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へっぽこ  作者: 真柴 文明
第一章
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四.広之進、仇討に怖気づく

「村木、討つべし!」にわかに殺気立つ一門を前に、広之進は狼狽し切っていた。

(あわわわわ。ど、どうしよう。みんな興奮して今にも村木さんを血祭りに上げそうな勢いだ。何とかしないと。あっ、そうだ。伯父上ならば、荒れたこの場を上手く治めてくださるかもしれない)

 そう考えた広之進は上座を見たが、頼みの綱である伯父の佐島は座布団の上に鎮座したまま腕を組んでじっと瞑目(めいもく)していた。

 あっ、こりゃあ駄目だと、あっさり見切りをつけた広之進、今度は目の前にいる坂本の方を見たが、伯父と同じく鎮座瞑目していた。

 頼みの二人がこれではと落胆する広之進の背中を刺すような声が、突如、一門の中から上がった。

「広之進、お前は自分が何を成すべきか、分かっているのか!」

「えっ」と声のする方に振り返った広之進の目に、末席から立ち上がり眉間に深い皺を刻んだ五つ年上の従兄、中村 左馬之助(なかむら さまのすけ)が大股でこちらに向かってくる姿が飛び込んできた。

 五尺近い堂々とした体躯に鋼のような筋肉を纏った左馬之助は若いながら、すでに藩の重要な御役目に就ている。去年、上役の娘を妻に迎え、将来を嘱望された若き俊英である。

 自分とは真逆の、陽の当たる人生を歩む左馬之助に、いきなり水を向けられた広之進が声を上ずらせて訊ねた。

「なっ、何を成すのですか?」

 広之進を見下ろす左馬之助が言い放つ。

「仇討に決まっているだろう!」

 仇討ーーつまり、復讐である。江戸時代、武士たる者、親兄弟を殺されたら、自らの手で復讐するのが当たり前だった。このように仇討ちが武家社会において黙認されていた背景には「汚名を雪がずにはおられない」という武家としての自尊心があり、武士は面子を潰されたり、汚名を着せられることを、何よりも嫌ったのである。

「あだ、うち、ですか?」武家の習に疎い広之進がきょとんとした。

「そうだ、仇討だ。それ以外になにがある」険しい表情のまま左馬之助は続けた。「佐島様の話では、すでに村木は他国に逃げている。当然、お前もその後を追わねばならん」

「えっ。ということは、旅に出るということですか?」

「そうだ。仇討ち旅に出て、村木を探し出す」

「探し出して、どうするのです?」

「斬る」

「…………」

 今まで好きな草花にどっぷり浸りきった緩い人生を送ってきた広之進にとって、どこに逃げたかも分からない相手を探し出して斬るなどという仇討ちの旅はどこか遠い世界の出来事に思えた。

 広之進は恐る恐る訊ねた。

「あの、それって必ずやらなければならないのですか?」

「親を殺されて、のほほんとしているような奴は、武士ではない!」

 従兄の怒声に、広之進は「ひっ」と首を(すく)めつつ思った。

 そもそも江戸に徳川幕府ができてから百年以上も経っている。戦国の世の荒々しさもすっかり影を潜めた今の平和なご時世に、誰が好き好んで仇討みたいな血生臭い復讐をしなければならないのかと。

