七.広之進、仕方なく巻き込まれる
ようやく右手のしびれが治まった仁平が言った。
「すまねえな、吉松。まさかこんな青二才に合口飛ばされるとは、俺も焼きが回っちまったようだ。悪いが、手貸してくれ」
「へい、任せておくんなさい」吉松が自信有り気に続けた。「こんなガキみてえなちっこい奴、あっし一人で十分でさあ。兄貴は少し休んでてください」
「ああ、頼んだぜ」と吉松の背中に隠れるように下がった仁平は後ろの方にチラッと目をやった。
「留。おめえはそいつから目ぇ離すんじゃねえぞ」
「分かってますよ。少しでも妙な真似をしたら、こいつでブスッと殺りますよ」
伊之助に合口を向けた留は薄ら笑いを浮かべた。
一歩前に出た吉松に対して、広之進は微動だにせず静かに正眼の構えを貫いたが、本音はすぐにでもこの場から逃げ出したかった。
《ほ、本気でこんなに大きくて強そうな者を相手にするのですか》
《ビビんな。いいか、おめえは何もするな。黙って俺に体預けときゃいいんだ》
顔を引きつらせて広之進はグッとアゴを引いた。
前に出た吉松は間合い十分と見るや、弾かれたように広之進に合口を突き出した。
「死ねやーーっ!」
突き出した合口と共に吉松が突進する。広之進は瞬時に刀を峰に返して横に払うと、二人は体を入れ替えて再び対峙した。
《ち、父上。手がしびれます》
《うるせぇ。これが片付くまで我慢しろ》
《はい……》
いくら小野派一刀流のそこそこの使い手であるユーレイが取り憑いているとはいえ、体は広之進のままである。刃物同士がぶつかり合う衝撃に、広之進の手が悲鳴を上げるのも無理はない。
シュンとする広之進の背中の方から声がした。
「おい、三一。これでてめえも終わりだ」
広之進が肩越しに目をやると、先ほど弾き飛ばした合口を手にした仁平が立っていた。前に吉松、後ろに仁平と、広之進は二人に挟まれる形になってしまた。
《は、挟まれてしまいました。どどどど、どうしましょう》
前後を交互に見ながら、広之進は声を上ずらせた。
《落ち着け。まだ、殺やられると決まった訳じゃねえ》
《しかし、この場をどう切り抜けるのですか。どう見ても、二人とも人のひとりや二人は殺ってますよ》
《しかしも、かかしもあるか。これをどうにか切り抜けるってえのが、侍ってもんよ》
《ひょっとして運任せということですか》
《当ったり前だろう。出たとこ勝負のコンコンチキたあ、このこった!》
《…………》
《だからよ、悪いようにはしねえから、しばらくおめえの体を俺に貸せ》
もはや、選択の余地のない広之進は黙って隆広に従うより他になかった。
父子が不毛な議論をしている間に、ジワリと間合いを詰めていた仁平と吉松は、互いに目配せしながら殺る機会を窺った。やがて、息を合わせたように二人の足が止まり、互いに頷くと同時に前後から襲い掛かった。
広之進に取り憑いた隆広は迷わず前に出ると、目の前に迫る合口を僅かに体を左に開いて滑るように躱し、すれ違いざまに刀の峰で吉松の首筋を強かに打ちのめした。
「ぐぇ……」と奇妙な呻き声と共に吉松の巨体はビザから崩れ落ちた。
床の埃を舞い上げながら前に倒れ込む吉松の背後から、正眼に構える広之進の姿が現れた。
「えっ」と思わず声を漏らした仁平は一歩引いた。
(この野郎、ただの三一と思ってたが、たった一太刀で吉松を殺っめえやがった。その上、息一つ乱れちゃいねえ。ちっ、俺としたことが厄介な奴に手出しちまったぜ)
動揺を隠せない仁平に、広之進は間の抜けなこと言った。
「あの、安心してください。斬っていません。刀の峰で打ちましたから、二、三日は腫れ上がってひどく痛むと思いますが、命に関わるようなことはないと思います。ですから、もうこんなこと止めませんか」
一分の隙もない構えで妙なこと口にする広之進を、仁平は不可解な目で見た。
しかし、広之進の言葉とは裏腹に、体は構えを崩さずにすり足でずぃと前に出た。
《父上、なぜ前にでるのです。相手は、もう争う気はないのですよ。これ以上、事を荒立てなくてもよいではありませんか》
