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へっぽこ  作者: 真柴 文明
第三章
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二十.広之進、風雲に急を告げられる

 蒸々(むしむし)とした空気が肌にまとわりつく夏の昼下がり。菅笠こそ被っていなかったが、手甲、脚絆(きゃはん)を身に着け、背割羽織に野袴といた旅装束の広之進が久蔵の茶屋の前で立っていた。

 きのう伊之助が成龍寺に向かった後、隆広は広之進に江戸から離れるように命じた。なぜなら討ち手である広之進がいなければ、仇討は成り立たず呼び寄せた手練れの者だけでは手の出しようがないと、隆広は考えた。

 しかし、それはおみよとの別れを意味しており、隆広は「女と別れの挨拶をしておけ」と有無も言わさず申し付けた。広之進も自分が招いた紛糾(いざこざ)におみよを巻き込みたくもなく、泣々別れを決意した次第である。

 広之進が不意に空を見上げると、今にも降り出しそうな分厚い雲が垂れ込めていた。

「これは、いつ雨になってもおかしくないな。おみよさんはまだかな」

 そこへ冷えた麦茶が入った湯呑を盆に乗せた久蔵が店から現れた。

「広之進様、ここで麦茶でも飲みながらお待ちなさいな。おみよも追っ付け来るでしょう」

 久蔵は店の前に設けた目にも鮮やかな緋毛氈(ひもうせん)を敷いた縁台に湯呑を置いて手招きした。

 縁台に腰を下ろした広之進が麦茶で喉を潤していると、久蔵が寂しげに言った。

「それにしても、旅に出るとは、また急でございますね」

「ええ、そうなんです。急に決まったもので……」

 言葉を濁す広之進を、訳有りと見た久蔵はそれ以上聞こうとはしなかった。

「そうですか。でも、残念でございますな。あれほど仲睦(なかむつ)まじいお二人が離ればなれになってしまうのですから」

「本当に申し訳ありません。あんないい(ひと)を紹介してもらったというのに」

「実はね、私は広之進様とおみよが、いっそ夫婦になったらどんなにいいかと、思ったことがあるんでございます。あんな裏稼業をしていますとね、お二人みたいな滅多にない出会いを目にすると、つい年甲斐もなく背中を押して差し上げたくなるんでごさいます」

 一人喋っていたことに気付いた久蔵は慌てて顔の前で手を振った。

「あっ、とんだ失礼なことを口にして申し訳ございません。御武家様と百姓では身分が違い過ぎましたな。なに、年寄りの戯言(ざれごと)と思ってお忘れください」

「いえ、おみよさんは本当に素晴らしい女です。心も体も大きく、なにも聞かずに私のような男を母のように優しく包み込んでくれました。こんな女と一緒に暮らせればと思うこともありました。でも……」

 広之進が手元の湯呑に目を落としていると、突如「あっ、いけねえ!」と叫ぶ男の声がした。

 声のする方へ振り返って見れば、荷車に山のように積まれた米俵に掛け渡していた縄が切れ掛かっている。

「あぶねえ、にげろ!」

 荷車の曳き手が後押(あとおし)しへ声を張上げると同時に、縄がプツンと切れて上に積んであった三俵が道に落ちて転がり出した。

 勢いよく転がっていく三つの米俵を目て追っていた広之進は思わず腰を浮かせた。

「おみよさん!」

 なんと転がる米俵の先に野良着姿のおみよが立っていたのである。

 しかし、おみよはこれといって慌てるでもなくスッと一歩前に出たかと思うと、迫り来る米俵を片手で掴むや、まるで掘った芋でも投げるように次々と荷車の方へ放り返した。

「えっ……」

 そう漏らした切り、曳き手も後押しもポカンと口を開けておみよの方を眺めた。

 広之進も同様に口を開けたまま立ち尽くしていると、おみよは何事もなかったようにそばに来た。

「お、おみよさん。ケガはありませんか」

 声を上ずらせる広之進に、おみよは「えっ、なにが」ときょとんとした。

「いや、さっきの米俵のことなんですが」

「ああ、村じゃあ、いつもやってることなんで、大したことありません」

 笑顔で話すおみよに、広之進は軽く眩暈(めまい)を覚えた。

 おみよは不安げな目で広之進に訊ねた。

「ところで広様、お話とは何ですか。そのお姿、ひよっとして旅に出られるのですか」

 寂しげに言うおみよを、広之進は優しく緋毛氈の上に座らせた。

「いいですか、おみよさん。これから話すことを落ち着いて聞いてください」

 ここに至るまでの経緯を広之進は目に涙を浮かべながら、すべておみよに語った。

 自分が仇討の討ち手であること。父の仇を求めて旅に出たこと。江戸で仇にバッタリ遇ったが、心から悔いる姿に討ち果せなかったこと。そして、その仇を守るために江戸から離れることになってしまったこと。ただし、父・隆広のことは伏せた。

