十八.月下の戦い
生い茂る草むらの中に身を隠す広之進は月明りの中を不気味さを漂わせて向かって来る酒井に怯えていた。
《父上、あの者がおっしゃっていた一番厄介な奴なのですか。何やら人のようには見えないのですが》
《ああ、そうだ。伊之助が言ってた賭場の薄っ気味悪い用心棒てえのは、たぶんあいつだろう》
広之進はもう一度、目を凝らして酒井を見た。
(ひええええええええええええーーーーっ! め、目が死んでる。それに、父上以上に生気がない! ほ、本当に生きているのだろうか。もしこのような者を相手にしたら、きっとケガどころでは済まない……)
酒井の雰囲気に気圧された広之進が声と顔を強張らせた。
《父上、逃げましょう》
《はあっ。おめえ、なに言ってんだ》
《逃げるのです。大丈夫です。松明を持った者はもうおりません。これなら、安心して森を抜けることができます》
《まっ、森に入ってきた奴らは、全部叩きのめしたがよ、まだ他にもいるかもしれねえ》
《辺りを見たところ、そのような気配はありません。だから逃げましょう》
《やだね》
《なぜなのです。なぜ、わざわざあのような得体の知れない者を相手にするのです》
《シッポを巻いて逃げるのは、性に合わねえ》
《…………》
広之進はガックリ肩を落としてうな垂れていると、ようやく森の前に着いた酒井が呼び掛けた。
「おーい、俺は酒井というものだが、見ての通りヤクザの用心棒だ。捜すのも手間なんでな。すまんが、出てきてくれんか」
酒井の呼び掛けに広之進は逡巡した。
(確かに父上のおっしゃる通り、まだ奴らの仲間がどこかに潜んでいるかもしれない。そんなところにのこのこ出て行って取囲まれでもすれば、命取りになってしまう)
今のところ隆広も動く気がないと見た広之進は、しばらく草むらに留まることにした。
いくら待っても現れない広之進に、酒井は小さく息を漏らした。
「そんなに心配しなくていい。俺ひとりだ。妙な罠に掛けることはない。もっとも罠を掛けようにも若い衆が全員やられては、掛けようがない」一つ間を置いて酒井は続けた。「どうだ。ここで俺と決着を付けんか。朝になれば、役人が来る。袖の下を握らせているが、一応、奴らも仕事をしない訳にはいかない。そうなると、色々と面倒だ。それとも何か、素人同然のヤクザは相手にできても、俺のような侍崩れは相手にできんか」
小バカにしたような酒井の呼び掛けに、隆広が気色ばんだ。
《あの野郎~っ。おい、おめえ。あんなこと言われて腹が立たねえのか》
《いえ、まったく》
《かーっ、情けねえ。俺がおめえだったら、今すぐにでも出てって、ぶちのめしてやるぜ》
《父上言っておきますが、くれぐれも挑発に乗らないでください。あの者の申す通り朝になれば宿場役人が来ます。そうなれば、奴らも引かざるを得ません。その隙を突いて逃げるのです》
《それまで草むらでウ〇コするみてえに、ずっとしゃがみ込んどくのかよ》
《そうです。ウ〇コだろうが何だろうが、ここでじっとしておくのです。それに……》
広之進が何か言いたげに言葉を濁すと、隆広はオウム返しで先を促した。
《それにって、なんだよ。はっきりしろい》
《実は、先ほどの若い衆たちを片付けた私の両手は、もはや使い物になりません。もう、痛くて仕方がないのです。刀などまともに握れません》
一つ息を吐いて広之進はキッパリ言った。
《このような有様で、あの者と立合うなど考えただけでゾッとします》
赤く腫れ上がった広之進の手を見て、隆広は腹立たし気に舌打ちした。
静寂に包まれる森を眺めていた酒井が、再び小バカにするように呼び掛けた。
「おいおい、今さら怖気づいたのか。これはとんだ腰抜けだな。そんなに俺が怖いのか。こんなやせ浪人が怖いのか。まったく、お笑い種だな。ハハハハハッ」
これを聞いた隆広が語気を荒げた。
《言わせておきゃ、図に乗りやがって~っ》
《父上、落ち着いてください。別に父上が言われているのではありません。言われているのは、この私です》
《やかましい! あんな奴に好き放題に言われやがって、それでも武士か!》
《だから落ち着いてください。私はまったく気にしておりませんから》
《ゴチャゴチャ言ってんじゃねえ! 行くぞ、広之進!》
《ああ、もう……》
嘆きの声を漏らす広之進の意に反して体がスッと立ち上がると、森から酒井の前に躍り出た。
「おっ、やっと出てきてくれたか」と酒井は口唇の片端を上げた。
月明りの下、陰になった酒井の顔はよく見えなかったが、どうやら笑っているように広之進の目には映った。
(よかった。そんなに怒っているように見えないな。父上に引きずられて出る羽目になってしまったが、これなら話し合いに持ち込めるかもしれない。っていうか、ぜひ、それでお願いします!)
