十七.隆広、若き日を懐かしむ
七日後、広之進は父・隆広に連れられて浅草の表参道にいた。雷門から宝蔵門へ長々と続く表参道の両脇には玩具や菓子、土産物を売る店が立ち並び多くの人で賑わっている。この表参道に集まった店々が、後に「仲見世」と呼ばれるようになったのは、まだ先の話である。
広之進が前を行く隆広に言った。
「父上、なんかとても楽しそうですね」
「そうか。気のせいじゃねえのか。それにしても、ここは相変わらず流行ってんな」
表参道に着いてからというもの、隆広は広之進の職探しなど忘れたように自分が興味を覚えた店を片っ端から見て回った。
その姿に広之進は少々げんなりしていた。
(団子屋を覗いていたかと思うと、すぐにはす向かいの小間物屋に入るし、あっ、今度は隣の土産物屋に移った。まったく、父上はユーレイだから、人だろうが壁だろうがすり抜けて行かれるが、生身の私はついて行くのがやっとだ)
その隆広の足がいきなり止まった。
「父上、どうされたのです」
「あれを見な」
隆広が指差す方へ目を移すと、そこには「江戸前蒲焼」と書かれたのぼり旗を揚げた辻売りの鰻屋があった。そこでは幅一尺六寸、奥行き八寸ほどの小振りな長方形の七輪の上で開いた鰻の身が香ばしい匂いを周囲に漂わせていた。
かつての鰻の蒲焼といえば、三つ、四つにぶつ切りにした鰻を蒲の穂のように串に刺して焼き、味噌、醤油、酢をつけて食べるといった野趣に富んだものだったが、江戸時代も中頃になると「江戸前蒲焼」と称する鰻屋が現れ始めた。鰻を背から開いて骨と内臓を取り出し、頭を落として四つか五つに切り分け串を打ち、白焼き、蒸す。あとは醤油、酒、味醂で作った甘辛いタレを浸けてじっくり焙り焼けば、道を行き交う客の鼻をくすぐる。
もうもうと立ち込める煙の向こうからやって来る蒲焼特有の甘い香りに、広之進は小鼻をひくひくさせた。
「何ともよい匂いですね」
「そうだろう。若い頃は道場帰りに仲間とよく立ち食いしたもんだぜ」
懐かし気に蒲焼を眺める隆広を見ているうちに広之進は親孝行の真似事をしたくなった。
「よろしければ、私に取り憑いて鰻を一緒に食べませんか」
「ありがとよ。でもよ、あんな脂っこいもん、いまの弱り切ったおめえが食ったら、ひでえ胸焼け起こすか、腹下すか、とにかく碌なことはねえ」
「えっ、そうなのですか」
がっかりする広之進に、隆広は「その気持ちだけで十分よ」と微笑んだ。
突然、鰻屋から離れた隆広は広之進に背を向けて大きく両手を広げた。
「どうだ広之進。世間様は広いだろう。俺が江戸を勧めたのも、少しはものを見る目って奴を養って欲しかったからなんたんぜ」
両手を広げて語る隆広の背中を見ているうちに、ふと広之進はどうしてこれほど江戸の町に詳しいのだろうと思った。
「父上は江戸で暮らされたことがあるのですか」
隆広は両手を降ろして振向いた。
「ああ、そうだ。ありゃ確か、おめえくれえの歳だったかな。いきなり、殿様と上役に呼び出されて『見聞を広めて参れ』って言われてよ、江戸に行ったんだ」
若き日、藩の公費で江戸遊学を許された隆広は、物珍しさと血気盛んなお年頃もあって、遊んで学んだ。勉学そっちのけで。
呑む、打つ、買うの三拍子で遊び回り、時には市井の人々に因縁を吹っ掛ける無頼漢と渡り合うこともしばしばあった。そんなやりたい放題の隆広だったが、剣術だけは真面目に取り組み、道場に通い詰めては仲間と汗を流しながらその腕を磨いた。
ある日、隆広はたまたま呑み屋で相席になった彫物師と意気投合し、その家に入り浸るようになった。そしてその仕事を興味深げに眺めるようになっていった。
こうなると、元々凝り性なところがあった隆広は彫物師を通じて古道具屋や表具師、塗師に刀鍛冶といった職人たちの家へ行っては、少しも倦むことなくつぶさに彼らの仕事振りを見入り、時には自ら買って出て仕事を手伝うようになった。