 突然の別れに、おみよは目に涙を溜めていた。

「すぐにお立ちになるのですか」

「いえ、一度長屋に戻り大家さんに挨拶をしてから旅立ちます」

 一旦、言葉を切った広之進は零れそうな涙をグッと堪えて言った。

「おみよさん、あなたと過ごした日々は私の宝物です。決してに忘れません。それを心の糧に、私は生きていきます」

「広様……」

 二人が互いに手を取り合って見詰めていると、広之進の背中の方から聞き覚えのある声がした。

「これは、これは、広之進殿ではないか」

 ハッと振り返った広之進の目に二人の若党を従えた左馬之助の姿が飛び込んできた。

 左馬之助は(あざけ)るような笑みを浮かべた。

「久しぶりだな。それにしても昼間から見せつけてくれるではないか」

「さ、左馬之助さん。どうしてここに」

「どうしてとは、おかしなことを聞く奴だな。おまえの助太刀に来たのだ。先程、留守居役様への挨拶も済んだのでな、下見がてらにこの門前町に足を伸ばしたんだ」

 倉岡の言葉を思い出した広之進は、例えようのない寒気を覚えた。

(手練れとは左馬之助さんたちのことだったのか。父上と同じ小野派一刀流を遣う左馬之助さんは、藩内でも三本の指に入るほどの腕前。その左馬之助さんが連れてきたあの二人も相当の遣い手に違いない……)

 先程まで浮かべていたいやらしい笑みが、左馬之助の顔から消えた。

「ところで、その恰好はなんだ。まるでこれから旅に出るようではないか」

「いや、これは、その……」

「おまえ、何を考えてるんだ。仇があの門の向こうにいるのだぞ」肩越しに左馬之助は八脚門をアゴで指した。

 顔を戻した左馬之助の目に凄みが増した。

「まさか臆して、その女と逃げる気ではあるまいな」

「おみよさんは関係ありません」

「なら、その旅装束はなんだ。理由を聞かせてもらおう」

「うっ、それは……」

 垂れ込めた雲がにわかに黒みを帯び始めると、左馬之助は押し殺した声で「返答次第では」と刀の柄に手を掛けた。

 広之進は思わず腰を上げた。

「わ、私を斬るのですか」

「ふん、何を(たわ)けたことを。討ち手のおまえを斬れる訳なかろう。ただ村木を討ち取るまでの間、動けぬ体にするまで」

 ふと広之進が左馬之助の背後に控える若党に目をやると、二人とも刀に手を掛けていた。

 ゴクリと喉を鳴らす広之進の耳に遠くで鳴響く雷鳴が聞こえた。

「返答や如何に」と刀に手を掛けたまま左馬之助が前にでると、若党二人も続いた。

 堪らず立ち上ったおみよは広之進の肩にそっと手を置いた。

「広様、大丈夫ですか」

「ええ、大丈夫です。だから、おみよさんは後ろに下がっててください」

 振り返った広之進は精一杯の笑顔で強がって見せた。

 顔を元に戻した広之進は、左馬之助を正面から確と見た。

(こうなっては致し方ない。左馬之助さんはどうあっても討ち果す気だ。できるなら、事を荒立てずに済ませたかった……)

 覚悟決めた広之進が言い放った。

「私には村木さんは……、人は斬れません!」

「貴様、正気か! 仇がすぐそこにいるのだぞ」

 鋭い左馬之助の視線を正面で受け止めながら、広之進はグッとアゴを引いた。

 しばし二人は睨み合ったまま微動だにしなかったが、左馬之助が押し殺した声で言った。

「そうか、どうやら気が触れたようではなさそうだな。では」

 鯉口を切った左馬之助が音もなく大刀を引き抜く。続いて若党二人も抜いた。

 こうなることは百も承知していた広之進は迷うことなく抜刀した。

 正眼の構えで対峙する武士たちを、往来の人々は足を止めて遠巻きに見守った。

 一層黒みを増した空に雷鳴が轟く中、それぞれの意地を賭けた、一門同士の戦いの幕が切って落とされた。

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