《バカ野郎。勝負は下駄を履くまで分かんねえんだ。合口持った奴がまだ二人もいんだぞ。気抜くんじゃねえ》
すっすっと前に足を運ぶ広之進に合わせて仁平も後ろに下がったが、すぐに背中が須弥壇の端に当たった。背中の須弥壇を恨めしげに見た仁平が顔を戻すと、すぐ目の前に広之進の刀の先があった。目を大きく見開いたまま声も出ない仁平に、先程までの余裕は微塵も残っていない。
仁平の横では、同じように留に合口を突き付けられた伊之助が須弥壇を背に立っていた。
額に汗を浮かべた留が横目でチラッと広之進を見た。
「兄貴、どうしやす。これくれえの間合いならーー」
留が口を滑らせた途端、刀の先がすっと仁平の鼻先に近付いた。
「バカ野郎! 余計なこと口にすんじゃねえ!」
怯える仁平を前に、広之進は何度も頭を下げて謝った。
「すいません。すいません。本当にすいません。体が勝手に動くんで、どうしようもないんです。ですから、その人を放して、今夜のところはお引取り願えませんか、ね」
広之進は血を流さずにどうにかこの場を治めようとしたが、隆広は違っていた。
《おい、広之進。面倒だからよ、後腐れなくここでまとめて斬ちまうぞ》
《父上、いくら何でもそれは非道過ぎます》
《なあ~に、安心しろい。こんな夜更けの山ん中だ。誰も見ちゃいねし、骸は穴でも掘って埋めちまえばいい》
《やめてください! そんなに簡単に殺めるものではありません》
広之進は必死に止めようとしたが、峰にしていた刀が再び返ると、広之進は握っていた刀の柄にぐっと力が入るのを感じた。
もうこれ以上、何を言っても無駄だと思った広之進は、今度は目の前の仁平に訴えた。
「お願いです。その人は放して、早くここから立ち去ってください。私の中にいる危ない人が、あなたたちを斬りたくてウズウズしているのです。本当なんです。信じてください」
鼻先に突き付けられた刀を見ながら仁平は首を捻った。
(こいつ、なに言ってやがんだ。けどよ、刀が微妙に前後に揺れてやがる。前に出ねえように抑えてんのか。訳が分かんねえ)
鼻先に向けられた刀を見詰めながら仁平は言った。
「留、そいつを放してやれ」
舌打ちした留は渋々伊之助から離れた。
「おめえの言う通り伊之助は放したぜ。俺たちもここから出て行くからよ、手出すなよ」
そう言うと仁平は体を慎重に横にずらして須弥壇から離れ、留と共に静かに後ろに下がった。広之進は正眼の構えのまま、その動きに合わせた。
仁平と留は広之進の刀から目を離さずに少しずつ後退り、床に倒れていた吉松の両肩を抱えて立ち上った。
留が声に悔しさを滲ませて言った。
「兄貴、このままでいいですかい」
「いいも、くそもあるか。吉松もこのざまだ。ここは一旦、引くしかねえだろう」
二人は吉松を抱えたまま身を翻して外に出ようとしたが、戸口の前でいきなり足を止めた仁平が吉松の肩越しに怒りに歪んだ顔を向けた。
「その面、ぜってえ忘れねえ。この借りは必ず返すからな。覚えてやがれ!」
お約束の捨て台詞を残して三人は夜の闇に消えた。
《行ったみてえだな。それじゃあ、俺も元に戻るとするか。よっこらしょと》
隆広がそう言って離れると、広之進の手から刀が零れ落ち全身から力が抜けたようにヘナヘナとその場にへたり込んだ。
広之進は落とした刀に目もくれず、ジッと両手のひらを見た。
(よかった。とにかく血を流すことだけは避けることができた。しかし、何だろう。この胸の奥からじわじわせり上がってくる、何とも言えない嫌な感じは。これが父上がおっしゃっていた命のやり取りというものなのか……)
斬らなかったとはいえ、広之進の手には吉松の首筋を打ったときの感覚が生々しく残っていた。
手のひらに目を落としたまま動かない広之進の横に立っていた隆広が声を掛けた。
「おい、どうすんだ。あいつ」
顔を上げた広之進が横に目をやると、隆広がアゴで後ろの方を指した。
そこには須弥壇の前で血が流れる腕に手を当てて座込む伊之助の姿があった。




