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へっぽこ  作者: 真柴 文明
第三章
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十八.広之進、初めて女を知る

 季節はすっかり春めき出した四月初めのとある昼前。伊之助は人目も(はばか)らずに泣きじゃくる広之進に付き添いながら、長屋を目指して街中を歩いていた。

「ヒクッ、やはり私はヒクッ、何をしてもヒクッ、だめなのですヒクッ」

「まあまあ旦那、高が鰻ぐれえでそんなに思い詰めちゃいけやせん。もうすぐ長屋ですぜ」

 伊之助と一緒に長屋に着いた広之進は何も言わずに上がり込むと、部屋の隅で膝を立てて座った。そして大きな溜息を吐くと共に立てた膝に顔を埋めてへこんだ。

「おい、今度は何があった」

 上り框に腰を下ろしていた隆広が土間で佇む伊之助に呆れ顔で訊ねた。

「いえね、あっしの伝手(つて)で鰻屋を紹介したんですが、肝心の鰻がさばけなくて」

 浅草で懐かしげに鰻の蒲焼を見ていた隆広の姿を思い出した広之進は、蒲焼作りをを思い立ったのだったが……。

「言わんこっちゃねえ。血ぃ見るのがでえ嫌れな奴が鰻屋なんぞに務まるか」

「あっしもお止めしたんですがね。どうしてもやってみたいと言い張るんで、つい」

「これで何件目だ」

「えーと、そうですね」

 伊之助は宙を見ながら指折り数え始めた。

「最初、灰買いに行ったときは灰まみれになって帰って来やしたし、次の下駄の歯入れのときは木槌で歯を打つ代わりにご自分の親指を打ちなさるし、棒手振(ぼてふり)やらせりゃ、石に(つまず)いて大事な品を道端にぶちまけてーー」

「もういい!」

「えっ、まだまだありやすぜ。両手の指じゃ足りねえくらい」

「だからいいって言ってんだ。これ以上聞いたら、こっちまで気が滅入っちまう」

 両膝に手を置いてガックリ肩を落とした隆広は肩越しに大きくへこむ広之進の小さな背中を見た。

「たくっ、ここまでヘマし続ける奴なんか初めてだぜ。ある意味すげえな」

「へい、おっしゃる通りで」

 手詰まり感に覆われる中、あることを思い付いた隆広は顔を戻して伊之助に目をやった。

「もうこうなったら、あれしかねえな」

「あれと言いやすと」

「ちょいと耳貸せ」

 手招きした隆広が身を屈める伊之助の耳元で何やら囁いた。

 聞き終えた伊之助は体を元に戻して胸を叩いた。

「ようござんんす。及ばずながらこの伊之助、旦那のためなら一肌でも二肌でも脱ぎますぜ」

「頼んだぜ」

「へい、任せておくんなさい。では、早速」

 威勢のいい言葉を残して伊之助が部屋から飛出すと、隆広は部屋の隅でへこみ続ける広之進を見てほくそ笑んだ。

 

 三日後の昼下がり。広之進は伊之助に連れられて、再び成龍寺門前町で茶屋を営む久蔵の下を訪れていた。

 挨拶もそこそこに、広之進は店の奥に通された。

「伊之助さん、いったい私をどこに連れて行としているのですか」

 広之進は振り返って後ろからついてくる伊之助に訊ねた。

「まあまあ旦那、安心しておくんなさい。悪いようにはしやせんから。さあ前を向いて久蔵じいさんに付いててくださいまし」

 伊之助に促されて広之進が前を向くと、久蔵が肩越しにニヤニヤしながらこちらを見ていた。

「そうですよ。私に任せておけば、何の心配もございません。さっさっすぐそこですよ」

 広之進は狐につままれた気分になったが、この二人なら別に妙なことはしないだろうと、とりあえず付いて行った。

 一列になった三人は細い廊下を抜けて一番奥の部屋に着いた。

「さあ着きましたよ。こちらの部屋でお相手する者が待っております」

 久蔵はにこやかに言いながら障子の引き手をさっと引くと、広之進の目が点になった。

 八畳二間を襖で仕切ったその部屋の奥には一組の真新しい布団が敷かれ、その前で大女が気恥ずかしそうにちょこんと座っていた。

 慌てて障子を閉めた広之進は声を上ずらせて久蔵を見た。

「こここここ、これはどういうことですか!」

「えっ、私はただ伊之助さんに頼まれまして、ちょいと見繕(みつくろ)ってご用意させていただいたんですが、それが何か」

「伊之助さん!」

 食って掛かるように言う広之進に、伊之助はシレっと言って退けた。

「あっしもお父上様に頼まれましてね。傷付いた男の心を慰めてくれるのは女の柔肌しかねえって」

「ち・ち・う・え~~っ」

 恨むように呻き声を上げる広之進を、伊之助は気にも留めずに言った。

「でね、上手い具合に久蔵じいさんがその道に通じてやてね。なあ、じいさん」

「ええ、足を洗ってからの私の裏稼業でしてね。へへへへ」

 久蔵が言う裏稼業とは一種の私娼(ししょう)紹介業のことを指す。久蔵が扱う女たちは皆それぞれに事情を抱えた、その場をしのぐ金を得るために、素人女が多く、その初々しい肌を求めて客は後を絶たなかった。無論、お上に認められた公娼ではないので、取り締まりも厳しく、秘密が漏れない口の堅い客しか相手にしない。

