一.江戸暮らし
江戸に入った広之進は、伊之助の伝手で深川蛤町の長屋に腰を落ち着けた。それから早くも三月が経ち、年が明けた一月半ばのとある夕刻。
長屋の裏手にある猫の額ほどの庭で、朝夕の日課である木刀の素振りに励む広之進の耳に、暮れ六つを告げる鐘の音が入った。
「もうそのような刻限なのか。やはり、冬は陽が落ちるのが早いな」
このように広之進が自ら進んで剣術の稽古に勤しむのも、一つにはこの広い江戸で仇にバッタリ出くわしイザッ立ち合いになった場合に備えるためであり、一つには取り憑いた父・隆広の無茶な要求に少しでも付いていくためでもある。広之進にも少しは武家としての自覚のようなものが、芽生えてきたのかもしれない。
腰に掛けた手拭いで額の汗を拭った広之進が濡れ縁から部屋に足を一歩踏み入れた途端、思わずギクリとした。
六畳一間の仄暗い部屋のど真ん中にぼーっと白く浮かぶ、背を向けた隆広が片肘着いて寝っ転がっていた。
(う~んっ。父上と分かっていても、やはり暗い部屋で見ると、この世のものでないことを思い知らされる……)
小さな息を一つ吐いた広之進は「ただいま、終わりました」と声を掛けて、すぐに行灯に灯を入れた。
体を起こした隆広は広之進の方に向いてあぐらを掻くと、軽口を叩いた。
「しっかし、毎日、毎日そんな棒切れ振回して、よく飽きねえな。どうだ、これから一杯行かねえか」
振向いた広之進は、居住まいを正して隆広をじっと見た。
「な、なんでえ。俺はただ、おめえを労ってやろうと思って酒に誘っただけじゃねえか」
「行きません」キッパリ断った広之進は続けた。「お酒を呑むのは私であって、父上ではありません。酒の風味というか、酒場の雰囲気を楽しんでるだけではありませんか」
「別にいいじゃねえか。おめえも、それなりに楽しいだろう」
「全然、楽しくありません。舌先はしびれるわ、ノドは焼けるわ、おまけに翌朝の頭の痛みといったら言葉にもできません」
酒好きの隆広が取り憑いてガバガバ呑むのだから、下戸の広之進には堪ったものではない。ここ三月というもの、仇討など忘れたように世慣れた隆広にあっちこっち連れ回される広之進はいい加減ウンザリしていた。
「分かった」ポンとヒザを打った隆広が口唇の片端を上げた。「だったら、女はどうだ。両国・回向院前の岡場所に可愛い娘が入ったって噂だ」
岡場所と聞いた途端、広之進はみるみる顔を歪めて下を見た。
「んっ、どうした。腹でも痛いのか」
隆広が覗き込むように訊ねると、広之進のくぐもった声が返ってきた。
「もう、お忘れなのですか……」
「んっ、なんだ。よく聞こえねえ」
耳に手を当てて聞き取ろうとする隆広に、突如、顔を上げた広之進は胸の奥に溜まりに溜まったものをぶちまけた。
「私は生まれてこの方、女に相手にされたことは、一度もございません!」
そう言うや、広之進は畳の上に突っ伏して嗚咽を漏らした。
さめざめと泣く広之進の背中を眺めながら、隆広はやれやれと溜息を吐いた。
(ほんっと、こいつ女口説くのが下手だからな。格子越しに少しは気の利いたことでも口にすりゃあいいのに、出てくるもんときたら草や花のことばかり。やれこの時期の何々草には、これこれといった効能があるとか講釈ばっかり垂れやがって、岡場所で誰がそんな話聞くんだよ)
よしっ、こうなったらと隆広はポンと手を打った。
「広之進、安心しな。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。いつかおめえのクソ面白くもねえ草の話に、耳を貸す女も必ず出てくる」
涙にぬれた顔を上げた広之進が目を吊り上げて訴えた。
「クソ面白くないって非道い! それにもう撃ち尽くしました!」
広之進は声を荒げ、隆広は耳を両手で塞いであっちを向いた。
そこへ鍋を提げた伊之助が現れた。ちなみに、父子水入らずと気を利かせた伊之助は、同じ町内の別の長屋に住んでいる。
「う~っ、さぶっ。旦那、いいもんが手に入りやしたんで、お裾分けに参りやした。んっ、どうかしたんですか」
伊之助が土間できょとんしていると、広之進は縋るように身を乗り出した。
「聞いてください、伊之助さん。父上がまた非道いこと言うのです」
「なんておっしゃったんですか」
「私が岡場所の女に相手にされないのは、私が大好きな草花の話ばかりするからだと言うのです」
そんなことかと鼻白んだ伊之助が部屋に目をやると、あぐらを掻いた隆広が何食わぬ顔で小指の先に付いた耳垢をふっと息を掛けて飛ばしていた。
苦笑した伊之助は広之進に目を戻して努めて明るく言った。
「まっ、そのうち味気のねえ草の話でも、広い世間にゃ面白がってくれる女がいますよ」
「い、伊之助さんまで非道い……」
「旦那、そんなに落ち込まないでくださいよ」伊之助は話を逸らすように続けた。「とりあえず、飯にしやしょう。何をするにもまずは腹ごしらえが大事ですぜ」
そう言って伊之助は手に提げていた鍋を顔の前に上げた。
火鉢に差した五徳の上でグツグツと鍋を煮立てる音と共に、ふんわりと漂う出汁の利いた下割の香りが広之進の鼻の奥をくすぐった。
鼻をひくつかせた広之進は鍋を見詰めながら言った。
「ねえ、伊之助さんもういいんじゃないですか」
鍋から溢れんばかりのドジョウが小躍りするように体を震わせ、その上に刻んだ白ネギがうず高く盛られていた。ネギの甘い匂いが立ち騒ぐ鍋の湯気と相まって空っぽになった広之進の腹を刺激した。
「ねえ、もういいでしょう」
口いっぱいに唾液を貯めた広之進が急くように言ったが、一向に返事が返ってこない。
「伊之助さん、聞いてます」
顔を上げた広之進が眉根を寄せて言うと、不意を突かれたように鍋を見た伊之助は「ええ、もう十分煮えてます。さあ、召し上がってくださいまし」と慌てて言った。
「いただきまーす」
お預けを喰らっていた犬のように広之進は鍋に飛び付いた。
甘辛い出汁が染みた熱々のドジョウが舌の上で跳ねる。ネギと一緒に食べれば、ほのかに広がる甘みと一緒に柔らかな身がほろりと口の中で溶けゆく。
ドジョウ特有のコクと旨味に広之進が舌鼓を打っていると、隣にいた隆広が物欲しそうな目でそれを見ていた。
視線に気付いた広之進は、硬い笑みを浮かべて言った。
「父上、そんな目で見られては、食べづらいのですが」
「だってよ、美味そうじゃねえか。ドジョウ鍋」
「でも、ユーレイの身では、食べられないではありませんか。第一、箸を一本握れないのに、どう鍋をつつくのです」
「だからよ、おめえに取り憑きゃ、その口と舌を通して俺にも風味や食感が味わえるって寸法だ」
「お断りします」
「なんでだよ。少しくらい、いいじゃねえか」
「よくありません。だって見境ないではありませんか。酒にしても蟒蛇のようにガバガバ呑まれるし、このドジョウ鍋もお一人で平らげるおつもりでしょう」
「ちっ。ドジョウばっかりそんなに食えるか。なあ、伊之助。おめえもそう思うだろ」
隆広は水を向けたが、伊之助は箸も付けずに、ただジッと煮えたぎる鍋に目を落としていた。




