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へっぽこ  作者: 真柴 文明
第二章
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二.広之進、やらかす

 そんなゆるい仇討の旅を送っていたある日の昼下がり、とある山中の街道筋を広之進が血相を変えて走っていた。

「あの女、どこへ行った。くそっ、見た目の美しさに惑わされ、つい気を許してしまったのがいけなかった」

 臍を嚙む思いで女を捜す広之進の目に、ちょうど店から出てきた峠の茶店の主人の姿が入った。腰が曲がったその老主人はさっき旅立った客のお茶を下げようとしていた。

「御主人! 今しがた、この辺りを笠を被った女の人を見かけませんでしたか」

 走ってきた勢いそのままに声を掛ける広之進はに「はあ?」と老主人は小首を傾げた。

「あっ、笠といっても二つに折れる折網笠です」

「そんなもんなら、いくらでもおりますよ。ほれあのとおり」

 呆れた顔で主人が街道を指差す方を見ると、確かに折網笠(おりあみかさ)を被った旅装束の女がちらほら茶店の前を行き交っている。

「あっそうだ。持っていました。袋に包んだ三味線を持っていました」

 広之進がそう付け加えると、老主人は糸のように細い目を再び街道に向けて「それも」と言った。すると、申し合わせたように広之進の前を旅姿の女が三味線を脇に抱えて通り過ぎた。その女を目で追いながら広之進は「確かに……」と力なく答えた。

 つい四半刻前のことである。峠の登り口に差し掛かった広之進は、街道の脇で身を屈めた若い女に目を留めた。袋に包まれた三味線を横に置いて脇腹に手を当てた女から小さく苦しげな呻き声が聞こえてきた。

 どうしたのかと声を掛けて「はいっ?」と振り返った女の顔を一目見て、広之進は思わず息を呑んだ。広之進より三つ、四つ年嵩だが、色白ですっと鼻筋が通った瓜実顔(うりざねかお)。涼やかな目元には黒目がちな瞳が瞬き、程よく膨らんだ小さな蕾のような口唇に薄く紅が差してあった。

 もし天女というものがこの世にいるなら、きっとこのような顔立ちをしているのだろうと、広之進は心の底からそう思った。同時に、広之進は自分の心の蔵が早鐘を打つように高鳴るのを感じた。

 聞けば急に脇の辺りが差し込んできたという女に、つい親切心から広之進は中村家伝来の丸薬を分け与えることにした。

 背負っていた打飼袋(うちがいぶくろ)を降ろして丸薬を取出したが、折悪く竹筒に水がないことに気が付いた。広之進は慌てて水を求めて打飼袋を置いたまま走り出した。

 広之進が走り去ったことを確かめると、口元に冷たい笑みが浮かた女は打飼袋に手を掛けた。

 そして今に至り、茶店の前で三味線を小脇に抱えた旅姿の女を、呆然と見送りながら立ち尽す広之進であった。

「では、仕事がありますんで」と傍らにいた老主人はそそくさと店の奥に入っていた。

 これは広之進にとって致し方のないことであった。なにせこの年になっても、女の柔肌に触れるどころか、まともに話したこともない。当然、真っ新な体のまんまである。まともに口が利ける女といえば、母の由之ぐらいなもので、広之進が天女のように崇める年嵩の妙齢な美女にコロッと騙されるのも道理といえば道理である。

 しかし、事態はより深刻さ増していた。女に(あざむ)かれたあげく、打飼袋の中にあった当座の費用(かかり)と一緒に、事もあろうに仇討赦免状まで持ち去られていたのである。

 金は何だかんだと理由を付ければ、すぐにでも送ってくれる。だが、仇討赦免状はそうはいかない。あれがなければ、身分や旅の目的を明かすものがなく、仇を追って他国へ行こうにも以前のように簡単に出入りできなくなってしまう。

 何より、もしこのことが国元に知れようもなら一大事。仇討赦免状は殿様から一度賜ったら、それが最後。二度と手にすることはない。さらに紛失した訳を問詰められたあげく、女に鼻の下を伸ばしてる間に盗まれました、なんてこと口にしようもなら、まず間違いなく伯父と一門は激怒し、悲嘆に暮れた母は思い余って自害するやも知れぬ。国元からは見放されて金は送ってもらえず、このぬるま湯のような旅に終止符が打たれる。

 広之進は自分でも全身から血の気が引くのが分かった。

「ど、どうしよう……」

 思考停止に陥りそうな頭を広之進は無理やり回した。

「と、とにかく捜すんだ、あの女を。そして赦免状を取返して、この草花に囲まれたゆるい仇討の旅を守るんだ」

 本来の目的から大幅に逸脱した広之進は、そう独り言ちると茶店を後に急ぎ峠を下った

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