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へっぽこ  作者: 真柴 文明
第三章
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二十三.別れ

 門前町の騒動から三月(みつき)ばかり過ぎたある夜。蒸せる返る夏の盛りもすっかり遠のき、夜風が頬に心地よく、涼しげな虫の音は自ずと深まりゆく秋を感じさせた。

 その虫の音に誘われるように野良着姿の広之進がおみよ一家が暮らす家の裏手にある雑草が生い茂った空き地にひとりぽつんと立っていた。

 あの一門同士の戦いから辛くも逃れた広之進たちは、小舟に揺られながら大川を北へ向かって上った。小舟が市中の北外れまで来ると、おみよが住む笹村の近くということで広之進、おみよ、そして隆広もそこで降りた。

 伊之助はその後の藩や一門の動きを探るため市中に戻り、十日に一度やって来ては、その様子をつぶさに知らせた。

 百姓のおみよ一家と暮らし始めて一月も経つと、広之進は苦も無くその暮らしに馴染んだ。今では、おみよと一緒に田畑に出て鍬を振るって働いている。一応まだ武家ではあるが、元々野に咲く草花好きで武家の習や面子などあまり気にしない広之進は、土を相手に汗を流す百姓仕事が性に合った。

 さらに広之進は得意の草花の知識を生かして病に伏せる与平と病弱な妹のおさきのために、仕事の合間を縫って野山に分け入り、滋養に良いとされる野草を採ってきては、それらを煎じて毎日飲ませた。

 その甲斐あってか、病気がちだったおさきが随分よくなり、与平も徐々にではあるが、体調を戻しつつあった。いつしかおみよ一家にとって、広之進はなくてはならない、ありがたい存在になっていた。

 ただ、生来(せいらい)から勘のよいおさきは隆広の姿は見えなかったものの、隆広が家にいると何かにつけて騒ぎ出し気味悪がった。そのせいで隆広は家に入れず、外で過ごす羽目になった。

 そして今、広之進は朝の早い百姓仕事にも関わらず、亥の刻を過ぎた夜更けにひとり空き地で辺りを見回していた。

「父上、いらっしゃるのでしょう。出てきてください。お話があります」

 何度か呼んでいるうちに、茂みの暗がりに白くぼーっ浮かび上がる(もや)が現れた。ぼやけていた白い靄の輪郭が次第に人の形に変わり始め、やがていつもの死装束に身を包んだ隆広が茂みの中に現れると、広之進は急いで駆け寄った。

「ここ十日ばかりお見かけしなかったので、いつもと変わらぬ御様子に安心しました」

 隆広が口をへの字に曲げた。

「てめえ、なめてんのか。高が十日でユーレイにどう変われってんだ」

「アハハハ。それもそうですね」

 悪びれることもなく笑う広之進に、隆広は諦めたように言った。

「それにしてもあのおさきってガキ、俺が家に一歩足を踏み入れただけでギャーギャー騒ぎ立てやがってよ。お陰でこちとら外でぶらぶらするしかねえじゃねえか」

「申し訳ございません」

 広之進と隆広は近くにあった腰を掛けるのに丁度いい大きな石の上に座った。

「でっ、話ってなんだ。朝が早え今のおめえが、こんな夜更けに俺に会いに来るぐれえだから、それなりの話ってえのは察しが付くがよ」

 隆広に水を向けられた広之進は自らを奮い立ったせて言った。

「父上。私はここで百姓として、おみよさんたちと暮らして参ります」

 しばし父子の間に虫の音だけが静かに鳴り響いた。

(はやり、父上は武家を捨て、百姓になることをお許しにならないのか……。しかし、私の心はすでに決まっている。この地を耕し、おみさんと共に生きていくと!)

 広之進が思い詰めた顔をしていると、きょとんとした隆広が「なんだ、そんなことか」と事も無げに言った。

「えっ、よいのですか」

 大きく頷く隆広に広之進はあたふたした。

「よく、お考えください。嫡男である私が百姓になれば、中村家の再興は(つゆ)と消えるのですよ」

「はあ、どの口が言ってんだ」隆広が眉根を寄せて続けた。「どうぞ討ってくださいと、わざわざ首を差し出す仇を討てなかったのは、どこのどいつだ。今さら再興もクソもねえ」