 さらに久蔵は自慢げに言った。

「あの血飛沫相手に大立ち回りなさった広之進様のために、この久蔵が腕に()りを掛けて選んだ女でございます。さっ早く入って楽しんでくださいまし」

 今までまともに女に相手されたことがなかった広之進は女と交わるどころか手に触れたことさえない。久蔵にニッコリ笑って「楽しんでくださいまし」と言われても、どう楽しんでいいのやら見当もつかない。

 広之進は助けを求めるように伊之助にしがみ付いた。

「い、伊之助さん。帰ってもよいですか」

「なにバカ言ってんですか」

 伊之助は広之進の体の向きをくるりと返して前に突き飛ばし、そこへ絶妙の間で久蔵が障子を開けた。

「わっわっわっわっ」

 大きくたたらを踏んで部屋に入った広之進は危うく転びそうになると、思わず畳に手を着いて四つん這いになった。

ほっと息を吐く広之進の背中に、伊之助が声を掛けた。

「旦那、男になってくださいまし。あっしは終わった頃を見計らって迎えにめいりやす」

 そう言い残して、障子がピシャリと音を立てて閉められた。

「わ、私にどうしろというんだ。まったく勝手な人たちだな」

 体を起こして独り言ちる広之進の耳元に「あの……」と囁くような女の声が聞こえた。

 声の方に目をやると、あの大女が俯き加減にモジモジしながら座っている。座っているからはっきりとは分からないが、恐らく立てば五尺近くはあるだろう。肩幅も胸も腰回りも大きく、それでいて肌は透き通るような白さだ。

(なんだか大福餅を重ねたみたいな、ふっくらと柔らかな感じがする(ひと)だな)

 しばし広之進は憑かれたように女に見入っていると、突如立ち上った女がスルスルと帯を解き始め、あっという間に白い長襦袢(ながじゅばん)一枚になった。

 女は何も言わずにそのまま近付き、呆気に取られる広之進を真上から見下ろした。

(うわぁぁぁぁぁぁぁ。お、大きい! 頭一つどころか二つ、三つ私より大きい。いったい、これからどうなってしまうのか……)

 身をのけ反らせて怯える広之進に、薄く頬染めた女ははにかむように微笑んだ。笑うと右の頬に愛らしい笑いえくぼが顔を覗かせ、目尻の下がったその顔はなんとも憎めない愛嬌を感じさせた。

(へえーっ、そんな顔で笑うんだ。なんか可愛らしいな)

 そう思った途端、いきなり女が広之進の襟首を掴むと、そのまま軽々と抱きかかえた。

「えっえっえっ」

 女の大きな胸の中でどぎまぎする広之進の目に奥の部屋に敷かれた蒲団が目に入った。

「ちょちょちょちょ、ちょっと!」

 広之進の叫びを物ともせずに奥の部屋に入った女は広之進をそっと蒲団の上に置いた。

 柔らかな蒲団の上で目を白黒させながら、広之進は尚も尻込みした。

「あの、やはりこういうことはそれなりの手順を踏むというか、お互いもう少しーー」

 広之進の話を遮るように、女は背を向けて静かに襖を閉めた。

 一刻後、店の奥から現れた広之進は、まだ夢の中にいるような顔をしていた。

 

 この日から間もなく五日に一度、広之進の茶屋通いが始まった。

 広之進の初めての相手、あの大女の名はおみよといい、歳は広之進より二つ下の十八。

 おみよは江戸市中から北に外れた笹村の百姓・与平の娘で、今年で十になる年の離れた妹のおさきがいた。

 おみよとおさきの間には二人の兄弟がいたが、いずれも幼くして病で亡くなった。母親も二年前にこの世を去り、父親の与平が体調を崩し始めたのも、その頃からだった。

 与平は四十年も百姓をしていたが、少しも貧乏から抜け出させずにいた。その与平がここ最近寝込みがちになってしまうと、暮らし向きの一切の費用(かかり)と父親の薬代が一気におみよの肩に伸し掛った。妹のおさきも病がちである。

「家のもんはみんな体が弱くて。なのに、あたしだけがみっともないくらい大きく丈夫に育ってしまって……」とおみよは顔も体も上気させつつ蒲団の中で広之進に話した。

 久蔵の茶屋で広之進を客として相手した日からしばらくして、おみよは自ら自分の身の上を語るようになったのも、稚拙な愛撫の中にも広之進の(いた)わりと優しさが表われ、自然とおみよの口からそれだけのことを語るほど、実に心のこもったものだったからである。

 広之進もおみよのすべてが愛らしく思えてならない。自分の大ぶりな肉体を恥じ、真っ白なおみよの肌をその恥じらいが薄っすら赤く染め上げていく。その姿に広之進は初々しさと共に美しさを感じた。いくら大きいといってもそこは女。骨格が立派なだけで、それをしっとりと指に吸い付くような柔肌が包んでいる。肉付きもたるんでおらず、たっぷりと膨らんだ豊満な乳に広之進は溺れた。

 二人が初めて出会ったあの日。おみよが先に帰ったあと、奥から現れた広之進に近寄った久蔵は顔を覗き込んで微笑んだ。

「お気に召したようでございますね」

「うん」

 素直にうなずく広之進を、久蔵は好ましく思った。

 広之進を席に着かせた久蔵は、茶を淹れながら独り言のように言った。

「こうした遊びはねえ、初めて会った客と女が拠り所を失った者同士って言うんですか、その心が重なり合って、何と申しますか、互いになんもかんも忘れて睦み合う、その刹那が醍醐味でございまして。いえ、滅多にあることじゃないんですが、とにかく広之進様の相手におみよを選んでようございました」

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