十四.強行突破
突如、悲鳴を上げて横にのけ反る広之進を、団蔵と若い衆たちは不可解な目で見ていた。
(なんだこいつ。いきなり大声出しやがったと思ったら、今度は誰もいねえのに横を向いてブツブツ言ってやがる。頭がおかしいんじゃねか)
そんな団蔵たちを尻目に、広之進は頭の中で隆広に訊ねた。
《ところで、ここから抜け出すのはよいのですが、伊之助さんは盗み出せたのでしょうか》
《たぶん、そこら辺は抜かりなくやったと思うぜ》
《そうですか。それならよいのですが》
《それよりよ、おめえ、今の自分の立場ってもんが分かってんのか》
隆広に言われて広之進が改めて周りを見回すと、眉根を寄せて訝しむ団蔵たちがいた。
「あっ」と小さな声を上げた広之進は、慌てて居住まいを正した。
「あの、突然大声を出して申し訳ありません。気にしないでください。それでですね、赦免状のことはもうよいので、これでお暇させてもらいます」
作り笑いを浮かべて広之進が腰を上げると、団蔵が濁った声で呼び止めた。
「待ちな。そっちはよくても、こっちはよくねえんだ。まあ、腰を据えてゆっくり話し合おうや」
団蔵がそう言った途端、右にいた若い衆が立ち上って広之進の肩を真下に押し込んだ。
団蔵がニヤリと笑った。
「なに、そんなに手間は取らせねえ。まずは赦免状って奴が、おめえさんのもんか確かめてくれねえか」
団蔵は若い衆のひとりに神棚に置いた手文庫を持ってくるように命じた。若い衆が手文庫を長火鉢の上に置くと、団蔵はいそいそと中を改めた。
しかし、いくら中を改めても赦免状が見当たらない。
「ねえ。ねえ。赦免状がねえ。いってえ、どこに消えちまったんだ」
いくら中を引っ掻き回しても出てこない赦免状に、苛立った団蔵は手文庫を逆さまにして中身を全部畳の上にぶちまけた。
「くそっ。どこにもねえ。確かにきのう、この中に入れたんだが」
団蔵の焦りが伝播したようにざわついた若い衆たちが長火鉢の前に集まると、畳の上にまかれた中身と団蔵の顔を交互に見た。
広之進の頭の奥から隆広の声が聞こえた。
《おい、連中がなくなった赦免状に気を取られてる隙に、ずらかるぞ》
《はい、すぐにお暇しましょう。それにしても、伊之助さんは頼りになりますね》
《まったく、あんだけのみじけえ間によくやってのけたもんだ。さすがは元・盗っ人だぜ》
気づかれないようにそーっと畳に手を着て四つん這いになった広之進は、ノロノロとその場から離れようとした。
「おい、どこに行くつもりだ。話はまだ終わっちゃいねえぜ」
怒りを孕んだ団蔵の声が背中に突き刺さると、広之進は恐る恐る声の方に顔を向けた。
「あのーっ、赦免状はないみたいですし、これ以上、私がいても意味はないかと」
引きつった広之進の顔を見ながら、団蔵はお銀の忠告を思い返していた。
(そういや、お銀の奴が用心した方がいいって言ってたが、まさか、こんな青二才に一杯食わされるとは思ってみなかったぜ)
団蔵が「てめえ、何やりやがった」と尖った目で言うと、若い衆たちも鋭い視線を広之進に投げ付けた。
「な、何もしてませんよ。だ、第一、ここに来たのは今日が初めてなんですから」
疑いの眼差しを向けていた団蔵が、ズバリと言い当てた。
「仲間がいんだろう」
いとも簡単に見破られた広之進は、心の蔵が口から飛び出てきそうになった。
《父上、バレてます》
《別に証拠がある訳じゃなえし、シラ切り通せ》
頭の奥から聞こえる隆広の声に、小さく頷いた広之進はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ど、どこにそのような証拠があるのです」
「へっ。そんなこたあ、おめえの体に聞けば、すぐに分かる」
団蔵が「おい」とアゴで指図すると、三人の若い衆たちが一気に広之進に押し寄せた。
子分のひとりが四つん這いになった広之進の首根っこを押さえようと手を突き出す。その手をサッと横に躱した広之進、逆に手首を掴んで腕を後ろ手に捻り上げた。
「いてててっ」
後ろ手に捻り上げたままスッと立ち上った広之進は、顔を歪める若い衆を盾に団蔵たちを牽制した。
団蔵が声を張上げた。
「この野郎、図に乗りやがって! おい、おまえら。お侍だろうと構うことはねえ。足腰立たねえようにしてやれ!」
