二.凶賊再び
グツグツ煮える鍋の音が静かに響く中、その鍋に見入る伊之助を訝しんだ隆広は窺うように訊ねた。
「どうした、伊之助。箸が進んでねえみてえだが、なんかあったか」
「えっ」と顔を上げた伊之助は隠すように力なく笑った。
「なんでもござんせん。あっしのことは気にせずにどんどん召し上がってください」
伊之助のどこか元気のない様子に気付いた広之進も訊ねた。
「そんな訳にはいきません。江戸に入ってからというもの、住むところや食事など世話になりっ放しです。大した力にはなりませんが、悩み事があるなら話してください。話せば少しは楽になりますよ」
親身になって相談に乗ろうとする広之進と隆広に、伊之助は頑なに話そうとはしなかったが、双方から強く促されてようやく重い口を開いた。
「実は古い知り合いに、久蔵って爺さんがおりやして、谷中の成龍寺門前で茶屋をやってるんですがーー」
この久蔵、元は伊之助と同じ夜鴉の儀平の下で働いていた盗賊であったが、儀平亡き後キッパリと足を洗い、今は茶屋の主人に収まっていた。
久蔵が営む茶屋は創建より四〇〇年を超える成龍寺門前にあった。成龍寺は一三五三年(文和二年)開創と伝えられ、多摩地方に一八の末寺を有する天台宗山門派の名刹である。境内中央に屹立する大本堂の堂々たる風格は、自ずと寺格の高さを物語っていた。そして、境内を守るように設けられた堅牢な八脚門の両脇には仁王像が祀られ、門前に睨みを利かしていた。
久蔵によれば、血飛沫の一味が改修のために寺に寄進された二千両を狙って近々押込みを掛けるということだった。
二千両という大金に目を丸くした隆広は声を潜めて「でっ、久蔵はその話どこで掴んだんた」と先を促した。
頷いた伊之助は話を進めた。
「二、三日前のことなんですがね、爺さんの店先を岩みてえにでっけえ男を連れた四十がらみの目付きの鋭い男が歩いてたんですよ。でね、その年嵩の方の身なりは一見どこかの御店者って感じだったんですが、連れてる大男はどう見てもヤクザかゴロツキの類にしか見えねえんで、ちょいと遊び心でその二人の後をつけたそうです」
妙な取り合わせの二人組に興味を覚えた久蔵は店を小女に任せてあとを追った。昔の血が騒ぐ久蔵がつかず離れずに巧みに距離を保ったままつけていると、二人は成龍寺の門を抜けて境内に足を踏み入れた。二人は本堂を素通りして鐘楼堂の脇へ隠れるように身を置いた。
素知らぬ顔で二人の前を通り過ぎた久蔵は、二人の目が届かないところまで来ると、さっと身を翻して、老人とは思えぬ素早さで鐘楼堂の裏の茂みに入った。
二人は鐘楼堂の陰から境内に目を配りながら何か話していた。初めはよく聞き取れなかったが、聞き耳を立てていると、そのうちボソボソ話す男の声が聞こえてきた。
「兄貴、本当にここをやるんですかい。あとで罰が当たりやせんか」
でかい図体に似合わず大男が怯えるように言うと、年嵩の男が語気を強めた。
「バカ野郎。血飛沫の御頭が一度口にしなすたんだ。やるに決まってんじゃねえか」
「すいやせん。でっ、この寺にどれくらいのお宝が眠ってるんです」
「出入り商人に化けた惣助の話じゃ、二千は下らねえって言ってた」
「えっ、そんなに!」
「しっ、声がでけえ」
「すいやせん……」首を竦めた大男が改めて訊ねた。「それで、いつやるんですか」
「まだ決まっちゃいねえ。それより惣助の野郎に繋ぎをつけて、もっと寺に探りを入れさせろ」
「へい、分かりやした」
二人が立ち去ると、茂みの中で青くなった久蔵は急いでその場から離れた。
店に戻った久蔵はその日たまたま立寄った伊之助に成龍寺で耳にしたことを話したのである。
鍋が煮え立つ音だけが聞こえる中、広之進は恐る恐る言った。
「伊之助さん、その二人って、まさか……」
「話だけなんで何とも言えねえんですが、たぶん仁平と吉松かと」
広之進の頭にあの荒寺での一件がまざまざと蘇った。
(そういえば、あれが初めての立ち合いだったな。首の付け根に峰がめり込む、あの何とも言えない感触。もし刃の方だったら……)
鍋を挟んで硬い表情のまま押し黙る広之進と伊之助を見た隆広は唐突にヒザを打った。
