第50話 予兆
「……あたしの、勝ち、だぁーっ!!」
「……く、オレの……負け……か……おえっぷっ」
レーキの再三の制止も虚しく。ネリネとウィルの勝負はネリネの辛勝で終わった。
決着がつくと、面白そうな見せ物が始まったとばかりに周りを囲んでいた野次馬たちがおおーっと、どよめいた。
「やるじゃねーか、嬢ちゃん!」
「良い呑みっぷりだねー!」
「いやいや、そこの色男もなかなか頑張った!」
勝者として拳を天に突き上げたネリネは、珍しく顔を真っ赤にしている。
ウィルはすでに甲板に沈みながら、青い顔で口もとを押さえている。
「……あたしの、命令、わぁ……ちょっと待ってぇ……今、考えても……多分……あー? なんだっけぇ……?」
ネリネの方も勝ったとは言え、すでに限界のようだ。
レーキが、ふらふらと頭を揺らすネリネに水を飲ませているうちに、船縁でえずき出したウィルを船員の一人が介抱する。
「はははっ! 船縁で吐いたらいっちょ前の船員見習いだぁ」
二人の勝負を当然のように賭け事の対象にしていた暇な野次馬たちも、勝敗がついたと解って賭を精算して散って行った。
「……二人とも呑みすぎだ」
やがて、甲板に並んで横たわり、ぜいぜいと虫の息で喘ぐネリネとウィルの隣に膝を立てて腰掛けて、レーキは溜め息をついた。
「……レーキぃ……あの、『治癒水』ぃ……」
「あれは痛みを緩和するものであって酔いを醒ますものじゃない」
死霊に憑かれた死体のようにのろのろと手を伸ばしたネリネに、レーキは水の入った瓶を押し付ける。
「うーうーっ」
「とにかく水を飲め。酔いを醒ましたいならな」
レーキにしては珍しく、はっきりと腹を立てている声音でネリネに命じる。
「……あんたもだ」
「……すまねぇ……うっぷ!」
ウィルにも水入り瓶を押し付けて、レーキはやれやれと頬杖をついた。
せっかくの休日だというのに、昼前から酔っ払いの介抱とは!
しかし、甲板に居てもする事など何も無かったことも事実で。レーキの中に生まれた憤りは、海を吹き渡る風にまもなく溶けていった。
「……ほんっと、ゴメンね。レーキ……」
「オレも……すまねぇな……」
遅い昼食にと厨房でピタパンに具材を挟んだ軽食を作って、レーキはネリネとウィルが伸びている甲板に戻った。
二人の顔色は数刻前にくらべると、いくらか平常に近づいている。レーキは少し表情を緩めて、二人にピタパンを差し出した。
「……食えるようなら食うと良い。無茶をするなとは言わないが、自分の健康のことも考えろ」
ネリネはピタパンを受け取って、しおらしく「……うん」と頷いた。
ウィルは甲板に横たわったまま、「まだ、無理……」とうめいて目を閉じる。
「解った」
レーキは二人の隣に改めて腰掛けて、自分用のピタパンを勢い良く頬張りだした。
「うー。こりゃ、明日は二日酔い、かな……」
ネリネはのろのろ身を起こして、ピタパンをほんの少し齧る。もそもそと半分くらいまで食べ進め、がっくりと肩を落とした。
「調子に乗りすぎたわ……レーキ、あの『治癒水』ちょうだい。頭が痛くなってきたの……」
「……解った。ほら」
レーキは腰につけていた革製のポーチから、特製の『治癒水』を取り出してネリネに手渡した。
「ありがと……」
小瓶の栓を開けて、ネリネは『治癒水』を飲み干す。最後の一滴を舌で受け止めて、ネリネは首を傾げた。
「……ん。あれ? なんだか、甘くて……美味しい……?」
「味を改良した。その……君たちに指摘されたから……不味いより美味い方がいいだろう?」
レーキは不思議とバツが悪そうに首筋を掻いた。そんなレーキを見つめて、ネリネはゆっくりと嬉しそうな笑みを浮かべる。
「……うん。そうね……今の方が絶対良いわ! ……ありがとね、レーキ!」
青い空に浮かぶ白い雲がちぎれ、寄り集まり、またちぎれながら西から東へ吹き流されてゆく。その形は千変万化、例えるモノに事欠かない。