「あっ」

「ついでにもう一つ言ってやらあ。逃げる途中、俺に言われて紙屑みてえに刀を捨てる奴が、寝ごと言ってんじゃねえ!」

 ああ、耳が痛い……と、思わず広之進は胸の中で呟いた。

 一つ息を吐いた隆広は改めて言った。

「まっ、おめえがそう決めたんなら、俺は別に構わねえぜ。どうせ堅苦しい城勤めなんぞ続けるうちに、取返しのつかないヘマを仕出かして腹を切る羽目になるのが落ちだ」

「は、腹を切るのですか」

「バカ野郎、話の例えだ。今の穏やかで聡明な殿ならそんな手荒なことはしねえが、代替わりしたら、分かったもんじゃねえ」

 こうなると、残る気掛りは国元で帰りを待つ母・由之である。

 広之進はおずおずと訊ねた。

「あの、国元の母上は大丈夫でしょうか」

「前にも言ったろう。佐島の義兄(あにき)が上手く取り計らってくれるって。義兄にとっちゃ、実の妹だ。悪いようにはしねえよ」

「そうですか。それならよいのですが……」

 ふと広之進は足元に目を落とした。

(果たして母上は私を許してくれるだろうか。仇をわざと討ち漏らし、御家を潰した上に武家を捨てて百姓になる私を。ユーレイとなって、これまで一番近くで見守ってくださった父上とは違い、母上はなにも御存じない。文の一つでも出せればよいのだが、今となってはそれもできない。その文が元で母上の身にどのような類が及ぶかと思うと、とても文をしたためる気になれない。せめて一目お会いして事情を話したいものだが、どんな顔をして会えばよいのやら……)

「なにシケた面してんだ」

 隆広の声に、広之進は驚いたように顔を上げた。

「いいか、おめえはもう武家じゃねえんだ。この土地でしっかり根を下ろして生きていく百姓だ。そうするって決めたんだろう」

 広之進がグッとアゴを引いた。

「だったら、それでいいじゃねえか。あんまし後先ばっか考えてると、イザってときに動けなくなっちまうぞ。おめえの悪い心癖だ。気を付けな」

「父上……」

 目に薄っすら涙を溜める広之進に、隆広は優し気な眼差しで微笑んだ。

 不意になにかを思い出したように広之進が訊ねた。

「あの、母上にはお会いにならないのですか」

「まあな、俺も会いてえのは山々なんだが、さすがにこの恰好じゃよ」

 隆広が額に付けた白い三角の布切れを指差すと、広之進は納得したように頷いた。

「そうですね。お会いならない方がいいです」

「だろ」

 しばし互いの目を見て父子は笑い合った。

「さあってと、話が終わったことだし、そろそろ()くとするか」

 そう言うと、腰を上げた隆広は現れた茂みに向かって歩き出した。

「父上、どちらに行かれるのですか」

 振り向いた隆広はシレっと言った。

「決まってんじゃねえか。あの世だよ。あ・の・よ」

「えっ」と思わず腰を浮かせる広之進を、隆広は手で制した。

「いいから、そこに座ってろ」

「しかし、いきなりあの世に逝くとおっしゃられては、どうにも落ち着きません」

「あのな、俺はもう死んでんだぜ。死んだ奴があの世に逝くのは当たりめえだろう」

「それはそうなのですが、これまでの父上の振舞いがあまりにも活々(いきいき)してらしたので、つい死んでいたことを忘れておりました」

「なに訳の分かんねえこと言ってんだ」

「じゃなあ」と口にした途端、隆広の体がスーッと透けだした。

「父上!」

 慌てて隆広のそばへ駆け寄ると、広之進は取り乱しながら懇願した。

「父上、父上、逝かないでください。私はまだ父上から学びとうございます」

「ふん、もう十分学んだよ、おめえは」半分透けた隆広がニッと笑って続けた。「久しぶりに江戸の町も見れたし、おめえと一緒にいて結構楽しかったぜ」

「嫌です。逝かないでください。私をひとりにしないでください!」

「バカ言ってんじゃねえ。もうひとりじゃねえだろう」

 隆広の体がさらに透けて、今はもう向こうの茂みがはっきり見えている。

「いいか、おみよといつまでも仲睦(なかむつ)まじくやんだぞ」

 その言葉を最後に、隆広の体は煙の如く消え去った。

 ひとり空き地に取り残された広之進は、その場に膝を着いてうな垂れた。

「父上、これまでありがとうございました……。うっうっうっうっ……。」

 むせび泣く広之進の耳に虫の音が寂しげに響く、ある秋の夜の別れであった。

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