蛇に睨まれた蛙は顔色を無くす
平和に、過ごせていたと思っていた。
今、この瞬間までは。
物凄く不機嫌極まりない表情でこちらを見下ろしている王太子、イシュタリア。彼を見た瞬間に「ひぃっ」という小さい悲鳴が上がってしまったのはどうにかして聞かなかったことにしてもらいたいルミナスだが、間違いなく許してくれそうにも聞かなかったことにしてくれそうにもない。
「(どうして…!)」
冷や汗をダラダラと流すルミナスを完全に小馬鹿にしたように見下ろし、鼻で笑い飛ばしてからその場を立ち去るイシュタリア。そもそもとして、ルミナスは彼に対して何か失礼なことをしたわけではないのに、何故だか敵視されているのだ。
かれこれ、入学式が終わって以降、ずっと。
カフェテリアでアリアやアリューズと話している時も、近くを通りかかったら舌打ちされる。
普通にアリアと話しながら廊下を歩いていたら、姿をうっかり見られようものなら、睨み付けながらこれ見よがしに不機嫌そうにされる。
(っていうか私別に何もしてないよね?)
と、頭をフル回転させて考えるが思い当たる節はない。ひとつも。
「ルミナス、王太子殿下と何かあった?」
「無い」
アリアの問い掛けに対して即座に否定し、ぶんぶんと首を横に振る。だよねぇ、と困ったような顔をしているアリアと、何やら考え込んでいるアリューズ。そして二人よりも妙な表情を浮かべるルミナス。ルミナスとアリューズ、それぞれ入試のツートップに加えて、よくよく話を聞いているとアリアの家はダリスでも指折りの大商会らしい。
家のために様々な知識を叩き込まれてこい!という父親と母親の意見で、この学院に入ることになったのだとか。
「貴族の人って、私も父さんや母さんが話している人達とか…後はルミナスとアリューズくらいしかまともに知らないけど、王族ってあんな人多いの?」
「いや…初対面で睨んでくるとか人としてどうなんだ」
訝しげに問うアリアと、ルミナスが毎回睨まれていることが不満で仕方ないアリューズの会話を邪魔しないように、基礎科目の課題を終わらせようとペンを握る。
本当に、あの目線だけはどうやってもなれることができない。あの王太子殿下、もといイシュタリアは一体何を言いたいのか。言いたいことが無いなら、正直関わってほしくないのが一番の本音だし、関わってもあの類の態度を取ってくるような人、疎遠であり続けたい。
だが、貴族である以上、王族との関わりを皆無にすることはできないだろう。だとしても、だ。
「いきなり会う早々、睨まれて…しかも、その後も何かこっちに言うでもなく睨み続けてこられるのは…ちょっと、無理」
そう言いつつ入学してかれこれはや半年。
大体いつもこの三人でいることが多いのだが、たまに他の男子生徒が交ざったり、他の学科の生徒が交ざったりはしてくるし、基本的に誰とでもそつなく交流しているルミナスであった。だが、イシュタリアについては全くの別物。
同じクラスとはいえ今までうまいこと避けて、関わらずに過ごしてきた自分を褒めたい、のだが今はどうにもそういうわけにいかない。
お昼を食べるためにいつものようにカフェテリアにやってきたら、今日はたまたま限定ランチが提供される日で、いつもより混んでいた。そしてカフェテリアは満席で。
席の無かったらしいイシュタリアやお付きの生徒が全員そろって座るためには、今ルミナスたちが座っている六人がけのこの長方形のテーブルで、相席するほかない状況だった。
トレーを持ってルミナスをひたすらに睨みつけてくるイシュタリアを見たアリアとアリューズは、この態度はさすがにいかがなものかと思い、二人揃って勢いよく立ち上がる。そこでようやくイシュタリアはこの二人に意識をやったのか、驚いたように二人を見る。
「な、何をそんなに」
「ルミナス、行こう」
「ルミナス、顔色が悪いわ。…いくら同じ学年とはいえ、用件も言わず睨みつけてくるだけの人なんて気にしないで良い!」
「な、!?」
「アリア…アリューズ…」
反論しようと更にルミナスを睨みつけようとしたイシュタリアは、そこでようやく己が何をしてしまっていたのか、そしていかに言い逃れのできない状況になっていたことに気づいたようだ。
いくら王太子といえど、今のこの状況は『特に会話もしたことのない伯爵家令嬢を睨みつけ、ストレスを与え続けている』でしかない。しかもルミナスの顔色は青いを通り越して真っ青。碌に会話もしたことがない、しかも国の王太子にただただ睨みつけられて、気分が良くなるなど思えない。
「あ…」
「ルミィ、何なら今日はもう帰ると良い。来週までの課題も全部終わっているし、先生に事情は説明しておくから」
「ありゅー、ず」
は、とようやくまともに呼吸らしい呼吸ができたルミナスの背を、アリアは優しく撫でる。
いくらルミナスが達観していて人生を何度か繰り返しているとはいえ、こうも面と向かって王太子という存在にガンを飛ばされるなんて経験はしていない。腐っても王族というか、迫力はすごかったのでさすがに雰囲気に吞まれてしまった。
「…ご、め」
「謝る必要なんかない! ルミナスはご飯食べてただけじゃない! …ほら、行こ」
アリアに促され、ルミナスが食べていた昼食のトレーはアリューズが持って片付けの準備に入る。
この光景を初めて見た生徒達はこそこそと囁き合う。
『…見た?』
『何でお付きの人たちも止めないんだろうね』
『あの子…かわいそう…あんなに震えて…』
ひそひそ。ざわざわ、と囁かれる言葉はどれもその通り。
こうなってしまってはどうにかして謝るしかないのだが、駆け寄ろうとした瞬間にアリューズがとんでもない顔でイシュタリアを睨みつけた。
「…お席に座って、食事をとられてはいかがでしょうか、殿下」
声の冷たさはまさしく氷点下。
では失礼、とだけ言い残して三人は離れていった。
「ち、ちがう…。どう、しよう…」
睨みつけた張本人が真っ青な顔をしている光景に、周囲は彼を呆れたように一瞥して各々の食事に戻った。そしてイシュタリアは帰城して果てしなく後悔することとなったが、あまりに自業自得過ぎた内容のため、母である王妃にも冷たくこう言われるだけだった。
「みっともない子だこと。…ああ、これをローズベリー伯爵家令嬢のせいにしないでちょうだいね。全てお前の自業自得よ」
突き刺さる正論と、己に返ってきた言葉と視線の暴力。視線の暴力を彼女、ルミナスに対して半年もの間向け続けていたことにようやく気付き、そこまでされて反省らしきものをしたが、時は大分遅かったのだった。




