十三.広之進、仇討決行す
それから村木こと撹真を討つのか、討たないのか、広之進は悶々とした日を数日過ごした。
もちろん広之進も武家に生まれた者として果たすべきことは重々承知している。何より、自分の帰りを一日千秋の想いで待っている国元の母のためにも、今すぐに撹真を討ち果すべきなのだろう。それも江戸藩邸を通じて国元へ知らせれば、一門が選りすぐりの手練れを差し向け、自らの手を血で染めることなく容易く討ち取れるに違いない。
しかし、いくら頭で分かっていても、イザッとなると鉛を飲込んだように気持ちが塞込む。体が思うように動かない。
そんなこんなで悩み尽くした広之進は、ある夜、煮詰まった頭を少し冷やそうと猫の額ほどの小さな裏庭の濡縁に腰を下ろした。
久しぶりに触れた外の空気は肌を刺すような冬のそれとは違い、幾分か和らぎ、いつの間にか季節は冬から春に移ろうとしていた。
ふと広之進は庭の隅でいくつかの小さな白い花を連ねた雑草に目を留めた。月明りにぼんやり浮かぶ白花は、まるで小さな砂糖菓子のように見えた。
はて、何だろう。薄暗くてよく分からないが、見たこともない花なのかもしれない。
一瞬、腰を浮かせた広之進だったが、またすぐに座り込んでしまった。
(以前なら、旅先で初めて見る草花に出会えば、飛んで行って熱心に描き写したものだったが、今はとてもそんな気になれない。あの頃がひどく遠い昔のように感じる……)
視点の定まらない目をした広之進は時を忘れて裏庭の隅に咲いた小さな花を見続けた。
やがて空が白み始め、雀のさえずりが聞こえてきた。
その声に誘われるように見上げると、乳白色に変わった空が夜の帳を徐々に押し上げ、夜明けを告げる鶏鳴が雄々しく鳴いた。
いつの間にか開けた空に向かって広之進は、誰に言うでもなくポツリと呟いた。
「もはや、やるしかないのか……」
三日後、薄い雲が水色の空に流れる早春の朝。成龍寺裏にある竹林の中に、額に鉢巻を付た、たすき掛け姿で立つ広之進がいた。
それを遠巻きに隆広と伊之助が見守っていた。
やきもきしながら伊之助が訊ねた。
「お父上様、旦那ひとりで大丈夫なんですか」
「大丈夫も何も、あいつが自分でやるって言い出したんだ。好きにさせてやれ」
あの朝、自らの手で撹真を討つと心に決めた広之進は、その旨を文にしたため伊之助に成龍寺へ届けるよう頼んだ。本来ならば、国元の一門に知らせるべきだったが、多勢で寄って集って切り刻まれる撹真など見たくない。どうせ討つなら、誰にも頼らず自分一人で討つ。また、撹真もそれを望んでいるに違いない。
広之進の背中を見ていた隆広が呆れるように言った。
「実はな、あいつまだ奉行所に届け出てねえんだぜ」
「えっ、仇討って御奉行所に届け出なきゃならないんですかい」
目を丸くする伊之助に、隆広は仇討の手順を掻い摘んで話した。
一.まず町奉行所に届出をし「仇討許可証」を受け取る。
二.仇を見つけたら、討つ旨を奉行所に申し出る。
三.奉行所が仇を見つけた場合、役人が立合う中、竹矢来で仇討を行うこともあった。
四.討ち手が見事仇を討ち果したら、奉行所で「帳消」の手続きを行う。
「なかなか手間なもんなんですね。仇討って」伊之助がウンザリと言った。
「だろ。仇討許可証がなきゃ、ただの人殺しになるかもしれねえのに、あのバカ何考えてだか」
「じゃ、旦那は人を殺めた咎で奉行所にしょっ引かれんですかい」
「ああ、牢に放り込まれて御裁きを受けるだろうよ」
「そいつは、いけねえ!」
慌てて止めに入ろうとする伊之助の背中に向かって隆広が鋭く言い放った。
「騒ぐんじゃねえ!」
「えっ」と足を止めて振り返る伊之助に隆広は苦笑した。
「でえ丈夫だ。あいつが持ってる仇討赦免状や公儀の帳付け調べりゃ、この仇討が正式なもんだってことがすぐに分かる」
「それじゃあ、旦那は」
「安心しな。しばらくは牢暮らしになるが、そのうち御咎めなしで帰って来るだろうよ」
ほっと息を吐いた伊之助は改めて訊ねた。
「どうして旦那は、わざわざそんな面倒を背負い込むんですか」
「まあ、仇討許可証を受け取るといても、猫もらうみてえに右から左って訳にもいくめえ。色々と調べるからな。そのときに国元の一門に知られちまうだろうよ」
「では、旦那はおひとりで討つため」
「そうだ。余程、一門に知られたくないんだろうな。あいつひとりでカタ付けるつもりだ」
「そんな……」
伊之助は不安げな目で、四尺に満たない小さな背中を見詰めた。
やがて、澄んだ朝焼けの中を、ひとりの僧侶がこちらに向かって歩いて来た。
数珠を手に白衣に身を包んだ撹真は広之進の眼前に現れると、静かに手を合わせて一礼した。その姿はこれから切腹に臨む武人と通じるものがあった。
ゆっくりと頭を上げた撹真は一点の曇りもない眼差しで言った。
「広之進殿、その顔から察するに、かなりおやつれのご様子」
「えっ、あっ、いえ。この顔はなんというか、その……」
しどろもどろになる広之進の顔は、撹真が言うように相当非道いものだった。碌に食べも寝もせずに煩悶する日々を過ごしたため、左右の鬢から髪が四、五本だらしなく垂れ下がり、目の下には一目でそれと分かる濃いクマができ、その上、頬が削げ落ちているとなれば、誰の目にもそう映って当然である。
「あの私のことは、お気遣いなく。大丈夫ですから。ハハハ」
力なく笑った広之進は改めて訊ねた。
「それより、本当に構わないのですか。あなたを討つということは、あなたの命を絶つということですよ」
「左様。広之進殿の申す通り、死にまするな」顔色一つ変えずに撹真は続けた。「しかし、それも己の不始末が招いたこと。蒔いた種は、いずれ刈り取るらねばなりません」
「でも、それではーー」
「臆されたか!」まだ躊躇いを見せる広之進を撹真が一喝した。
「うっ」
「武家に生まれた者なら、仇討の作法がどういったものか、広之進殿も承知のはず。それを仇を前にして怖気づくとは国元の母御は泣いておられますぞ」
母のことを持ち出された広之進は、ハッと我に返った。
(そうだ。国元に残した母上は、今か今かと私の帰りを心待ちにしておられる。母上のためにも、心を鬼にして撹真様を討たねばならない)
迷いが消えた広之進の顔を、撹真は心に焼き付けるように確と見た。
「その意気や良し」
満足気に頷いた撹真は広之進に背を向けて正座した。
「では、いつでも参られよ」
落ち着き払った撹真の声が、朝日を受けて青々と浮かび上がる竹林に静かに流れた。