団蔵の号令と共に、残りの若い衆二人が、広之進に襲い掛かる。
迫る二人の若い衆に、広之進はここぞという機を見計らって後ろ手に捻り上げた若い衆を思いっ切り前に突き飛ばした。
「うわっ」
突き飛ばされた仲間とまともにぶつかった三人は、もんどり打って畳の上に重なり合うように倒れ込んだ。
《よし。今のうちに逃げんぞ》
頭の中で響く隆広の声に、グッとアゴを引いた広之進は急いで廊下に出ると、玄関に向かって一目散に駆け出した。
「追え! そいつを逃がすな!」
団蔵の怒声を聞きつけた屋敷中の若い衆たちが一斉に広之進の後を追う。畳の上に倒れていた三人も慌ててその後に続いた。
広之進は命からがら店の前に飛び出すと、脇目も振らずに宿場の表通りを駆け抜けた。
必死に逃げる広之進の耳に、路地の物陰から自分を呼ぶ声が聞こえた。
「旦那、旦那。広之進の旦那」
足を止めて路地の方に目をやると、人の背丈を超えた大きな桶の横から伊之助が顔を出して手招きしている。
「あっ、伊之助さん」
駆け寄ってきた広之進の胸倉を掴んだ伊之助は、そのまま桶の陰に引き込んだ。
「旦那、ケガはありませんか」
「大丈夫です。伊之助さんの方は」
「あっしもこの通り、傷ひとつ付いちゃおりやせん」
桶の陰で互いの無事を確かめ合った二人は、ほっと息を吐いた。
広之進と伊之助が一息吐いて間もなく、表通りに地鳴りのような大勢の足音が響いた。
その足音が、突如、二人が身を潜める路地の前で止まった。
「野郎、どこに行きやがった」若い衆のひとりが言った。「兄貴、どうしやす。このまま手ぶらで帰ったら、親分に大目玉喰らいますぜ」
「分かってる。おい、手分けして捜すぞ。手始めに、おまえらそこの路地捜せ。他の奴らも野郎が隠れてそうなところ片っ端から捜せ」
「へいっ!」
やがて方々へ散って行く足音が消えると、桶に近付いてくる二つの足音がした。
桶の陰で広之進と伊之助は息を殺して足音が通り過ぎるのを待った。
辺りに目を配りながら桶の前を通り過ぎ、次第に遠ざかる巌のような二つの大きな背中を、広之進は祈るような思いで見詰めていた。
(お願いします。どうか、そのまま振り返らずに進んでください。一生のお願いです)
しかし、広之進の願いも空しく、いつの間にか足元に寄ってきた猫が餌をねだるように「ニャーッ」と鳴いた。
猫の鳴き声に振り返った二人が目を瞠った。
「野郎、こんなとこに隠れやがって!」
袖口をまくり上げながら迫り来る若い衆二人に、桶の陰で広之進と伊之助は立ち尽した。
ここは旦那だけでも逃げてもらわなきゃならねえ、そう腹を括った伊之助が前に出ようとすると、いきなり広之進が飛び出した。
「えっ、旦那。そっち行っちゃマズいですぜ!」
呼び止める伊之助を振り切るように二人に向かった広之進は頭の中で絶叫していた。
《父上ーーっ! どうして行くのです!》
《黙ってろ。舌噛むぞ》
自分たちに怯むことなく一直線に向かってくる小柄な広之進に、二人は殴り掛かった。
凄まじい勢いで振り下ろされる二つの拳をスッと頭を下げて躱した広之進は懐に潜り込むや、あっという間に二人の鳩尾に当身を喰らわせた。
「ぐぇ……」と妙な声を上げた二人は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
桶の陰から伊之助が駆け寄ってきた。
「旦那、お見事でござんす。いや~っ、それにして鮮やかな手付きで、あっしなんか目の前でなにが起こってんのか、さっぱり分かりやせんでした」
肩で息をしながら広之進はバツが悪そうな顔をした。
「実は、私がやったのではないのです」
「はあ? なに言ってんです。どう見ても旦那がやったようにしか見えませんが」
伊之助が首を傾げていると、隆広が急かした。
《おい、話はあとにしろ。今はこの宿場から出ることが先だ》
《そうですね。とりあえず、宿に戻って策を練りましょう》
広之進は改めて言った。
「伊之助さん、このまま表通りから宿に戻るのは危険なので、裏通りから案内してもらえますか」
「お安い御用でさあ。この宿場のことなら、あらかた調べ上げてるんで」
自信たっぷりに言う伊之助を先頭に広之進たちはあまり人目に触れない裏通り抜けて、こっそり宿に戻った。




