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へっぽこ  作者: 真柴 文明
第二章
9/50

三.広之進、出くわす

 広之進は道中でひとり右往左往していた。行き交う人という人に手当たり次第に女のことを訊ね回り、三味線を持った折網笠の女を見れば、前に回り込んで顔を覗き込んだ。

 当然、覗かれた女は驚き、人違いと分かる度に広之進は平身低頭で謝罪した。中には問答無用で広之進の頬に跡が残るほどの平手を喰らわせる女もいた。

 しかし、こう闇雲に捜して見つかるはずもなく、自分でも気付かぬうちに広之進は街道筋から外れた脇道に迷込んでいた。焦りと混乱が広之進から正常な判断を奪っていたのである。

「くそっ、あの女どこへ行ったんだ。んっ、ここはどこだ」

 ふと辺りを見回すと、両側から覆うように鬱蒼とした森の木々が屹立(きつりつ)していた。

「いつの間にこんな人気のない、寂しいところに迷込んだんだ」

 誰ひとり見かけない仄暗い森の小径(こみち)で、またしても広之進は立ち尽した。見上げれば、枝や梢の間から覗く空もすでに茜に染まり、夜の闇が間近に迫っていた。

「いかん。陽が落ちようとしている」

 一晩中、提灯だけで山道を彷徨うことだけは何としても避けたかった広之進は取りあえず体を横にして休める場所を求めて先を急いだ。

 しばらく小田原提灯を手に墨をぶちまけたような森の小径を恐々歩いると、左手に何やら小さな寺のような陰が広之進の目に入った。

「これは有難い」と駆け出した広之進が寺の前に着くと思わず声を失った。

 見れば、確かに寺には違いなかったが、本堂に上がる階段は所々抜け落ち、観音開きの戸口の左は大きく傾き、どうにかぶら下がっていた。小さな境内に提灯を向ければ、雑草が我が物顔で生茂り、見上げた屋根の瓦は崩れてその隙間からぺんぺん草が顔を覗かせていた。どこから見ても紛う方無き見事な荒寺だった。

 そのあまりの朽ち果てっぷりに広之進は思わず声を漏らした。

「うわぁ……。これでよく建ってるな。ここで一晩明かすのか。う~ん、何か出そうだし、できれば泊りたくない」

 それほどこの世のものでない何かが現れてもおかしくない臭いを漂わせる荒寺を前に、しばし広之進は腕を組んで思案した。仮に火を起こして森の中で一夜を過ごすとしても、狐や狸といった人を化かす獣に出くわすかも知れない。 それどころか万が一、山賊まがいの輩に襲われたら、とても太刀打ちできない。

 広之進はもう一度、荒寺に目をやった。

(一応、どうにか建ってるし、野宿するよりはマシか。それに出そうな雰囲気だが、必ずしも出るとは限らない)

 意を決してた広之進は雑草が伸び放題の境内に足を踏み入れた。

 その広之進の後を追うように、あの二つの(まなこ)が漆黒の森の中から続いた。

 本堂に足を踏み入れた広之進は提灯の灯りを頼りに堂内を見回すと、床に埃を被って転がっている燭台を見つけた。踏む度にギシギシと音を立てる床の上を踏み抜かないようにそーっと歩いた広之進は、その燭台を拾い上げて提灯の灯りに照らした。

 幸い、親指ほどに短くなったロウソクが残っている。広之進がすぐに提灯の灯りをロウソクに移すと、堂内の様子がぼーっと浮び上がった。広之進はすぐ近くに打ち捨てられたていた燭台にも灯を点した。

 二本の燭台のお陰で周囲がほんのり明るくなり、ようやく一息ついた広之進は提灯の灯りを消して改めてそれほど広くない堂内の様子を見た。

 本尊が祀られていたと思われる人の腰くらいの高さがある幅五尺ほどの須弥壇(しゅみだん)の上に飾られた宮殿(くうでん)の中には仏の姿はなく、経机や五具足、三宝といった仏具も見当たらない。格天井の四隅に張った蜘蛛の巣からは埃にまみれた長い糸がだらりと下がり、隙間風に揺れていた。

(う~ん、予想以上の荒れっぷりだな。でも、仕方がないか。宿に泊まろうにも手元には僅かな銭しか残ってないし、第一こんな山ん中じゃ宿といってもなあ……)

 広之進は手にしていた提灯を足元に置くと、取りあえずその場に腰を下ろして荷を解いた。

「あーーっ、これで少しは体が楽になった」

 腕を上げて体を伸ばしていた広之進がぶるっと小さく震えた。真冬ほどではないにしても、さすがに秋の山の夜はそれなりに冷える。何か体に巻き付けるムシロのようなものがないかと、立ち上った広之進は薄暗い堂内を探し回った。

