第57話 魔人の申し出
昼の前にイリスが部屋にやってきて、『ソト』の話を聞いて帰る。と言う日々が幾日か続いた。
この数日で解ったことは、現在、魔の王とやらは在位していないこと、幻魔の中から選ばれるかもしれないこと、資格のある幻魔は二十七人いること、大抵の幻魔は二、三人の魔人を配下として使っているが、イリスは自分の魔人を持たぬこと、イリスの屋敷で働いている使用人は、みなただの人であると言うことだった。
昼を過ぎて、レーキは屋敷の中を歩いて回る。
いくつもの客間、主人の主室、書庫、書斎、食堂、厨房、温室、地下室、倉庫。
広い屋敷だ。『ソト』の基準から言っても大きく、大商人や貴族が住むような規模だ。 ただ、庭だけは屋敷の大きさに比べて狭かった。その庭と隣家の境にはレーキの背丈の倍以上はある塀がそびえ立って、隣家の様子は窺えないようになっていた。
十数人の使用人たちはレーキを客として扱った。主人にそう命じられていると、シンプルだが質の良いワンピースのお仕着せにエプロン姿の少女が言う。
使用人たちに、イリスを恐れる者や侮る者はいなかった。みな、主人を敬ってよく仕事をしていた。
体力が完全に戻ると、レーキは書庫の本を読み、使用人たちの手伝いを始めた。
イリスには「ゆっくり休んで良いのに」と言われたが、客分として大人しくただ部屋にいることは性に合わない。
書庫の蔵書の中には、魔竜王の誕生とかつて人と魔のモノとの間に起こった『魔竜戦争』についての記述が有った。
かつて混沌から五色の竜王たちが生まれた。五色の竜王たちが『世界』と亜人と人を作った後に、魔竜王とも幻竜王とも呼ばれる末の竜王が生まれた。
末の竜王はもっとも長く母なる混沌と共にあったために決まった色や形を持たず、角も生えてはいなかった。
ここまでは、レーキも聞いたことのある創世の逸話だった。
その後には兄姉たちを妬んだ魔竜王によって魔獣や魔植物が作られて『世界』にばら撒かれた。それが天の『魔竜戦争』の始まりだったと、師匠は教えてくれた。
地の『魔竜戦争』は五色の竜王たちに敗れた末の竜王が、双子の月の一つに封印される直前に魔の王を選び、その王が人々の王たちに宣戦布告したのが原因だったと。
だが、魔のモノの書庫にはそれとは異なる魔竜王の姿が描かれていた。
決まった色と姿を持たぬゆえ、末の竜王は世界作った五色の竜王たちから迫害された。
『世界』と関わることを禁じられ、新しい動物や植物、様々なモノを創ることも禁じられた。
末の竜王はそれに耐えた。
やがて、世界の運行を天の王たちに任せようと五色の竜王たちが決めた時も、実際に天の王を選んだ時も、末の竜王は何も言わなかった。末の竜王は兄姉たちと共にあれるだけで嬉しかった。
五色の竜王たちは隠遁の場所として月を創った。末の竜王も当然その月について行くつもりでいた。
だが、それは叶わなかった。五色の竜王たちは月を二つ創り、大きな兄月を自分たちのもの、それより小さな弟月を末の竜王のものとした。そして、二つの月の行き来を禁じたのだ。
ついに共にあることすら拒絶された末の竜王は激怒する。
五色の竜王が愛した『世界』の全てが憎い。
動物が、植物が、鉱物が、人が、亜人が、全てが恨めしい。
末の竜王は動物を獲物にする魔獣を、植物を駆逐する魔草、魔木を、鉱物を魔石と化す術を、人々を餌食とする魔のモノたちを生み出して、『世界』を侵蝕する。
末の竜王は五色の竜王たちに戦いを挑んだ。五対一、分の悪い戦いだった。それでもただ別れ別れになるよりもいくらかましだった。
そして末の竜王は敗れる。
その後、地の『魔竜戦争』が起こった顛末は良く知られている通りだった。
レーキには、今まで聞かされたいた逸話と、魔のモノが所蔵する本に書かれていることのどちらが本当かは解らない。
だが、古い言い回しで書かれた本は魔竜王を悲劇的に描いていた。
姿形が他の兄姉たちと違うが故に疎まれ、拒絶される。それは、レーキがかつて味わった苦痛とよく似ていた。
『魔竜戦争』の本を読んで数日。シーモスの魔法工房に招かれた。工房はイリスの屋敷の中、庭に面した一室にあった。
「私の屋敷はイリス様のお屋敷のお隣でございます。ですが、このお屋敷にお邪魔しておりますことが多いもので、ここにこうして工房を作らせていただいたのでございます」
相変わらずの回りくどい言い回しで、シーモスは言う。
レーキは魔装具の設計図を作るために、羽根や背中をあれやこれやと測られて、切り落とされた左羽根は型を取った。
痛みはないが型を取るために上半身を脱げと言われたのには辟易した。なにより、巻き尺を当てられるとこそばゆい。
「申し訳ございません。なにしろ助手も居りませぬゆえ。全てを私一人の手で行わなければなりません」
シーモスは楽しげに羽根を測った数字を、一つずつ紙面に書き付ける。
「図面もあなたが引くのか?」
