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へっぽこ  作者: 真柴 文明
第一章
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二.春夜の惨劇

 季節は少し進み、春先らしい冷たい風に思わず身を固くすることもなく、ほんのり暖かく緩んだ空気が漂っている。夜空には千切れた綿のような雲の間から薄い(かすみ)が掛ったようにぼんやり輝く月が顔を覗かせている。

 そんな春めいた夜、広之進は自室で日々書き溜めていた草花の絵を一枚、一枚眺めては、にんまりと目尻を下げて堪能していた。

「春先に見つけたオオイヌノフグリは、なかなかの出来だな。やはり早起きした甲斐があったな」

 などと、思わず口から漏らしてしまうくらい、今夜の広之進は緩み切っていた。

 今夜は父・隆広は同輩との付き合いで遅くなるため、日頃から日課のように頭の上から降ってくる小言の雨あられも、今日ばかりは聞かなくて済むと広之進の顔にも自然と笑みが零れてくる。

 小野派一刀流を使い、学問に通じ、算術にも長けた隆広は、文武両道を地で行く武士の鑑のような男。幼い頃はそんな父に憧れ、いつか自分も「父上のような立派な武士になりたい」と強く願った。

 しかし、剣術、学問と、悉くしくじり、思うようにならない現実から目を背けるように草花にのめり込む自分は、やはり父とは違う。

 それでも父上はどうにか人並みの武士に育てようと、耳にタコができるくらい毎日小言を言ってくれる。もし、見限っていたなら、さっさと廃嫡してより優れた者を養子に迎え、自分はどこかの寺にでも入れられていただろう。

 幸い今は草花好きのお陰で御庭廻り役という、さして重要でない、御役目に付けた。これも勘定吟味役である父上の常の働きがあったからこそ。決して自分が認められた訳ではない。

 もっと父上の期待に応えたい。

 だが、路傍に生える草花を見かけると、つい見入ってしまう今の自分は武士であることに自信がなく、時には違和感さえ覚える。

「このままでいいのだろうか……」

 落込んだ広之進の目にふと一枚の絵に留まった。それはここ最近では一番のお気に入りである見事なシャガの写し絵であった。

 アヤメ科に属するシャガは、日向から日蔭まで元気に育つ。あまりに元気に育ち過ぎて、時には乾いた固い地面を叩き割って芽を出すこともある。そんな凄まじい生命力とは裏腹にとても可憐な直径五cmほどのフリル状の白い花を咲かす。繊細な花弁に映えるパステルカラーの文様があり、見る者を魅了する。ちなみに、れっきとした雑草である。

 自分でも惚れ惚れするくらい見事な出来に、広之進は思わず頬を緩めた。

「本当に見れば見るほど美しい。それに何と言っても、湿った日蔭でも育つ力強さ」

 自分にもシャガのような逞しさが、ほんの少しでもあればと、また落込む。

 広之進が部屋いっぱいに広げた写しを眺めては目を細めたり、へこんだりしていると、にわかに玄関の方から声が聞こえてきた。

 何事かと広之進は立ち上がって廊下に面する障子に聞き耳を立てるや、いきなり春の淡い空気を切り裂く、母・由之の叫び声が聞こえた。

 部屋から飛び出した広之進は、夢中で仄暗い廊下を玄関に向かって走り抜けた。

 幼い頃から広之進がどんなに失敗(しくじ)っても動じずに、常に笑みを浮かべて温かく見守り続けてくれた気丈な母。その母がこんな夜更けに、あのような声を上げるなど、只事ではではない。廊下の薄闇に不安を掻き立てられるように、広之進は先を急いだ。

 表玄関に着くと、上り框の上に置かれた手持ち燭台の小さな灯りがぼんやりと周囲を照らしていた。

 微かな光の中に母の由之らしき姿はあるが、正座したまま今にも崩れそうな姿勢を、横に手を着いて辛うじて支えている。三和土(たたき)に膝を着いた下男の吾平老人も、由之を支えようと肩に手を置いている。

「母上、如何いたしました!」

 血相を変えて駆け寄た広之進は三和土に片膝を着けて吾平から奪うように由之を抱えて訊ねた。

「大丈夫ですか、母上。いったい何があったのです?」

「だ、旦那様が、旦那様が……」

 血の気が引いた由之の顔は死人のように青白く、赤みを失った口唇は微かに震えて上手く言葉が出てこない。

「父上がどうしたのです。父上の身に何かあったのですか?」焦れる広之進が由之の肩を強く揺さぶった。

「母上、ちゃんとお話しください!」

 視点の定まらない虚ろな目をする由之から、無理に話を聞き出そうとする広之進を見兼ねた吾平が割って入った。

「広之進様、広之進様。もう少し落ち着いてくだせえ。そんなに揺さぶったら、話したくても、話せません」

「どう落ち着けというのだ」広之進は吾平に食って掛かった。「こんな母上、今まで見たことがない。吾平、何か知ってるなら教えてくれ!」

 片手で由之を支えながら、もう片方の手で広之進は、吾平の肩を乱暴に揺さぶった。

「あわわわ、止めてくだせえ。そんなに揺すったら、あわわわーー」

 と、その時、広之進の頭上から「広之進殿」とくぐもった男の声がした。

 声のする方へ広之進が顔を向けると、いつの間にそこにいたのか、三和土に提灯を手にした壮年の武士がひとり立っている。

 気が動転して初めのうちは気が付かなかったが、提灯の薄明りにぼーっと映し出されるその顔にはどこか見覚えがある。

「坂本様……」広之進は確かめるように訊ねた。「たしか、父上と同じ勘定方に勤めてらっしゃる、坂本様ですか」

 坂本は硬い表情で頷いた。

「坂本様、父上に何があったのです」

 広之進は藁にも(すが)るような思いで訊ねたが、坂本は俯いたまま何も答えようとしない。

「教えてください、何かあったのです。父上は今、どこにいらっしゃるのです。どうして坂本様が当家に参られたのですか」

 それまで下を向いたまま貝のように押し黙っていた坂本が、ようやく顔を上げて広之進をじっと見た。

 沈鬱な表情を浮かべる坂本に、息を呑んだ広之進は心臓を鷲掴みにされるような感覚に陥った。

 やがて、坂本は広之進をじっと見たまま、重そうに口を開いた。

「広之進殿、これから拙者が申すことに、決して取り乱さぬように」

 坂本の只ならぬ気配に、ごくりと唾を飲み込んだ広之進は黙って頷いた。

「父君、中村 隆広殿が酒宴の帰り、御城下にて斬り殺され申した」

「えっ……」

 仄暗い三和土の上に幽鬼のよう浮かぶ坂本が、まるで父の死を告げに来た死神のように見えてくる。

 そんな光景が頭に過る広之進は、母を抱きかかえたまま茫然と坂本を見詰めていた。

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