雲が形を変える速度が速い。雲の高さの空は強い風が吹いているのかもしれない。
天気は快晴。甲板を吹き渡る風も心地良い。だが、少しずつ雲の数が増えているような気がした。
「……気のせい、か……?」
「んー。どしたの? レーキ」
「いや、何でもない」
遅めの昼食を摂って一刻半(約一時間半)ほどして、空を見上げていたレーキは甲板から立ち上がった。
「……そろそろ、俺は厨房に行く。二人は大丈夫か?」
「うん。酔いもだいぶ醒めてきたし、『治癒水』も貰ったから。心配かけてごめんね」
「オレも、一眠りしたらだいぶ良くなった。ありがとよ」
その言葉にレーキは頷いた。二人とも顔色が良くなってきている。もう問題はないだろう。
「……それじゃあ、また」
「またね! お夕飯期待してる!」
「おう。またな!」
三人はそれぞれに軽く手を挙げて、挨拶を交わす。そのままレーキは甲板を後にした。
──さあ、仕事だ。
厨房に向かいながら、レーキは気持ちを引き締めた。
厨房に戻ると、すでにルーが一人で夕食の下ごしらえを始めていた。
「ルーさん、ただいま戻りました」
「あら、おかえり、レーキちゃん。初めてのお休み、どうだった?」
仕事にのめり込んでいないときのルーは、穏やかで優しい人物に見える。ルーは野菜を刻む手を止めて、レーキに微笑んだ。
「結局、酔っ払いの介抱で終わってしまいました」
厨房の仕事を始めるためにエプロンを身につけながら、苦笑混じりにレーキが答えると、ルーはくすくすと笑った。
「船乗りは大酒飲みが多いから。仕方ないわネ。……ああ、甲板で女のコと男前が飲み比べしてたって聞いたけど、レーキちゃん知ってる?」
「知ってます。二人とも……友人……? いえ、仲間です」
二人の勝負がよほど大きな話題になっているのか、ルーの耳が早いのか。レーキは諦めて肯定する。
「あらあら! じゃあ介抱してたのはそのコたちネ?」
「はい。二人が呑んでいたのは香りの良い強い酒でした。あれは、何という酒なんですか? 料理に使ったら良い臭み消しになると思うんです」
レーキの問いに、ルーは口もとに人差し指を当てて答えてくれる。
「そうネェ。香りが良いっていうならラムかウィスキーだと思うワ。より甘い香りがラムで、煙っぽいのがウィスキー。どちらも蒸留酒で強いお酒ヨ。どっちを使ってもいいケド……よりお料理に向いてるのはラムの方かしらネ」
「なるほど。ありがとうございます。ラム、か……今度試してみます」
レーキの返答にルーは我が意を得たりとばかり何度か頷いた。それから、まだ刻んでいない野菜をレーキに渡して「それ、刻んで」と命じる。
「……そうネ。色んな味を試してみるといいわヨ、レーキちゃん。美味しいモノをたくさん知ってれば、組み合わせてもっと美味しいモノを作れるでしョ? それがお料理の楽しみヨ」
料理を作ることは、とても楽しい。その料理を誰かが喜んでくれたなら、なおさらだ。
そんなことに、改めて気づく。
──ああ、だから。俺は料理を作ることがやめられない。
「はい!」
レーキは真っ直ぐにルーを見て、喜びを隠せずに微笑んだ。
翌日の昼過ぎ。
ワックスがけされたばかりの艶光る甲板の表面に、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
あっという間に雲は空を覆い尽くし、やがて、くすんだ灰色の雨雲へと変わっていった。
時間が経つにつれ、次第に雨足は強くなり、甲板では空から零れ落ちた雨粒が踊る。船員たちは慌てて帆を畳み、甲板の開口部を閉じた。
明かり取りを兼ねている格子状の開口部が覆われると、船内は途端に月の無い夜のように暗くなる。
船の外装を叩く波が荒い。風向きが変わって海がうねり出す。嵐の前兆だ。
今日の夕方には『海の女王号』が寄港地に到着する予定になっていたと言うのに。このままではそれも難しい。