「ええ。図面は私が。ですが実際に魔装具の部品をお造りいたしますのは、腕の確かな職人でございます」
レーキの羽根を測り終える頃、イリスが黒い犬と共に工房にやってきた。イリスはハーブ茶の入ったポットと人数分のティーカップを携え、黒い犬は小ぶりな柄付きの籠をくわえていた。
「もうそろそろ終わったかなって、思って。お茶とお菓子を持ってきたよ」
イリスはにこにこと笑みを浮かべて、ポットとカップを工房にあった台に置いた。黒い犬はその隣に器用に籠を並べる。その中には香りの良い焼き菓子が詰まっていた。
「いい子だね、アルダーくん。いい子」
「これはこれは。ありがとうございます。イリス様。アルダー様も、ありがとうございます」
黒い犬を撫でるイリスの隣で、シーモスはハーブ茶をカップに注ぎ始める。
「……あなたの『癖』は飼い犬にまで及ぶんだな」
そう言えば、シーモスは奴隷屋や使用人たちにも変わらぬ口調で話しかけていた。
ふと漏らしたレーキの言葉に、シーモスはくすりと微笑みを浮かべて、黒い犬の頭をそっと撫でた。
「ふふふ。アルダー様は『犬』ではございませんよ。私の用心棒で……かつては人でございました『魔獣』でございます」
「かつては、人……?」
発言に驚愕するレーキを、シーモスは静かにあざ笑う。
「この方はかつて、魔獣を殺して双満月の日に魔獣と化す呪いを受けました。それを知らず、ある双満月の日にこの方は魔獣となって理性を失い、妻子を食い殺しておしまいになられました。それを悔いて、その悲劇を忘れてしまいたくて、この方は呪いを逸らしてただの魔獣となる道をお選びになられました。私はそのお手伝いをした報酬として、魔獣となられたこの方を『飼う』ことにいたしました。ふふふ……もう、ずいぶんと昔のお話でございます」
人であった、魔獣。シーモスが過去を語る間、黒い魔獣は大人しく身を伏せていた。
その言葉が解っているのかいないのか。かつては人で有ったと言う魔獣は、静かに中空を見つめるだけだ。
「……レーキ様。貴方も強い『呪い』を受けておいででございますね?」
不意に核心をつくシーモスの言葉に、レーキはぎくりと眼を見開いた。
「残念ですが、私にはその呪いを解くことも逸らすことも出来ません。ですが、その呪いをやり過ごす術はございます」
そんな術が有るというのか。いったい、どうやって。
言葉にして問う事も出来ずに、レーキはシーモスを見つめてうめいた。
「ふふふ。簡単なことでございますよ。貴方は、貴方が大切だと思っていらっしゃる人々より長く生きればよろしいのです。その方々より貴方が長く生きられれば、その方々は天寿を全うなさいます。そのためには」
「……その、ためには?」
シーモスはいったい何を言い出すのか。レーキは固唾を飲んで次の言葉を待った。
「……貴方が『魔人』となられればよろしいのです。貴方が長い時を生きるモノになられればよろしいのです」
口の端に笑みを張り付かせたまま、シーモスは愉快げに告げる。
「あ……お、俺、が……?」
困惑に、レーキは浅い息を繰り返す。
そうすれば、呪いから逃れられる?
そうすれば、みんなが天寿を全うできる?
そうすれば、俺は人を愛することができる?
「……レーキ……君は魔人に、なりたいの?」
イリスはこちらを案じるように、胸に手を当てて眉根を寄せた。
「お、れ、俺は……!」
「……幻魔が魔人にした人はね、主に絶対服従なの。主が死ねと言えば死ななきゃいけないし、主が死んだら死んでしまうの。僕は……君が本当に望むなら、君を魔人にしても良いよ。でも、それは本当に君の望みなの?」
「わか、解らない……」
解らない。本当に解らないのだ。呪いを解くために懸命に努力してきた。一度は死の王を呼び出すことにも成功した。
それでも呪いは解けていない。
どんな事をしたって生き延びたいと思ってきた。だからと言って、魔人になりたいかと聞かれれば、簡単に答えは出せない。
「……ごめんね、レーキ。シーモスが変なこと言って。……でもね、僕は君が魔人になることは反対。それは今の君を君で無くしてしまうことだから。僕はそんなこと、したくない」
イリスは真摯に自分の気持ちを口にする。イリスが配下の魔人を持たぬと言うのはそのためなのだろうか。魔人になる、と言うことは人としての在り方をそんなに歪めてしまうモノなのだろうか。
「ふふふ。申し訳ございません、レーキ様。私の失言でございました。……ただそんな術もまだ残っているのだと思し召していただければ」
「シーモス!」
「はいはい、イリス様。この話はお終いといたしましょう。せっかくのお茶とお菓子が冷めてしまいますから。……さあ、どうぞ?」
レーキは呆然としたまま、差し出されたハーブ茶のカップを受け取った。
魔人に、なれば。魔人に、なれば。ぐるぐるとその言葉が脳内を巡っている。
レーキは言われるがまま茶をすすって、菓子を食べたが、何の味も感じなかった。