嵐、到来
使用人全てが浮き足立つような雰囲気。普段よりも丁寧に行われている掃除。朝から何やら騒がしい雰囲気の邸宅に、起き抜けのマリアは首を傾げる。
「なぁに…?」
目を擦りながら部屋を出て、慌ただしく走り回るメイド達を不思議そうにきょろきょろと見た。
普段ならばマリアが起きる少し前に部屋に起こしに来てくれて、温かなお湯で湿らせたタオルで顔を拭いてくれるのだが、今日は誰一人それをしてくれていない。
「むぅ…」
頬を膨らませても特に誰にも気にされない。いつものように叫んでみようかと思ったが、朝から騒ぎ立てて父や母から叱られるのはもっと嫌だった。
何とか耐えてこちらに歩いてきている執事の元に駆け寄って、見上げながら問いかけた。
「今日はどうして皆こうなの?」
「ディルぼっちゃまがご帰宅なされるからでございます」
「お兄様が?!」
ぱっと顔を輝かせるマリアだが、執事の顔はどことなく難しそうな、なんとも言えない表情であった。だが、そんなことは気にならなかったようで、マリアはぴょんぴょんと跳ねながら質問を続ける。
「何時に帰ってくるの?お昼かしら!皆でご飯は食べられる?」
「11時頃にはご帰宅なされます。マリアお嬢様、身支度をなさって朝食を済ませてください。本日もご予定はしかと詰まっております故」
「お兄様が帰ってくるのだから、来たとしても家庭教師の先生には帰ってもらうわ。良いわよね?」
当然のように主張してにんまりと笑ってみせたが、それは儚くも終わりを告げた。
「良くありません、マリア。ディルが戻るまでは通常授業です、早く支度なさい」
冷たい母の声に、すぐさま瞳に涙を溜めていくマリア。
まずい、このままではまた泣かれてしまうと思い老執事は止めようとしたが、心底残念そうな母・アイナの顔を見て思いとどまった。
さすがのマリアも、美人と評判高いアイナの冷めきった眼差しと雰囲気には凍りついたように動けなくなっているばかりではなく、溜まっていた涙すら引っ込んでいたのだ。
はくはく、と言葉が紡げず口を開け閉めする様子に、アイナはゆっくりとした口調で言葉を続ける。
「…甘やかすのはここまでと、ルーク…いえ、お父様にも言われたはずです。わたくしはね、あなたの泣き声が酷くて頭痛がするようになってしまったの。…朝から泣き喚くだなんて無様な真似、しないでちょうだい…」
普段から美白やら健康、そして体型は当たり前として世間の流行から政治のあれこれ、ありとあらゆる全てに気を配るその姿は、子が三人いるとは思えないと社交界でも評判だ。だが、そんなアイナの顔色は青を通り越して白くなっている。理由は、ルミナスがいなくなってからマリアの癇癪をモロに受けてしまっているからなのだが。
あれをずっと、姉とはいえ幼いルミナスに押し付けてしまっていたと考えただけで、アイナも今すぐ義父母の元に行って謝り倒したいくらいだが、そんなものは望まれていないのだ。それを理解しているからこそ、現実をアイナはしっかりと受け止めた。…受け止めざるを得なかった。
「ぅ、…っ、く…」
「…着替えたら、朝食にいらっしゃい。朝食が終わり次第、礼儀作法の授業ですからね」
「ぇぐ、……っ、………ぐず、っ、ぅ………うぅ……あ、い…」
ひぐ、としゃくりあげながら泣くマリアを一瞥して、ゆったりとした足取りでアイナは立ち去った。
「本当に…ルミナスにはとんでもないことをしてしまったわ…母親として情けないったら…」
立ち去りながら呟くアイナの顔は泣きそうだった。
そんな姿をこれから帰宅するディルに見せることなんてできないから、大きく深呼吸をしていつもの淑女へと戻り、朝食を摂るために食堂へと入った。
既にルークが着席しており、アイナとマリアが揃うまでにと経済紙を始めとした新聞に目を通している。
「あなた、お待たせしました」
「マリアはどうだった?」
「もうすぐで半べそをかきながら来るのではないかしら」
「次は何だい…?」
「ディルが帰るからと、家庭教師の先生を帰そうと企んでいたのでそれを一蹴したら、よ」
「まぁ、今まで許していたから許してもらえると思ったんだろう」
「もう許しませんけれど」