この海の荒れようでは厨房は危なくて使えない。夕食の準備を始めていたレーキは、ルーの命令でトマソや他の船員たちと共に、船室で待機していた。
「……ふう。昨日は良く晴れてたから、こんなに急に天気が変わると思わなかったなぁ」
不安げなトマソの溜め息に、レーキは頷いた。
「……かなり揺れていますね。船は大丈夫でしょうか?」
「もうっ! 怖いこと言わないでよー! ……多分ね。多分大丈夫。大きな船だし……」
自信なげにトマソは言葉を濁す。いくら大きな船だとはいえ、猛り狂った海の暴虐には敵うはずもない。為す術もなく、『海の女王号』は波に揉まれる。
外装が軋む度、トマソの顔色は青ざめて、彼はレーキにしがみついた。
「ひいぃぃぃっ……!!」
レーキとて、この状況は恐ろしい。自然相手に、人などは無力としか言えない。
だが、自分以外の人間が先に怯えてしまうと、かえって冷静になるようで。
レーキはトマソに「大丈夫ですよ。浸水もしていないし、船は無事です」と言い聞かせた。
そんな状態が数刻も続いただろうか。ふと、船の軋みが止んだ。船をなぶっていた波音も静かになる。
レーキとトマソは俯いていた顔を上げた。
その時。
ドンッ……!!
何か巨大なモノが勢い良く船にぶつかってきたような、そんな衝撃が走った。
立ち上がっていた船員たちは、衝撃の大きさに負けて、左舷の壁に押し流されるように転がる。腰掛けたままだったレーキとトマソも、左舷側に倒れた。
「……っ?!」
「なに?! なに?! 何が起こったの……?!」
薄暗い船室にいる者は、誰一人、何が起こったのかわからない。さざ波のように混乱が広がっていく。
ぎ、ぎぎぎぎギギギギ……
大きな船が左に傾ぐ。船室の船員たちは慌てて近くに有るモノに捕まる。ゆっくりと船が右に傾ぐ。
何かが、嵐とは違う何かが『海の女王号』を揺さぶっている!
「……ひぃっ! 助けてくれ!!」
誰かがそう叫んだ。それが合図になったように。船員は口々に悲鳴を上げる。
「誰か……! 誰か助けてくれ!!」
「いやだ……死にたくない……死にたくない……!!」
「水の王さま……お助けください……!!」
口々に悲痛な叫びを上げる船員たちの中にあって、レーキもまた混乱していた。
何が起こっているのか、何が船を揺らしているのか。解らない。ただ事ではないことだけを膚で感じる。
レーキはもどかしくなって、掌を宙に向けた。緊急事態のようだ。仕方がない。
「『光球』!」
『光球』のまばゆい光が船室を照らす。船員たちはその光に釘付けになった。騒がしかった船員が、水を打ったように静かになる。
「……天、法……?!」
「天法士だ! 天法士がここにいる!」
「……レーキ、くん……?」
「静かに! 外から何か聞こえる!」
レーキは立ち上がって耳をすました。船の上部、甲板の方から切れ切れに聞こえる、悲鳴と怒号。それはこのままここにいては、はっきりと聞こえない。埒があかない。レーキは叫んだ。
「俺が様子を見てくる! 道をあけてくれ!」
期待のこもった視線を向けてくる船員たちをかき分けて、レーキは甲板を目指す。船員たちの悲鳴が、あちらこちらから聞こえる。
船室の中はまるで、悪人が恐ろしい責め苦を与えられるという死の王の国、その底であるようだ。
甲板が近づくにつれ、はっきりと船員たちの叫ぶ声が聞こえる。
「……!」
「……ラファ……だ!!」
「……ラファ=ハバールを船に近づけるな!」
「ラファがこの海域に出るなんて……!!」
ラファ=ハバール。
魔獣の本で読んだことがある。
海に住むと言う、巨大な魔獣。体長は船ほども大きく、魚類の頭を持ち、そこから生えている曲がりくねる十数本の触手を使って船を沈める、と本にはあった。
──そんな魔獣が、この船に?
開口部にかぶせてある蓋をどうにか持ち上げて、甲板に出た。雨はいまだ激しく甲板を洗っている。遠くで雷鳴までが響きだした。
レーキがそこで見たモノは。




