八.臆病者
その後、村木は剣友宅を抜け出し、当ても無く江戸の町を彷徨った。自分でも気付かぬうちに人目を避けるように裏通りをフラフラ歩き回って、時には鼻つまみの無頼漢に絡まれては殴る蹴るといいように遊ばれ、時には雨に打たれてずぶ濡れのまま寂れた寺の軒下で夜を明かすこともしばしば。
己の仕出かした愚行に恐れ慄き、いつ現れるとも知れない討ち手に怯え続ける日々。剣友の言う通り武士らしく潔く名乗り出て腹を斬る覚悟もなければ、正々堂々と竹矢来の中で討ち手と立合う気概もない。ただ生きたい。死にたくないと願うばかりの己にほとほと倦み疲れた。すべてを投打って極めた剣の道。その結果がこれかと、村木は激しく自分を責めた。
江戸に逃れて三月も過ぎた初夏の頃には、あばら骨が垂木のように浮き出るほど瘦せ衰え、頬は削げ落ち、目は洞穴のように大きく窪んだ。もはや生ける屍に変わり果てた村木は、気が付けばいつの間にやら夕暮れ迫る成龍寺の門前にポツンと立っていた。
「夕の勤行が静かに流れておりました」目を赤くした撹真が懐かしげに言った。
薄く茜に染まる境内へ誘われるように足を踏み入れた村木の耳に、衆生に捧げる祈りの調べが心地よく響く。
(ああ、なんと清浄な……)
目を閉じて聞き入る村木の頬に光るものが一筋。
こんなにも穏やかな気持ちになれたのは、いつ以来のことかと、ふと気が緩んだ途端、村木は事切れたようにその場に崩れ落ちた。
担ぎ込まれた僧房の一室で村木は薄く目を開けた。
(ここは、どこだ……。私はどうしたんだ……)
そばで介抱していた小僧が意識を取り戻した村木に気が付いてにっこり笑った。
「よかった。やっとお目覚めになられたのですね」
妙念と名乗る小僧からここ三日ほど死んだように眠っていた聞かされ、それほど疲れ切っていたのかと霞がかった頭でぼんやり思った。
「今、重湯をお持ちしますね」
妙念が立ち上ると廊下の障子がスッと開き、老師がひとり静かに入ってきた。
「あっ、門跡様。たった今、この方が目を覚まされました」妙念は我が事のように喜んだ。
頷いた老師は村木に目をやって「拙僧は撹然と申す、ここを預かる者」と名乗った。
門跡と聞いて身を起こそうとする村木を、撹然は「そのまま、そのまま」と優しく手で制した。
夜具の横に腰を下ろした撹然は訳を尋ねてみたが、縋るような目を向けたまま村木は何かを言いかけては、何度も途中で口ごもった。
しばらくその様子を見ていた撹然は「束の間、ここで休んでいかれよ」と柔和な笑みを残して部屋を後にした。
五日後、体調がやや戻った村木は覚束ない足取りで外に出た。本堂脇にできた日陰の中から目をしょぼつかせながら見上げると、梅雨が明け目が覚めるような青空が広がっていた。
目を閉じて鼻から雨に洗われた新緑の匂いがする空気を胸一杯に吸い込む。
(ああ、私は今、生きている。生き恥を曝しながらも、生きているんだ……)
体中に感じ取れる生の実感に村木は打ち震えた。
そこへ供を連れた撹然が通り掛り「ほう、きょうは具合がよいと見えるな」と声を掛けた。
目を開けた村木は慌てて会釈した。
「あっ、これは門跡様。手厚い介抱のお陰で、ようやくここまで快復いたしました。誠にもってどう感謝すればいいのやら言葉もございません」
供を先に返した撹然は恐縮する村木に「ほれ、見なされ」と境内を行き交う市井の人々を指差した。
見れば、愚図る幼子をなだめながら手を引く若い母親に、大店の主人だろうか、恰幅のいい体に上物の着物身に付けてゆったりと歩いている。その後ろを、風呂敷包みを抱えた丁稚が汗を掻々きついて行く。
反対側からは、旬の野菜を背負ったカゴに一杯詰めた百姓が額に流れる汗を手拭いで拭きながらやって来る。
門前町の方に目を向ければ、多くの参詣人で賑わう中、道具箱を天秤棒に提げた羅宇屋に研屋に、鋳掛屋などの職人たちが声を上げて練り歩き、茶屋では小女が休む間もなく店先の縁台でくつろぐ客の間を立ち回っていた。
「きょうも皆、元気、元気。良き哉、良き哉。村木殿、あんたもあの者たちと一緒じゃよ」
「えっ、一緒とはどういう意味なのです」
思わず聞き返す村木に、撹然は人の世の理をほんの少し話した。
「人は誰しも自分の立っているところから、外の世界を眺めておる。そこから見えるものと言えば、周りの景色や自分の手足ぐらいなもんじゃ。自分の顔などまったく見えん。鏡があって、初めて自分がどんな顔をしているのか分かる。人とはそれくらい自分のことが分かっておらん」
