十九.決着
予想外の展開に戸惑う酒井と再び向い合う広之進はもう一杯一杯だったが、隆広は大喜びしていた。
《よくやった! おめえ、やればできるじゃねえか。それでこそ俺の倅だ》
無邪気に喜ぶ隆広の声など、まったく届いていないように荒い息づかいのまま広之進は、唖然として酒井を見詰めていた。
(人って、あんな表情ができるんだ。世間ではよく「鬼の形相」と言うが、きっとあのような顔のこと指すのだろう。こわっ……)
《広之進。おい、広之進。どうした》
我が子の気の抜けた様子に気付いた隆広の声で、広之進はハッと我に返った。
《あっ、父上。申し訳ありません。少し考え事をしておりました》
《斬り合いの最中に余計なこと考えんな。それよりおめえ、腕の方はどうなんだ》
《それが今の一太刀で、もうダメかと……》
《しゃーねえな。おめえの体は操れても、生まれつきのもんは手の付けようがねえ》
広之進に取り憑けば、意のままに体を扱える隆広だったが、基礎体力などの生得のものは如何ともし難い。
《こうなったら、頭使うしかねえな》
《えっ、頭ですか》
《そうだ。頭使うんだ》
《はあ……》
突然、訳の分からぬことを口走る隆広に、広之進は力なく答えるしかなかった。
一方、ジリジリと間合いを詰め始めた酒井に、気付いた隆広はおどけるように言った。
《おっ、今度は本気で来るみてえだな》
《父上、どうするのです。もう受け切れません》
《安心しな。刀で受けねえように躱すからよ、おめえは黙って体預けときゃいいんだ》
《はい……》
広之進を押し切った隆広は、改めて酒井に目をやった。
(受けねえように躱すって言ったけどよ、どうする。さっきはどうにか受け切ったが、広之進のバカ力がなきゃ危ないところだったぜ……)
刻むように間合いを詰めていた酒井がスッと一歩前に出ると、それに合わせて広之進も一歩下がった。やがて酒井の気迫に押させるように広之進は下がり続けていた。
そして、足元にある路傍の石に気付かぬまま下がり続けた広之進は、その石に足を取られてよろめいてた。
「あっ」と小さな声を上げた広之進は、思わずその場にヒザを着いてしまった。
これを見た酒井、千載一遇とばかりに一気に迫る。
《ちっ、俺としたことが!》隆広が思わず声を上げる。
躍り出た酒井が大きく刀を振り上げたそのとき、どこからともなく飛んできた石つぶてが酒井の額を捉えた。
「うっ」と声を漏らした酒井が眉間の辺りに手を当てながら、二歩、三歩と後ろに下がった。
《よしっ 今だ!》
頭の中で隆広の声が轟くや、スクッと立ち上った広之進、刀を捨てて猛然と酒井に向かった。
《えっえっえっえっ》事の成り行きが今ひとつ飲込めない広之進の声が裏返った。
あっという間に酒井の懐に飛び込むと、酒井の足元にしゃがんでカエルのように真上に跳ねた。
ゴンッと、鈍い音を立てて広之進の目から火花が飛び散る。
「ぐは……」
広之進の頭突きをアゴにまともに喰らった酒井は、刀を手にしたまま大の字になって仰向けに倒れた。
《どうでえ! 一発で仕留めてやったぜ。ん、どうした頭抱えてなんかあったか》
子供のようにはしゃぐ隆広に、頭に両手を当ててしゃがみ込む広之進は涙目で訴えた。
《何かあったのかではありません。痛たたたっ》広之進は口を尖らせて続けた。《父上の頭を使うとは、このことだったのですね。痛たたたっ》
《そうだ。ちゃんと頭使ったろう。文句はあるめえ》
と、そこへ「旦那ーーっ!」と伊之助が声を張上げて駆け寄ってきた。
「あれ、伊之助さん。どうして」
振り返った広之進は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
実は先程の石つぶて、一旦逃げたものの、広之進の身を案じて戻ってきた伊之助が咄嗟に投げたものだった。
しゃがみ込む広之進の前にヒザを着いた伊之助は窺うように訊ねた。
「おケガはありやせんか」
「大丈夫です。それより、なぜ戻ってきたんですか」
きょとんとした顔で聞き返す広之進に、伊之助は小さく頭を振った。
