園に来て、しかも勝ち進んだ奴らだ。一番だけじゃなく、他も化け物が揃ってるに違いない。
二番打者が打席に入る。
二番打者は進塁打。アウトにはしたが走者には二塁へ進まれる。
三番打者はヒット。コイツも一番ほどじゃないが足が速い。
そして、ワンナウト一、三塁で四番打者の登場だ。分かっていたことだが試合開始直後から、あっという間のピンチを迎えていた。
「でっか」
相手校の四番は背が百九十を越えるだろうか。デカくてがっしりとした体つきで、それでいて鈍重そうに見えない筋肉の付き方。
いかにもパワーヒッターという印象のその打者は、顔つきも厳つい。
さて、嫌な予感しかしないが、どうするか。
キャッチャーのハルへ目線を向ける。キャッチャーミットの下に出されたサインは敬遠だった。馬鹿野郎が。
俺は首を横に振ってサインを拒否する。……そいつ敬遠したら勝てんの? 無理ならなんで敬遠すんの?
次のサインに頷いて、俺はボールを振りかぶらずに投げる。
走者を警戒したクイック投法ではない。ただ無駄に体力を使いたくないだけの、大きく外角高めに外したボール球。
敬遠のコース。
ハルが立ち上がって捕って、返球する。俺はまったく盗塁を警戒しないユルい投げ方で、もう一度同じコースへ投げる。……二塁が空いてるから、一塁走者はやろうと思えば盗塁できるだろう。けれど敬遠すれば労せずして満塁になるのに、わざわざするわけがない。
佐々木から返球を受け取る。四番打者が不満そうにバッターボックスの土を靴裏で擦って、ため息を吐いてからバットを構え直す。
そこに、ど真ん中の直球を投げてやった。
「なんだよ。べつに反則じゃないだろ?」
返球を捕りながら、挑発のように囁く。どうせ声は聞こえないだろうが、口が動いているくらいは分かっただろうか。
俺のストレートなんか大した速度じゃない。バカみたいに絶好球を見送った四番は、目を見開いてこちらを見ていた。
投手は三つ、ストライクを奪えばいい。一つとった。
次。
振りかぶって投げる。右打者の内を抉るようなカーブ。ストライクゾーンから外れたそれを振らせて、打球は大きく左へ。ファール。
二つとった。
身体はクリンナップだが精神はまだまだだな。心に乱れが見える。今のは落ち着いていれば振らなかったはず。カウントには余裕があるし、一回外す手もあるが……ここは勝負。
投げる。
打球が、頬を掠めて通り抜ける。
ベンチが湧いた。味方の方だ。振り返る。
ショートのユーゴが白いユニフォームを土で汚していて、二塁のソージが高々と白球入りのグローブを挙げていた。
スリーアウト。