十二.広之進、囮になる
あくる日の昼下がり。広之進と隆広は団蔵一家が営む店の前に立っていた。
「はぁ~っ、立派なものですね。父上、やはり悪事を働く人は稼ぐんですね」
口を半分開けた広之進はしきりに感心した。
それほど団蔵の店の構えは見事なものだった。大店の店先を思わせる広い表玄関や屋根に据えられた凝った細工の卯建に、白い土塀の向こうには幾つもの蔵が見えた。
口をあんぐり開けたまま見入る広之進に、隆広は眉根を寄せた。
「バカ野郎。いつまで見てんだ。さっさと中に入れ」
その声で我に返った広之進は隆広に不安げな顔を向けた。。
「父上、本当に伊之助さんが言ったように上手くいくのでしょうか。私には今一つ納得できないのですが」
昨夜、宿に戻っ来た伊之助から話を聞いた広之進は青ざめた。もし団蔵が藩に強請を掛けたならば、その時点で広之進の手元に赦免状がないことが明らかになる。そうなると、藩としては体面を保つため、この件を広之進と共に闇に葬るかもしれない。
そのような最悪の事態を避けるため、団蔵が強請を仕掛ける前に広之進は何としても赦免状を奪い返す必要に迫られたが、一向に手立てが思い浮かばない。
そこへ伊之助が広之進を囮に団蔵を玄関で引き付けている間に、自分が盗み出すと申し出た。もはや、伊之助に頼る他なかった広之進は止む無くこれを承知した。
そして今、仇討赦免状奪還に向けて広之進たちは動き出したのである。
隆広が呆れるように言った。
「今さら、何言ってんだ。サイコロはもう投げられてんだぜ」
「それはそうなのですが……」
「安心しな。イザってときは、俺が取り憑いてやっからよ、大船に乗ったつもりで行け」
「泥船の間違いでは」と危うく口にしそうになった広之進は慌ててそれを飲込んだ。
(伊之助さんは「盗みのイロハは夜鴉の御頭にみっちり仕込まれておりやす」と言っていたが、本当に上手くいくのだろうか。ああ、気が重い……)
まるで重い荷物を背負ったように広之進はノロノロと足を運んだ。
やがて玄関の前に着くと、広之進は最後の悪あがきを見せた。
「父上、ここは一つ、宿場役人に間に入ってもらい、話し合いで穏便に解決すべきかと」
「鼻薬を嗅がされた役人が当てになるか」
隆広に一蹴された広之進は諦めて店に足を踏み入れたが、誰もいなかった。
「あれ、誰いませんね。伊之助さんの話では、荷を扱う商いをやってるはずなんですが」
広之進は広い土間を見渡したが、荷物らしきものは見当たらず、若い衆たちの草履の他は何もなかった。
「そう言えば、表にも荷を運ぶ馬もいなければ、馬子もいませんでしたね。父上、これはどういうことなのでしょう」
「たぶん、御禁制の品をさばくときだけ開けてるんだろうよ」
やはりヤクザが真っ当な商売を営んでるはずもなく、これからそんな連中相手に一芝居打たなければならないのかと、広之進の気持ちはさらに深く沈んだ。
大きな溜息を吐いた広之進は蚊が鳴くような弱々しい声で呼び掛けた。
「あの~っ、すみませ~ん。どなたか、いらっしゃいませんか~~っ」
何度目かの呼びかけでようやく奥の方から「へ~い」と声が返ってきた。
少しして上背のある強面の若い衆が出てくると、一段高い上り框の上から土間に佇む小柄な広之進を見下ろした。
「お侍さん、何か用ですかい」
頭の真上から響く野太い声にビビる広之進は声も出ない。
黙ったまま立ち尽す広之進に、しびれを切らせた若い衆は苛立たしげに舌打ちした。
「ちっ。冷やかしなら、とっとと帰ってくんな」
吐き捨てて踵を返す若い衆を、思わず広之進は呼び止めた。
「ま、待ってください」
「なんでえ。口が利けんなら、さっさっと言いな」
「だ、団蔵さんはいらっしゃいますか」
「親分に何の用だ」
ゴクリと喉を鳴らした広之進は、清水の舞台から飛び降りるつもりで言った。
「あ、仇討赦免状のことでお話があると、伝えてもららえれば分かると思います」
「仇討赦免状だあ~っ」
眉根を寄せた若い衆は、広之進を値踏みするような目で見た。
「分かった。親分に取り次いでやるよ。でっ、おめえさんの名は」
「ああ、私は元葛西藩・御庭廻り役の中村 広之進と申します」
「そこで待ってな」
そう言い残して若い衆が奥に消えると、極度の緊張から解放された広之進は肩を落として大きく息を吐いた。
それを隣で隆広は呆れるように見ていた。
「やれやれ、まだ始まったばかりだぜ。今からそんな硬くなってどうすんだい。これから親玉に会うってのによ。少しは肩の力抜けよ」
「父上は幽霊だから、そのようなことが言えるのです。私は生身の人なのですよ。もし相手を怒らせて、何かあったらどうするのです。痛い思いをするのは、この私なんですよ」
「けっ。そんなもん起こってから考えりゃいいんだ」
「父上~~っ」
この期に及んで広之進がまだ弱音を吐き続けている頃、団蔵は自分の部屋でお銀と談笑していた。そこへ先程の若い衆がやって来ると、団蔵に耳打ちした。
口元を緩めた団蔵がお銀に目をやった。
「姐さん。どうやらカモがネギ背負って向こうから来たみたいだぜ」
「えっ、本当ですか」とお銀は目を丸くしたが、すぐに顔を曇らせた。
「親分さん。少し用心なすった方いいんじゃありません」
「なんでぇ、姐さんらしくねえな」
「いえね、妙だと思いませんか。どうしてそのお侍がここに赦免状があることを知ったんですか」
団蔵が傍らにいた若い衆に訪ねた。
「その侍って、いったい、どんな奴だ」
「へいっ。ガキみてえな小っちゃい奴で、初めは碌に口も利けねえくれえビビっておりやした」
「ふ~ん、そうかい」と団蔵がお銀に顔を戻した。
「心配いらねえ。そんな肝の小せえ奴に何ができんだ」
「まあ、親分さんがそうおっしゃるんなら、別に構わないんですけどね」
「そう言うこった。ちょくらどんな奴か面拝んでくるからよ、面が割れてるる姐さんは別の部屋で一杯引っ掛けて待っててくれ」
頷いたお銀が部屋から出て行くと、腰を上げた団蔵は「どれくれえ絞り取ってやるかな」とほくそ笑んだ。
すでに屋敷に忍び込んでいた伊之助が庭の物陰から部屋の様子を窺っていると、お銀に続いて若い衆を引き連れた団蔵も出てきた。
それを見届けた伊之助は祈るように独り言ちた。
「旦那。なるだけ、そいつを引き付けておいてくださいよ」