「あっしも一度は、あいつらの目を掻い潜って森の外に出たんですが、そっからがいけねえ。足がどうしても前に出ねえんですよ」伊之助は目を伏せて続けた。「命を救ってくれた恩人を見捨てて、てめえ一人で逃げようとする自分に気が付いたんでさあ。とにかく間に合ってようござんした。危うく道を踏み外すところでした」
後悔と安堵が混ぜこぜになった表情を浮かべる伊之助を、広之進は労わるように言った。
「そんなに気に病むことはありません。第一、逃げろと言ったのは父上なのですから」
「痛み入りやす」
伊之助が辺りを見回して「ところで、お父上様は」と言った。
「今、私に取り憑いてます。父上、もう終わったのですから、離れていただけますか」
そう言うと広之進の体がブルッと震えて、背中から隆広がぬうっと現れた。
隆広は伊之助に目をやってニヤリと笑った。
「よっ、伊之助。おめえも物好きな奴だなあ。さっさっと逃げりゃいいのによ。けどよ、嫌いじゃないぜ。そういうの」
「恐れ入りやす。でっ、団蔵とお銀の奴をどうしやすか」
「ああ」と頷いた隆広と広之進は大の字で倒れている酒井を、遠巻きに呆然と見詰める二人を見た。
ヨロヨロと立ち上った広之進は振向いて隆広に言った。
「父上はここで伊之助さんと待っていてください。最後の始末くらい私にやらせてください」
「そうか。じゃあ、頼んだぜ」
踵を返した広之進はふらつきながら、落ちていた刀を拾って団蔵とお銀の下へ向かった。
広之進は自分でも驚くくらい落ち着いていた。不本意だったとはいえ、広之進にしてみれば酒井の懐に飛び込むなど、自らの命を危険に曝す以外の何物でもなかった。
だが、広之進は死の淵から還ってきた。酒井の斬撃を死に物狂いで跳ね返し、辛くも首の皮一枚で勝利を手繰り寄せた。今の広之進には死線を越えた者だけが持つ、ある種独特な余韻に似たものが漂ってていた。
隆広と伊之助が見守る中、団蔵とお銀の前に着いた広之進はいきなり刀の先を二人に向けた。
「ひっ」と小さな悲鳴を上げた二人は、その場で尻もちをついた。
二人を見下ろした広之進は、団蔵の鼻先に刀の切っ先を近付けた。
「団蔵さん。仇討赦免状は殿から賜った大切なものです。二度と手を出さないでください」
「へ、へいっ。おっしゃる通りにいたしやす。二度と手は出しやせん」
鼻先に向けられた刀のせいで寄り目になった団蔵は、ノドから絞り出すように言った。
「それから若い衆の皆さんは、誰も斬っていません。みんな気を失ってるだけです」
「あ、ありがとうございます。あいつらに代わってお礼申し上げやす」
このあと、お上から十手を預かる身なのだから、あまりアコギな真似はしないようにと、広之進から諭された団蔵は「へいっ。これからは心を入れ替えて務めます」と、震える声で誓った。
不意に切っ先が脂汗が滲む団蔵の顔からお銀に向けられた。
「きゃ」と声を上げたお銀は慌ててひれ伏した。
「ど、どうかお許しを……」
広之進は平板な声で淡々と話した。
「お銀さん。私が仕えていた藩はそれほど裕福ではありません。高々三万石の小藩です。あのお金は、そんな国元の一門が倹約に倹約を重ねて貯めたものです。それを私の仇討のために、惜しげもなく出してくれたのです。お願いです。返してください」
「は、はい。耳を揃えて、すぐにお返しいたします」
小さく頷いた広之進は刀を鞘に収めて、ほっと息を吐いた。
と、ここで何を思ったのか、広之進は団蔵に向かって愛想笑いを作った。
「あの~っ、団蔵さん。ひとつお願いがあるのですが」
「へい。何なりとお申し付けください。できる限りのことはさせて頂きやす」
もはや、蛇に睨まれたカエルに成り下がった団蔵は、不気味に映る広之進の笑顔を怯える目で見詰めていた。
「よかった。では、お言葉に甘えて、今晩泊めてください」
「へっ?」
「もうこんな夜更けですし、今夜は色々あって疲れました。よろしくお願いします」
煌々と輝く月の下、奇異なものを見るような目で見る団蔵の頬を、秋の夜風が優しく撫でた。




