二十一.雨中の激闘
「まったく女に別れ言うくれえで、なに手間取ってんだよ、旦那は」
歩きながらブツブツ言う伊之助はあまりに帰りが遅い広之進を迎えに成龍寺に向かっていた。
その伊之助の耳にいきなり「斬り合いだーっ! 侍同士の斬り合いだーっ!」と叫び声が入ってきた。
驚いた伊之助が周りを見回すと、ふんどし姿の人足や魚の棒手振に、風呂敷包みを抱えた御店者、果ては老人、女子供に至るまで、皆我先に成龍寺に向かって走っている。
「ま、まさか……」顔を青くした伊之助は慌てて後を追った。
息を切らせて伊之助が門前町に着くと、すでに久蔵の茶屋の前には黒山の人集りができていた。
人垣を搔き分けようやく前に出ることができた伊之助の目に入ったのは、刀を手に大女を背にした広之進が殺気立つ三人の武士と対峙する姿だった。
「だ、旦那……」
思わず息を呑んだ伊之助は慄然としたが、すぐに気を取り直して「こうしちゃいられねえ」と踵を返して抜け出た。
少し離れたところで足を止めた伊之助は振り返って祈るように言った。
「旦那、すぐにお父上様を呼んできやすからね。それまでの辛抱ですぜ」
一方、刀を抜いた広之進は小さく震えていた。手の震えが刀の先まで伝わりカタカタと小さく揺れてまるで定まらない。
それを目にした左馬之助は小馬鹿にするように言った。
「どうした。震えているではないか。いやはや、そんなに人を斬ることが怖いのか」
「あ、当たり前じゃないですか。怖いですよ。人を斬るということはその人の命を絶つだけでなくその人に関わる人たちの想いも含めた、すべてを絶つということなんですから」
一つ息を吐いた広之進は喉から絞り出すように言った。
「私には荷が重過ぎます……」
「ふん、またそのような腑抜けたことを」
左馬之助は後に控える若党たちを横目で見た。
「その方らは手は出すな。こんなへっぽこ、私ひとりで十分だ」
そう言い付けた左馬之助は刀を返して峰にした。
「少しばかり痛い思いをすると思うが、我らとて無残々々と討ち漏らすわけにもいかんのでな」
正眼のまま少し腰を落とした左馬之助はすり足でじりじりと間合いを詰め、もう十分と見るや「むんっ!」と鋭く発して広之進の肩口めがけて打ち込んだ。
広之進がこれを素早く横に払うと、刀同士が激しくぶつかる甲高い音とともに弾かれた反動で左馬之助はよろけながら二、三歩後ろに下がった。
「左馬之助様!」
驚いた若党二人が助けに入ろうとしたが、左馬之助は「来るな」と目で制した。
広之進に目を戻した左馬之助が不気味な笑みを浮かべた。
「旅に出てる間、少しは稽古をしたようだな。だが、所詮付焼き刃。思い上がるなよ」
構え直した左馬之助は広之進を見据えたまま刀を峰から元に返した。
「格の違いを見せてやる」
雷鳴がまた一つ轟くと、ぽつぽつ小さな雨が落ちてきた。
その頃、肩を大きく上下させた伊之助がようやく長屋の出入り口に倒れ込むように着くと、部屋の前で腕組みした隆広が所在なさげに佇んでいた。
「はあ、はあ、お父上様……」
両膝に手を置いて玉のような汗を滴らせる伊之助に、気付いた隆広は急いで駆け寄った。
「どうした。何があった」
目を丸くして覗き込む隆広に、伊之助はたった今、門前町で見たことを話した。
「ちっ、思ったより早く着きやがったな」
吐き捨てた隆広は体を元に戻して言った。
「伊之助、おめえは広之進の荷物まとめて後からこい」
「えっ、そんな。すぐにまとめますから、置いてかないでください」
「バカ野郎。そんな息が上がった奴が走れる訳ねえだろう」
「へい……」小さく頷いた伊之助は、力尽きたようにその場にへたり込んだ。
「じゃあな、さきに行ってるぜ」
そう言い残した隆広は成龍寺門前町に向かって駆け出した。
一門同士の斬り合いを遠巻きに眺めていた黒山の人集りは雨が降り出すと、蜘蛛の子を散らすように店々の軒先に逃げ込んだ。