このように父子揃って自分の好きなことに現を抜かすという点では、広之進は正しくその血を受け継いだといえる。
こうして三年という遊学期間は瞬く間に終わりに近付き、その頃になると隆広は剣の腕を上げると共に、工芸品や刀の見立て、さらに自らの手で種々の細工物を施すまでになっていた。そして遊学の期限が迫る中、いっそ堅苦しい武家とは縁を切って道具屋として身を立てた方がと、思い詰めるようになった。
しかし、その思いを打ち砕くように、突然、帰国の命が下る。これは隆広の手紙や人づてに聞いた様子から不安を覚えた一門が先手を打ったのである。また、藩としても公費を使ったあげく、武士を捨てて職人になるなど戯言以外の何物でもなかった。
一門の策謀により、あっ気なく散った夢と共に帰国した隆広はすぐさま問答無用で婚儀を押し付けられ家を継いだ。
「まっ、親父とお袋には悪いが、あんときは本気で道具屋になろうって思ってたんだぜ。それでよ、そのうち所帯持って店でも構えたら、親父とお袋呼んで江戸見物なんて親孝行の真似でもしてよ、許してもらおうと考えってたんだがな……」
隆広は苦笑いを浮かべて若き日の想いを語り終えた。
父の気持ちをまだ上手く飲み込めない広之進は思い切って訊ねてみた。
「父上は母上を妻取り、御家を継いだことを後悔なさっているのですか」
「いや、そんなことはねえ。正直、初対面で惚れちまった。そうなりゃ、道具屋のことなんぞ頭の隅からどっかに行っちまってよ、そのうちおまえが生まれて、あーっ、こりゃどうにもなんねえって心底思ったぜ。ほんっと、女ってなあ怖いな」
「しかし、本音では後悔しているのではないですか。もし武家を捨てていれば、村木さんに斬られず、今こうしてユーレイにならずに済んだのですから」
少し言葉を探すように宙に目をやった隆広は「やっぱ、そんなことはねえな」と言った。
隆広は宙に目を置いたまま続けた。
「確かによ、村木の奴にバッサリ殺られて、おめえに仇討なんてとんでもねえこと背負わせちまって悪いって思ってる。けど、ユーレイになったお陰で堅苦しい武家とおさらばできて、こうしておめえと腹割って話せるようになった」
広之進に目を戻した隆広は「こいつは、こいつでいいんじゃねえか」とニッと笑って見せた。
「父上……」
「人の世なんてそんなもんよ。良いも悪いも同じ手札の表と裏みてえなもんだ。いつも一緒にやって来るんだ。そう腹を括って生きてりゃ世間様もまんざら悪くねえぜ」
一旦、言葉を切って一つ間を置いた隆広は言った。
「御家潰して申し訳ねえって、おめえの気持ちも分かるけどよ、そろそろ前を向いてもいいんじゃねえか」
「父上はこんな不始末を仕出かした私をお許しになるのですか」
「許すも許さねえも、やっちまったもんは仕方ねえじゃねえか」
「それはそうなのですが……」
御家を潰したせめてもの償いに武家だけは全うしようと、広之進は固く心に誓っていたが、成り行きとはいえ、あれほど嫌っていた武家に拘ることに広之進は少なからず戸惑いを覚えていた。
「なんでえ、シケた面すんなよ。別に御武家やめろって言ってる訳じゃねえ。さっきも言ったが、俺は広い世間をおめえに知って欲しかっただけなんだぜ」
そう言うと隆広はいきなり宝蔵門へ向かって歩き出した。
「あっ、父上どちらに」
「ここまで来たんだ。ちょっくら御寺詣りしてくらあ。久々の外歩きで疲れただろう。先に帰ってていいぜ。じゃあな」
再び歩き出した隆広は、人ごみの中を悠然とすり抜けながら浅草寺へ向かった。
徐々に遠ざかる白い死装束に身を包んだ父の背中が今日はやけに大きく見える。
その背中を広之進は飽きることなく、いつまでも見続けていた。