マリアからすればいきなり態度が変わった親でしかないが、周りの人間からすれば『一人の幼子を犠牲にしてようやく変われた親』でもある。
侯爵家令嬢としての教育、主に勉学の方に関しては始まりが遅すぎたせいもあってか成績の振るわないマリアは、今日やって来る予定の家庭教師が嫌でたまらないようだが、それはそれ、これはこれだ。
ピアノやダンスなど、芸術方面では年齢の割に相当熟練した技巧を発揮できるし、教えれば教えるほど豊かな表現ができるというのに、嫌なことに関しては逃げの方向に全力。
甘やかした結果のツケが、今こうして来ていることに両親揃って小さく息を吐く。
それから少ししてマリアが食堂にやって来た。半べそはかいていたが、泣きながら来なくなっただけ進歩である。
そして最近きちんと習い始めたカーテシーを練習がてら披露し、両親にきちんと挨拶をしてから椅子を引いてもらい所定の位置に座る。
やればできるのに、やらなかった分の支払いは大変大きいが、仕方の無いこと。
三人が揃ったところで給仕をしてもらい、食事を始める。
これもまた、マナーの授業も兼ねているのでマリアは必死だし慎重にもなる。
「そういえば、ディルは帰ってきてから高等学院に通うと言っていたね」
「えぇ。留学先でも大変優秀な成績だったそうだけれど、まだもう少し勉強したいのですって」
「そうか、感心だな」
両親が話している間、マリアは心の底から願っていた。
ディルの性格からして、だいたいこの辺の時間に帰る、と予告したらぴったりの時間に帰宅するのだが、それが早まればいい、と。そうすれば家庭教師の先生は来たとしても普段のような授業はできない。
『どうかお兄様、早く!』と必死に心の中で祈り、あまり両親の会話の邪魔をしないように静かにマナーを守って食事をする。
ふと、ざわついた気配がして複数の足音がこちらに向かって来ているのが聞こえた。
「…ん?」
「あら、何かしら」
「失礼致します、父上、母上。かなり早めに着いてしまいました」
ドアがノックされて開かれた先に立っていたのは、兄であるディル。
自分の願いが叶った!と嬉しそうに顔を輝かせたマリアがついうっかり、勢いよく立ち上がってしまう。
勢いが良すぎてガタン!と音が響いてしまうが、やらかした本人は気付かない。それを見た兄の顔が一瞬にして凍りつき、部屋の温度が喩えではなく数度下がる感覚に襲われた。
「お兄様ー!!!」
ばたばたと走りより抱きつこうと手を伸ばして、自分の頭より高い位置にある兄の顔を見て、マリアは息を呑んだ。
「マリア……」
温かな笑顔は何処にもない。
あるのは絶対零度。
「朝食の場で、はしたない真似はするんじゃない」
冷えきった声音で注意され、足を止めたマリアはガタガタと震える。今までに感じたことのない兄からの圧迫感に、胸の前でぎゅうっと手を握り締めた。
「お、おにいさまも、あたしをいじめる…!」
「『私』、もしくは『わたくし』と言いなさい。…お前は今何歳なんだ」
呆れも追加され、マリアの精神はあっという間に限界を迎えた。
ぼろぼろと涙を零しながら一歩、後ろに下がる。
兄までもが、敵なのだと。
そう理解したマリアはきっと睨みつけようとしたが、ディルが懐から出した小箱に、不意をつかれてきょとんと目を丸くした。
「……?」
「マリアが勉強を頑張っていると聞いたから、お土産を用意してきたというのに……そうか、いらないなら壊してしまおう」
「ま、待ってお兄様!あた……っ、ううん、私、きちんと勉強も始めてます!だから、…だから、お願い、壊さないで!」
あまりの必死な様子と予想通りの反応に、ディルはほくそ笑んだ。
「そうか。なら、まずは自分の席に戻りなさい。できるよね、マリア?」
できないとは言わせない、言うことのできない雰囲気をあっという間に作り上げてから、ディルはマリアの背を軽く押してテーブルへと歩く。
マリアは嬉しそうに破顔する。
ディルが持っているものが、自分にどれだけの恐怖をもたらすものかを知らずに。本当にお土産だと信じて、ただ、嬉しそうに笑っていた。
兄は容赦しないと決めたらとことんまで容赦はしません。
一応、マリアはある程度マナーが形になりつつあります。
ただ、現時点での年齢からすれば及第点とは言えないレベル。