そんな中、左馬之助は思わぬ苦戦に顔を歪めていた。それは左馬之助が繰り出す数々の斬撃を、広之進は悉く跳ね返していたからである。鉈で薪を叩き割るような凄まじい上段からの一撃も、空気を切り裂く胴薙ぎも、小手を狙った俊敏な切先の動きも、広之進は危ういところで凌いでいた。
(はあ、はあ。今のところギリギリどうにか踏ん張ることができている。このまま続けていれば、いずれ諦めて引き下がってくれるだろう。それまで持ち堪えねば。ああ、父上がいらしたら、こんな思いをせずに済んだものを……。あっ、ちょっと待て。仮に父上がいらしたら、たとえ同門の者でもバッサリ斬り捨てるに違いない。んっ、いらっしゃらなくてよかった)
降り頻る雨の中、守りに徹する広之進に左馬之助は焦りの色を隠せなかった。
(くそ、先程から受けるばかりで一向に斬り掛かってこないではないか。それにしても私としたことが初手から意気込みすぎたようだな。少し息が乱れている。ええい、悔しいが、このままでは悪戯に時が過ぎるばかり。止むを得ん)
広之進から目を切らずに左馬之助は後に控える若党たちに呼び掛けた。
「おい、その方ら手を貸せ」
てっきり主が押していると思っていた若党たちが意外な呼び掛けに戸惑っていると、左馬之助が苛立たし気に声を荒げた。
「聞こえんのか! 手を貸せ!」
「は、はい」
慌てて若党二人は左馬之助を挟んで左右に着いた。
これを見て、今度は広之進が焦りの色を滲ませた。
(これはまずい。左馬之助さんだけで手一杯なのに、左右から打ち込まれてはとても受け切れるものではない。どうする……)
再び広之進が手にする刀の先が小さく震えだすと、後からおみよの大きな手がそっと優しく肩に触れた。
「広様、落ち着いて」
「は、はい。落ち着きます」
おみよの声に少し落ち着きを取り戻した広之進は目の前いる三人を改めて見た。
(やる前から気持ちで負けていたのでは話にならない。こうなったら父上がおっしゃっていた「出たとこ勝負コンコンチキ」しかあるまい!)
グッと下腹に力を込めた広之進は左馬之助たちを迎え撃つ決意を新たにした。
しばし睨み合いが続いた後、左の方からジリジリ間合いを詰めていた若党が声を上げて斬り掛った。
「えいっ!」
気合諸共真上から振り下ろされる刀を広之進は辛うじて受け止めたが、如何せん雨にぬかるんだ足元ではどうにも力が入らない。
「うっ……」
堪らず声を漏らす広之進に、がら空きになった脇をめがけて右の若党が斬り掛る。
「あぶない!」
おみよがそう叫んだ途端、何かがぐしゃりと潰れる鈍い音がした。なんと、広之進の頭の上からおみよが放った強烈な張り手が右の若党の顔面を直撃したのである。おみよの張り手をまともに喰らった若党の体がふわりと宙に浮くや、そのまま後に二間ほど吹っ飛んだ。
あまりの光景にその場にいた誰もが我が目を疑い、声を失くした。
その間におみよは返す刀とばかりに、広之進に斬り掛った左の若党の胸倉を掴むと、軽々と持ち上げて左馬之助に向かって投げ付けた。
「えっ」と小さく声を漏らした左馬之助の目に、ゆっくりと自分に向かって飛んでくる若党の体が徐々に大きく映った。次の瞬間、ドン!と派手な音と共に激しくぶつかり合った二人は、そのままもんどり打って濡れた地面の上に叩きつけられた。
辺りが静まり返る中、おみよの荒い息づかいだけが聞こえた。
おみよにしてみれば、愛しい男を窮地から救わんがため、只々無我夢中でしたまでのことだった。
一瞬の出来事に訳が分からず刀を手にしたまま広之進が立ち尽していると、「広様、早く!」と切羽詰まったおみよの声が聞こえてきた。
おみよは唖然とする広之進を抱え上げると、胸の中に押し込んで泥飛沫を跳ね上げながら笹村の方へ一気に駆け出した。