撹然は前を見たまま苦笑した。
「しかしな、これが他人のこととなると、実によく見える。そりゃ、事細かにな。そんな生盲の衆が同じこの世で暮らしておれば、ぶつかりもするわな。カッカッカッカッ」
ひとしきり笑うと、撹然は改めて村木に目をやった。
「だが、気に喰わんからといって、いちいち目くじら立てて、ああだこうだといがみ合ったところで、残るもといえば、恨み辛みくらいなもんじゃ。時には、許し許されることも必要なのではないかのお。そうやって情けを掛け合いながら、皆思い通りならない人の世を懸命に生きておるのだよ」
一旦、話を切った撹然の顔にふと笑みが浮かんだ。
「とまあ、偉そうなことを言っとるワシも実のところ自分のことがあまり分かっておらん」
そう言うと撹然は村木に向かって「だから、日々修行しておるのじゃよ」と悪戯小僧のようにニッと笑って見せた。
成龍寺という名刹を預かる門跡という立場にも関わらず、気負いのない撹然の話しぶりに、村木の頬が自然と緩んだ。
「おっ、笑われたな。ここに来て初めて見たわい」
「あっ、つい。申し訳ございません」
慌てて取り繕う村木に、撹然は「よいよい」と目を細めた。
さっきまでの笑みを消して撹然が訊ねた。
「ところで、村木殿。今あんたは、そこまでやつれる程の事情を抱えて苦しんでおる。つまり、それはあんたにとっては悪事じゃ」
村木は決まりが悪そうに小さく頷いた。
「しかし、その苦しみがあればこそ、今こうして愚僧が話す言葉にも、少しは耳を傾ける気になった。これはこれで、良いことではないかな」撹然は諭すように続けた。「一見、己が望まぬことは悪事のように見えるが、良いも悪いも一緒に来るんじゃ。人の一生などそのようなものよ。だからこそ、好事に巡り合えば感謝し、例え八方塞のような悪事の中にあっても、落ち着いて周りを見渡せば、必ず道はある」
そう言って微笑む撹然の顔を見ているうちに、村木は生に執われていた心がほんの僅か解れるような気がした。
一つ息を吐いて撹真が再び話し始めた。
「私は思い上がっておりました。やれ剣の達人だ。やれ北辰一刀免許皆伝だと、周囲から誉めそやされ舞上っておりました。そして次第に少しでも自分の意見と違う者を許せなくなっていたのです」
悪夢を払うように撹真は小さく頭を振った。
「それほど慢心していたのでございます。だから、一時の迷いとはいえ、あのような怖ろしいことを仕出かしてしまったのです」自責の念に顔を歪めながら撹真は続けた。「今は門跡様にすべてを打ち明け、許しを得て髪を下ろしました。どうせ一度は屍に成り果てた身。ならば、生まれ変わったつもりでここで修行させていただいております」
その証にと、撹真は懐から紫の袱紗を取出し、広之進の前に置くと開いて見せた。
中には手のひらに乗るほどの小さな木彫りの仏があった。粗削りだが、どこか地蔵菩薩に似た温かみのある顔に、広之進は思わず微笑んだ。
「これは」と訊ねる広之進に、小さな仏に目を落としたまま撹真は哀し気に言った。
「あなたの父君、中村 隆広様でございます」
「えっ、どういうことなのですか」
「せめてもの償いに、この仏様を中村様に見立てて毎日手を合わせ、その菩提を弔うと共に、己の戒めとしいるのです。そして、二度と剣は握るまいと門跡様の前で固く誓いを立てたのです」
小さな仏から顔を上げた撹真はきっぱりと言った。
「このような私が当院の一大事とはいえ、再び剣を取ることはあり得ませぬ」
撹真は「どうか、ご容赦ください」と畳に手を着いて深々と頭を下げた。
有無を言わさぬ勢いで頭を下げる撹真を前に、広之進が息を呑んでいるとそばにいた撹然が肩を軽く叩いた。
「頭を上げよ」
促されて頭を上げた撹真に、撹然が穏やかな声で語り掛けた。
「撹真よ、お前が二度と過ちを犯すまいとする思い、よーく分かった。だが、今は場合が場合じゃ。よって赦す」
「しかし、門跡様。私ーー」
「お前の剣を生かす時は、今ぞ!」撹然がバッサリ断じた。
思いも寄らない言葉に撹真が目を瞬かせていると、何を思い出したのか撹然が「あっ」と小さな声を上げてニッコリ笑った。
「ただし、決して殺めてはならぬ。なにせ、我らは仏に仕える身ゆえな」