 困惑する広之進の前に座った左馬之助は容赦なく告げた。

「村木を討ち果たさぬ限り、藩へ戻ることはできん。つまり、中村の家も終わるということだ」

「えっ、そんな御無体な!」

 思わず声を上げる広之進。生まれてこの方、まともに刀を抜いたことすらないから無理もない。

「無理です。無理です。絶対、無理です!」広之進は抗うように顔を激しく振った。

 と、ここまで上座で沈黙を守り続けていた佐島がおもむろに目を開け「狼狽(うろた)えるでない」と凄みを利かせた。

 佐島の威圧するような一言に、それまで血気に早っていた一門の誰もが口を(つぐ)んだ。

 静まった場を睥睨した佐島は、改めて広之進に言った。

「左馬之助の申す通り、村木を討たさぬ限り藩への帰参は叶わず、中村の家は断絶となる。それが武家の習だ」

 ここに至り、広之進は自分がのっぴきならない立場にあることをようやく理解した。

「ところで先程からの狼狽え振りからして仇討の旅がどういうものなのか、分かっておるのか」

 怪訝な顔で訊ねる佐島に、広之進が「さあ」と首を傾げた。

 何とも頼りない奴と、そう感じた佐島は広之進と向合っていた坂本に目をやった。

「坂本、ちと面倒だが、見ての通り武家の作法に不案内な甥に、仇討ちとはどういったものか教えてやってくれ」

「はっ」一礼した坂本が広之進を見据えて「では、これから仇討ちについてご説明申し上げる」と言った。

 江戸時代、仇討ちは許可制であったため、まずは藩を通じて幕府に届け出る必要があった。その理由が審議の上、正当と認められると公儀御用帳に「仇討帳付け」として姓名・身分・年齢などが記録される。こうして始めて討ち手は藩を離れ、一度浪々の身となって目指す仇を追い求める旅に出ることができるのである。当然、浪人なので藩から今の給料に当たる俸禄は支給されず、仇討の旅に出ている間の旅費及び生活費等は、基本的に親類縁者が支援する。

 とりあえず、仇の交友関係などに目星を付けて諸国を探し回るのだが、ここに必ずいるといった確証のないまま向かうので徒労に終わることも多く、時には根も葉もない噂に振り回されることもあった。

 このように結構しんどい旅を強いられるのが仇討であった。まさに当事者にとって、やってらんない旅だった。それでも旅の途中で投げ出そうものなら、それこそ「武士の名折れ」と罵られ、武家社会への復帰は断たれる。顔に泥を塗られた親類縁者らは、当然のように絶縁し、支援は打ち切りとなる。そんな苦しい思いまでして、やっと仇に巡り合えたとしても、返討ちの憂き目に遭うこともあった。

 しかし巡り合えただけでも、まだいい方かもしれない。仇がどこにいるのかも分からないまま、旅先で一生を終える者も少なくなかったからである。ちなみに、その成功率は江戸時代を通して、一%に満たなかったのではないかと言われている。本当に踏んだり蹴ったりの旅である。

「と、以上が仇討の旅についてのあらましでござる」平然と話し終えた坂本が訝しんだ。「んっ、広之進殿、如何なされた。少し顔色が優れぬように見えるが」

 坂本の話に顔から血の気が引いた広之進は、石のように固まっていた。

(むっ、無理だ。聞けば聞くほど、こんな過酷な旅などできっこない。しかも相手は藩の剣術指南役にして北辰一刀流免許皆伝の腕前を持つ村木さん。旅先で巡り合ったが最後、間違いなく、返り討ちに遭う!)

 旅の先に確実な死が待ってることを予感した広之進は、羽があったら今すぐにでもこの場から飛んで逃げだしたいと心の底から願った。

 しばらく固まっていた広之進がやっとの思いで口を開いた。

「仇討ちの旅とは、とても厳しいものなのですね……」

 坂本が無言で頷く。

 目の前で表情を一切変えず淡々と仇討を話す坂本、(かたわ)らには「村木を斬れ!」と血走った目で語る従兄の左馬之助、そして周囲には「親の仇は討って当然」と言わんばかりに無言の圧を掛ける中村一門。

 まさか初七日の席で、針のむしろに座るとは思ってもみなかった広之進は、両ひざを強く握り締める手に目を落とした。

(本当はこんな割に合わない仇討の旅などやりたくない。しかし、それでは中村の家が絶えてしまう。武家の習とはいえ、こんな理不尽なことがあってよいものか……)

 広之進が思いあぐねていると、ふと自分に厳しく接してくれた在りし日の父の姿と、葬儀に出られぬほど弱り切り、床に臥せる母の痛々しい姿が脳裏を掠めた。

(幼き日に初めて父に野山へ連れて行ってもらって以来、武家の嗜みである剣術、学問そっちのけで草花ばかりに現を抜かしてきた。そんな私を、父は手厳しく諭してくれた。何度も何度も、耳にタコができるくらい。それは決して、家の体面や父の見栄のためでないことは、言葉の端々から伝わってくる。面子だ、習いだと、何かと息苦しい武家社会を生き抜くために、父は父なりに頼りない私をどうにかしよう奮励してくれていたのだ。だけど、本当に父上は言いたい放題だったな。ほとんど会話にならなかった……)