「参ったな。本当に何もない」

 背中を丸めて広之進は須弥壇の後ろを覗き込んだが、やっぱり埃の他に何もない。

 そこに突如、一際強い隙間風が「ヒューッ」と音を立ててロウソクの灯を揺らした。しばらく抗うように大きく揺れていた灯は、少しして二本とも力尽きたようにふっと消えた。

「げっ、こんなときに!」

「提灯、提灯」と腰を落として両手を前に出したまま、文字通り広之進は手探りで暗闇の中を慎重に進んだ。すると、どこからか広之進の耳元に囁くような声が聞こえた。

 ぎょっとした広之進は体を起こして周りに目を配ったが、どこを見ても黒一色に塗潰されていた。

 何かの聞き違いかと気を取り直した広之進が二、三歩進むと、また聞こえた。今度は微かだが「ひろ……のしん……」と自分を呼ぶ声が聞こえた。旅の経費(かかり)と一緒に仇討赦免状が盗まれたときとは違った意味で、広之進は全身から血の気が音を立てて引いていくのが分かった。

 広之進はほとんどないに等しい、ありったけの勇気を振絞って声を掛けた。

「ど、どちら様でしょう」

 しかし、辺りは時が止まったようにしんと静まり返るだけで、答える者など誰もいない。味わったことのない重苦しい空気に身を硬くした広之進の頬にツーッと変な汗が一筋。

 と、怯える広之進を嘲笑うように風に煽られた木々が大きな音を立てて(ざわ)めいた

「ひっ」と小さな悲鳴を上げた広之進は固く目をつむって首を(すく)めた。

 しばらくして騒めきが止み辺りにまた静けさが戻ると、広之進はそーっと目を開けた。

「なんだ、ただの風か……」

 広之進がほっと胸を撫で下ろすのも束の間、何気に傾いた観音開きの戸口に目をやると、そこに人の形をした(もや)のようなものがぼんやり浮び上っていた。

「…………」

 広之進は大きく目を開いたまま石のように固まった。

 しばし両者は対峙したまま動かなかったが、やがてこの妙な空気に根を上げた広之進は二、三歩後退りした。すると、それに合わせて靄も前に出た。広之進が一歩下がれば、靄もまたすっと前に出るといった具合に近寄ってくる。仕方なく広之進はズルズルと後ろへ下がり続けた。

 しかし狭い堂内でのこと、あっという間に背中に須弥壇が当たると、力が抜けたように広之進はその場にへたり込んでしまった。そこへ、すかさず靄が一気に詰寄った。

 音もなく迫り来る靄を前に、広之進は激しく後悔した。

(やっぱりこんな荒寺に泊まるんじゃなかった。野宿で化かされたとしても、それは狐や狸といった獣で、山賊に襲われても、それは人だ。少なくともこんな得体の知れないものじゃない)

 目の前に立ち塞がった靄はさらに上から覆い被さって広之進の鼻先にまで近付いた。

(ああ、思えば短い一生だった。村木さんを見つけられずに、こんな薄汚い荒寺でこんな訳の分からない魑魅魍魎の類に取り殺されるんだ……)

 観念した広之進が堅く目を閉じてガタガタ震えながら須弥壇にしがみ付いていると、また「ひろ……のしん……」と耳元で囁くような声が聞こえてきた。

 初めは死の恐怖に怯え切ってまったく耳に入らなかったが、繰返し聞いてるうちに広之進の心にある微妙な変化が起こった。

(あれ、どこかで聞いたような、それでいて懐かしいような。はて、誰だっけ)

 目を閉じたまま広之進が必死に記憶の糸を手繰り寄せる間に、その囁きは次第に大きくなり、ついにはっきり聞こえようになった。

「いい加減、目ぇ開けろ!」

 突然の大声にピクンと体を跳ね上げた広之進は恐る恐る目を開けた。

「えっ」と言ったっ切り言葉が出ない広之進は、目の前にある顔に危うく息をするのも忘れるほど驚いた。

「よっ、ひさしぶりだな。俺だ。おめえの親父、隆広だ」

 二ッと笑うその顔は確かに亡き父のものだったが、死装束に身を包んだ生気のない青白い顔や額に付けた亡者を表す白い三角の布など、弔いを出した時の姿そのものだった。何より、髷を落とした散切り頭のやや左斜め上から額にかけて、ザックリ入った生々しい刀傷がそれを雄弁に物語っていた。

 生前の面影など微塵も残ってない隆広の姿に、一言も発することなく広之進は白目を剥いて須弥壇からずれ落ちた。

「おい、こら。そんなとこで寝るな。風邪ひくぞ」

 隆広が覗き込んでいくら呼び掛けても、広之進が目を覚ますことはなかった。

 広之進、半年と四十九日ぶりの、亡き父との再会であった。

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