「なんでえ、なんでえ。二人ともシケた面しやがってよ」
妙に明るい隆広の声に、二人は不意を突かれたように顔を上げた。
「父上、何か策があるのですか」
「まあな。血飛沫みてえな凶賊におあつらい向きの連中がいるぜ」
「それは誰なのです」
「盗賊改だ」
正式名称「火附盗賊改方」は、凶悪武装集団専門の特別警察のことである。盗賊改は徳川将軍直属の精鋭部隊「御先手組」から成る組織で、武家の中でも特に優れた者が選ばれたエリート武術集団だった。
しかし、盗賊改と聞くと、伊之助は首を竦めてブルブル震えた。
「と、とんでもねえ。あんな連中と関わるなんて、命がいくつあっても足りねえ」
盗賊改には怪しいと睨めば、武士、町人、僧侶など誰彼の区別なく捕らえてもよいという権限が与えられていた。そして捕まえては拷問に掛けて自白に追い込み、多くの冤罪を生んだと言われている。そのため江戸市中の人々から大変嫌われ、すこぶる評判が悪かった。
「では、町奉行所に訴え出ては」
広之進の進言に、伊之助は力なく頭を振った。
「斬り合い覚悟じゃねえと、あんな手荒な連中抑えるなんてできやせん。所詮、町方には無理な話でござんすよ」
町奉行所は犯罪者を正式な裁判に掛けるため捕縛が主な任務で、凶悪な賊の群れに対して的確に対処し制圧するほどの武力は持ち合わせてはいなかった。
一方、盗賊改は基本的に軍政の色が濃く、その手口は非常に荒っぽく歯向かえばその場で斬って捨てることも辞さなかった。ここら辺が町奉行所とは大きく異なり、ある意味、盗賊改は「殺人許可証」を与えられていた。
重苦しい空気が漂う中、隆広が口を開いた。
「とりあえず、押込み先の寺に知らせようじゃねえか。それでよ、そこの坊さんから盗賊改か町方に訴えてもらった方が、俺たちみてえなもんがしゃしゃり出るよりいいんじゃねえか」
「確かに」と頷いた広之進は伊之助に目をやった。
「伊之助さんは元・盗っ人ですから、やはりああいったお役所には行かない方がいいでしょう。私も仇を捜す浪々の身なので、まともに取り合ってくれるか怪しいもんです。逆に疑われるかもしれません。ここは父上のおっしゃる通り、成龍寺へ直接出向きましょう」
「そうですね。早速、あしたの朝一番で行きやしょう」
少し気持ちが楽になったのか、伊之助は鍋のドジョウを箸で軽快につまみ始めた。
「そうとなったら、腹減ってはなんとやらってね。ドジョウはまだまだありやすから、旦那もどんどんいっちゃってくださいよ」
「そうですか。では、遠慮なくいただきます」
ドジョウ鍋を楽しむ二人を、しばらくそばで指を咥えて見ていた隆広は突如声を押し殺して言った。
「勘弁しろよ」
隆広が音もなく滑り込むように取り憑くと、広之進の箸が勝手に動いて皿の上にドジョウをてんこ盛りにした。
《父上、なにを勝手なことをされているのです》
《若けえんだから、これくらいつべこべ言わずに食え》
問答無用で隆広は箸でつまんだドジョウを次から次へと、広之進の口の中に押し込んだ。
《あぢっ、あぢっ。父……、うぐっ……》
《ハフハフ。こりゃたまんねえ。ほっぺたが落ちそうだぜ》
涙目で熱々のドジョウを口いっぱいに頬張る広之進を見ていた伊之助が呆れるように言った。
「旦那、急にどうしたんですか。そんなに慌てなくても、ドジョウならまだありやすぜ」
無理やり口に押し込まれた大量のドジョウを、やっとの思いで飲込んだ広之進は涙目で訴えた。
「ち、違うんです。父上が取り憑いて勝手にドジョウを口に入れるのです」
「えっ」と伊之助が横に目をやると、さっきまでいた隆広の姿がいつの間にか消えていた。
腑に落ちたように頷いた伊之助が微笑んだ。
「いいじゃないですか。父子一緒に鍋つつくなんて羨ましいですぜ』
などと、のん気なことを言いながら伊之助は自分の皿に盛ったドジョウを美味そうに頬張った。
広之進の手は再び本人の許可なく鍋からドジョウを次々とつまみ上げては、また山のように皿の上に盛った。
《父上、いい加減に、うぐっ。あぢっ!》
黙って食えと言わんばかりに、熱い塊が広之進の口にまた押し込まれた。




