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へっぽこ  作者: 真柴 文明
第三章
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十五.撹然、始末を付ける

 広之進たちが去った後、巨大な御神木のように屹立する撹然を前に撹真は膝に手を置いてうな垂れていた。その傍らでは不安げな顔をした妙念が膝を着いて撹真の背中を優しく擦っている。

 撹然が重々しく口を開いた。

「面を上げよ、撹真」

「門跡様……、私は……」

「よい、何も申すでない」

 弱々しく顔を上げた撹真を手で遮った撹然は静かに語り掛けた。

「また執着(とらわ)れてしまったようじゃな。ほんに御武家という生きものは業が深いのお」

 そう言うと撹然は垂れ下がった大筆のような白い眉の奥から撹真を改めて見た。

「よいか撹真、何か一つのことに心を向けて極めようと励むことはよいことじゃ。実際、お前も剣ではそこそこ極めた。だが、そのことだけに心が執着れるのは、如何なものか」

 虚ろな目を宙に彷徨(さまよ)わせる撹真に構わず撹然は続けた。

「元々、人の心というものは、一つ処に不動の如く長く留まることなどない。考えてもみよ。僧堂で禅定を行っているとき、心を空にしてずーっと専心しておるのか、お前は」

 突然の問い掛けに撹真は戸惑った。

「えっ、す、少なくとも私は、そのつもりで取り組んでおります」

「ふん、そのようなことできるはずもなかろう」鼻で笑う撹然が続けた。「どんなに専心しようと、人はつい何かを(おも)うものだ。一度でも念うたら、もう専心どこではない」

 少し落ち着きを取り戻した撹真は、静かに耳を傾けた。

「ーーーー」

「しかし、浮かんでは消える(おも)いの中で、ふと束の間、心が空になるときがある。それが長く続けば結構なことなのだが、そうもいかん。禅定の最中でも、少しは心を留めて専心するが、すぐに心が緩んでそこから念い、また次へと念いは移る。そして、また専心するといった具合に繰り返しておるのだよ」

「ーーーー」

「そもそも、心というものは移ってゆくもの。おまえがここに流れ着いたときのことを思い出してみればよい。生に執着れ、武家の習に身も心もがんじがらめに縛り付けられ、死人(しびと)同然に成り果て彷徨い続けた心がどうなったかをな」

「ーーーー」

「例え一つ(ところ)(とど)まり続けるように見えても、時は流れ必ず心は移ってゆく。一つのことにこだわり、しがみ付くのは自然な姿ではない」

「ーーーー」

「だが、いくら一つ処に留まることなくあちらこちら移ってゆくといっても、そればかりでは落ち着きがなく(せわ)しない。つまり、同じ処に留まることはないが、その場その時での物事に一つ一つ、地に足を着けて(ゆるが)せにせず、心を向けてゆく」

「ーーーー」

「嬉しいことも、辛いことも、生きておれば誰でも必ず味わうものだ。それらすべての事象に、きちんと心を向けてゆく。たとえどれだけ時が掛ろうと、ありのままに受け入れていくことが肝要じゃ。逃げたり、目を背けてはならん」

 茫然と聞き入る撹真の前に膝を着いた撹然がそっと肩に手を置いた。

「ただし、その事象に執着れ、心の動きを留めてはいかん。それがどれほど嬉しかろうが、辛かろうが、留まり続けたら、そこから先に一歩も進めんからな」

「よいな」とニッと笑って立ち上った撹然は傍らにいた妙念に目をやった。

「妙念や、撹真と共に先に寺へ戻っててくれんか」

「はい」

 妙念に支えられてヨロヨロと立ち上った撹真は焦点の定まらぬ目で言った。

「門跡様、私はこれからどうすれば……」

「撹真よ、おまえは日々小さな手彫りの仏に手を合わせておるな」

 撹真は小さく頷いた。

「だったら、それをただ続けていけば、良いのではないか。そのうち違う景色も見えてくるじゃろう。見えたら、そちらへ移っていくがよい」

「門跡様……」

 焦点を失っていた撹真の目に涙と共に生彩の色が帯び始めると、撹然が声を上げて笑った。

「カッカッカッカッ! さあ、妙念と一緒に早う寺へ帰れ。皆、おまえの身を案じて待っておるぞ」

「はい、門跡様。では」

 手で涙を拭った撹真は踵を返して帰ろうとすると、妙念が不意に振り返った。

「門跡様、これからどうなさるのです」

「ワシはこれから、ちっと野暮用があるんでな。さあ、ワシのことはよいから早ういけ」 

 促された妙念が撹真と連れ立って帰っていくのを見届けた撹念は少し離れた竹林の中に佇む隆広に目をやった。

「さて、もう一仕事じゃな」

 そう独り言ちた撹然は、隆広に向かって歩き出した。

「んっ、なんだ。あの撹然とかいうジジィ、俺が見えてんのか」

 訝しむ隆広をよそに、撹然は平然と向かっていた。

 やがて、隆広の前に着くと、ニカッと歯を見せて笑った。

「これはこれは、広之進殿の御父君とお見受けするが、このようなところでお会いするとは奇遇ですな」

 いきなり声を掛けられて隆広は面食らった。

「撹然さん、あんた俺が見えるのか」

「如何にも」嬉しげに頷いた撹念が隆広の足元を見た。

「それにしても立派な御御足(おみあし)でございますな。これほど見事な足をしたユーレイは初めて見ました」

 顔を戻した撹然が笑みを浮かべて言った。

「いや~っ、長く生きていると、こういう珍妙なことに出会うのですから面白い。カッカッカッカッ!」

 高らかに笑う撹念を見て「こりゃ、一本取られちまった」と隆広は自分の額をピシャリと叩いた。

「いえね、倅の奴にも足があるなど、ユーレイとして自覚に欠けるって言われましてね。いや、お恥ずかしい」

「それはまた手厳しい。カッカッカッカッ!」

 一頻(ひとしき)り笑った撹念は改めて言った。

「ところで、実に素晴らしい御子息様でございますな。御武家にしておくのはもったいない。いっそ、撹真と共にここで修行なされては如何かな」

 撹然の申し出に少し思案した隆広は済まなさそうに頭を下げた。

「門跡様にそう言ってもらえるのはありがてえんですが、こっから先はあいつが自分で決めなきゃならねえんで。すいやせん」

「そうですか。修行すれば一角の僧となり、多くの衆生の拠り所になるのですがな」

 一つ息を吐いた撹然は気遣うように訊ねた。

「しかし、ここからが大変ですな。このままでは御家は断絶、広之進殿は浪々の身。あなた様はそれでよろしいのか」

「う~んっ、よくないちゃ、よくないんですがね。あっしはもう死んでるんで、御家もクソも関係ありやせん。あとはあいつがどう踏ん切り付けるだけでさあ」

 頷いた撹然がふと爽やかに晴れ上がった空を見上げると、それにつられて隆広も見上げた。

「今日も上々の天気。人の心も常にこうありたいものですな」

 微笑みながら言う撹然に、隆広も笑みを浮かべて答えた。

「へえ、おっしゃる通りで。しかし、そうままならないのが人の世の常なんで、風も吹けば雨も降りやす」

「そのときは、どうなさるのかな」

「そりゃ、出たとこ勝負のコンコンチキでさあ」

「ほう、コンコンチキとな。カッカッカッカッ!」

 御家断絶上等と言わんばかりにシレっと言ってのける隆広の耳に、撹然の笑い声が心地よく響いた。

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