だが、広之進の願いも空しく、酒井は違った意味で笑っていた。
(人は見かけによらないとは、よく言ったものだ。こんな四尺もないチビ助にやられては、鉈の団蔵も形無しだな。ふんっ、見くびるから痛い目に遭うのだ。さて、仕事に取り掛かるとするか)
懐に仕舞っていた両腕を出した酒井の顔から笑みが消えた。
「お主には悪いが、これも仕事なのでな」
そう言うと、腰の大刀を引き抜いた酒井が「ここで死んでもらう」と濁った声で言った。
えっ、いきなりですかと、目を剥いて驚く広之進をよそに、手が勝手に刀を抜いた。
瞬く間に詰め寄った酒井は真上から叩き斬ってやろうと刀を大きく振り被ったが、僅かな隙も見せずに正眼に構える広之進を見た途端、動きを止めた。
(こいつ、切っ先がまったくブレていない。少し揺さぶってみるか)
酒井が上段に構えたまま右に左にススッと足を運ぶ。それに合わせて切っ先も右に左に酒井を捉えて逃がさない。
絶妙な動きを見せる切先に、酒井の目の色が変わった。
(さすがはたった四半刻で、あれだけの数の若い衆を片付けただけのことはある。しかし分からんのは、あの顔だ)
酒井は見事な構えに舌を巻きつつ、血の気の引いた顔でカタカタ歯を鳴らす広之進を不可解に思った。
(う~ん。こんな奴、初めて見た。構えと表情がまったく噛み合ってない。まるで首から下が別人のようだ。なんだか、気味が悪いな……)
酒井が味わったことのない違和感に戸惑う一方で、父子は懲りずに言い争っていた。
《父上、どうして刀を抜くのです! これでは話し合いになりません!》
《バカか、おめえは。決着を付けるって言った奴が刀を抜いたんだぞ。こっちも抜かねえでどうすんだ》
《どうすんだ、ではありません。これでは立ち合いです。勝てるのですか》
《てやんでえ。そんなの出たとこ勝負に決まってんだろ。このすっとこどっこい!》
ああ、やっぱり草むらでじっとしておけばよかったと、深い後悔の念に浸る広之進は命の灯が静かに消えていくのを強く感じた。
澄み切った月の下、両者はしばし相手の出方を探るように対峙した。睨み合いが続く中、突如、張詰めた空気を切り裂くように鋭く踏み込んだ酒井が一気に上段から打ち込む。
「やっ!」
頭の上から響く凄まじい金属音と共に広之進の腕に耐え難い衝撃が走る。
「ぐっ……」
固く目を閉じて声を漏らす広之進に、酒井が上から容赦なく体重を掛ける。頭上で受けた酒井の刀がジワリと広之進に迫った。
もはやこれ以上はと、広之進が諦めかけたそのとき、《目え開けろ! 相手が見えねえ!》と隆広の怒号が頭の中で飛び交った。
その声に押されて広之進がそーっと目を開けると、血走った眼を大きく見開き、口角を引きつらせた酒井の顔がすぐ目の前にあった。
「ぎゃ!」と悲鳴を上げると同時に、広之進はありったけの力を振絞って酒井の刀を横に払い除けた。
思いも寄らぬ広之進の火事場の馬鹿力に、たたらを踏んだ酒井は慌てて体勢を立て直すと、一歩引いて今度は正眼に構えた。
(こいつ、若い衆をすべて片付けて、まだあれだけの力残っているのか。くそっ、これでは迂闊に斬り込めんな……)
虫の音が静かに響き渡る中、正眼に構えた両者は再び対峙した。