 だが、今はその父の言葉の一つ、一つが胸に沁みる。もっとちゃんと向合っていればと、ただ悔やむばかりの広之進であった。

 一方、母と言えば、そんな不器用な息子をいつも優しく、包み込むように見守ってくれていた。

 広之進が野山の草花に心を奪われ夢中になっても、武家の嗜みである剣術、学問を疎かにしても、父から毎日小言を浴びせられても、周囲から「へっぽこ侍」と陰口を叩かれても、友と呼べる者がおらず、ひとり嬉々として自分の世界に浸りきっても、母はいつも微笑んで「好きなことをおやりなさい」と励ましてくれた。

(そういえば、私が初めて御役目を頂いたとき、母上は我が事のように喜んでくださった。夕餉の席で私の手を強く握って「広之進、よくやりました」と、御庭廻り役という大した御役目でもないのに涙さえ浮かべてらした。もっとも、父上は苦り切った顔で黙々と食べていらした。何かお言葉の一つでも掛けてくださるのかと思っていたが、結局、何も言ってくださらなかった。藩の重責を担う勘定吟味役だったからな。その息子が植木職人まがいの役目に就いたのだから、さぞ複雑なお気持ちだったのだろう。でも、夕餉を終えられた父上が立ち去り際に背を向けたまま、ただ一言「励め」と言ってくださった。やはり、父上も喜んでくださっていたのだ)

 その父は、今はもういない。母は突然の惨事に、心を痛めて床に臥せたままである。

 父と母のためにもと、広之進は自分を奮立たせようとしたが、過酷な旅の上に相手があの村木では、と思うだけで腰が引けてしまう。

 下を向いたままじっと地蔵のように動かない広之進の背中を見ていた佐島が、おもむろに口を開いた。

「どうだ、広之進。仇討の旅というものがどういったものか、少しは分かったか」

 伯父の佐島を見ることもなく、広之進は無言でこくりと頷いた。

「お前が武家である以上、これは逃れぬことのできぬ定である。が、まだ初七日が済んだばかり。これから片付けねばならぬ諸事もまだ残っておるだろう。何より床に臥せたままの母が心配であろう」

 母のことを言われ、はっと顔を上げた広之進は宙を彷徨うような目で佐島を見た。

「お、伯父上。私は……」

「村木が仇と決まった場合、藩としては御公儀にこれを届出ねばならない。さらに江戸表におられる殿に仇討赦免状発布の許しも得なばならない。これらの手続きを済ませるのに些か刻が掛る」

 一度、言葉を切った佐島が小さく息を吐いて言い放つ。

「よって、広之進。四十九日の喪が明けるその時、覚悟を決めよ」

 決して権威に任せて大声で申し付ける訳でもないが、その声には有無も言わさぬ気迫があった。

 その声に広之進は観念したように畳に両手を着いてうな垂れた。

 

 その夜、広之進は百目ろうそくがぼんやり照らす、母・由之の部屋にいた。

 枕元に正座した広之進が覗き込むと、母はすやすや寝息を立てて眠っている。

(よかった。よく寝ていらっしゃる。もし今の母上に仇討の旅のことを話したら、何とおっしゃるだろう。いつもは優しく接してくださっているが、そこは武家の女子、やっぱり「立派に父の仇を討ちなさい」と言うだろう。しかし、相手があの村木さんである上に、どこに逃げたかも分からない。できることなら、仇討なんかに関わりたくない。父上には申し訳ないが、どうにかこれまで通り草花を愛でて生きていく術はないものか。でも、こんなことを言えば、母上はきっと悲しまれるだろう……)

「母上、私はどうしたらよいのでしょう」

 下を向いてぽつりと呟く広之進の耳に「広之進」と囁くような声が聞こえた。

 はっと顔を上げた広之進に、薄く目を開けた由之が力なく微笑んだ。

「お前の好きにおやりなさい……」

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