六.祝、初憑依
背後から突然、声を上げたっきり正座のまま小さく震える広之進を仁平は肩越しに窺うように言った。
「お侍さん、いま何か言いやしたか」
「あの、その。あの、その」
極度の緊張のため上手く言葉が出てこない広之進は、同じ言葉を繰返すだけだった。
舌打ちした仁平は顔を戻して「殺れ」と言った。頷いた留と吉松が改めて合口を腰に当てて低く身構えると、背後からまたしても広之進が声を上げた。
「ま、待ってください!」
度重なる邪魔立てに不快感を露にした仁平は、振り向いて広之進を見据えた。
「お侍さん、こいつは身内の揉め事でしてね。余計な口を挟まないでおくんなさい」
「で、でも殺すんでしょう」やっと言葉が出てきた広之進は続けた。「ど、どんな事情か知りませんが、ここは一つ穏便に治めることはできませんか」
「やかましい! 何にも知らねえんなら、そこで大人しくしてな」
仁平は大股で近付くと、上から威嚇するように広之進を覗き込んだ。
「今度邪魔しやがったら、お侍でもただじゃおかねえ。分かったか」
そう言い浴びせると、仁平は背中を向けて歩き出した。
「し、しかし、やはり人を殺めるのは良くありません。話し合いで何とかなりませんか」
仁平の背中に向かって広之進が声を振絞って言うと、足を止めた仁平は右手をスッと懐に入れた。
その仕草を広之進の隣で見ていた隆広は眉をひそめた。
「おい。来るぞ」
「えっ、何が来るのです」
広之進が隆広に顔を向けた途端、振向いた仁平の懐から合口が飛び出した。
「さっきから、ガタガタ言いやがって。そんなに文句があんなら、てめえから片付けてやらあ!」
合口を手にした仁平が広之進に迫た。
「やべぇ。逃げろ!」
隆広の鋭い声が飛んだが、怒りで歪んだ仁平の顔に気圧された広之進は声も出せずに動けなかった。
広之進の前に足を広げてどっしり立った仁平は、手にした合口を突き出した。
迫り来る切先に手も足も出せずにただ怯える広之進に、隆広は「ちっ」と舌打ちした。
(ああ、こんなことになるなら、余計な口を挟まなければよかった。あの世で父上にどんな顔で会えばよいのやら……。あっ、もう会ってるか)
死を覚悟した次の瞬間、広之進は別人のように横に置いた大刀をサッと掴んで左に転がり紙一重で切先を躱すと、素早く体を起こして仁平から間合いを取った。
広之進はキツネに抓まれたように自分の動きに驚いていた。
(えっ、えっ、えっ。いま私は何をどうしたんだ。えーっと、確かあの人を怒らせてしまって、合口で刺された……、はず)
疑問符で覆い尽された広之進の頭の奥から聞き覚えのある声がした。
《おい、広之進。分かるか、俺だ》
《ち、父上。どこにいらしゃるのですか》
広之進はさっと辺りに目を配ったが、隆広の姿はどこにもなかった。
《いったい、どこから話し掛けていらしゃるのですか》
《いいか、落ち着いて聞けよ。どういうことか分かんねえが、おめえと一緒になっちまったみてえだ》
《はあ? おっしゃる意味が分かりません》
《だろうな。さずがの俺も面食らってる。だけどよ、目の前にいる物凄い目付きでこっち睨んでる奴を、どうやらおめえの目を通して見てるようだ》
隆広の言葉で広之進の注意が前に向くと、眉間に深いシワを刻んだ仁平が立っていた。
「この三一が、上手く避けやがって。今度は外さねえ。覚悟しな」
凄んだ仁平が猛然と合口を広之進に突き出すと、同時に左手に握った大刀の鯉口を切った広之進は真一文字に横に払った。
一瞬、火花を散らせて仁平の手から弾き飛ばされた合口は、くるくる宙を回ってストンと床に突き刺さった。
「うっ」呻き声を上げた仁平は、弾かれた右手を抱えて二、三歩下がった。
「仁平兄ぃ!」と、背後から吉松が叫べば「大丈夫ですかい」と、留は窺うように言った。
「ああ、大丈夫だ。ちょっと油断しただけだ。それよりおめぇら、伊之助から目を離すんじゃねえぞ」
背中越しに強がって見せたものの、仁平の目には困惑の色が滲んでいた。
(こいつ、さっきまでまともに口が利けねえぐれえ震え上ってたのによ。だのに、なんだ今の刀さばきは。あんまり速くてよく見えなかったぜ……)
戸惑う仁平をよそに、立ち上った広之進はすっと見事な正眼の構えを取って見せた。
《父上、いま何をなさったのですか。私の体が勝手に剣を抜いて構えているのですが》
広之進は今更ながらに、驚きを隠せなかった。なにせ、生まれてこの方まともに刀を抜いたこともなければ、人を斬るどころか、大根一本すら斬ったこともない。
そんなへっぽこ侍・広之進に、隆広はあっけらかんと言った。
《ちょいと、おめえの体を使わせてもらうぜ。まっ、こいつが世間でいう(取り憑き)ってやつじゃねえか。別に血を分けた親子だからいいじゃねえか。気にするな》
《き、気にするなって。父上、勝手に私のーー》
広之進が文句を言う前に隆広が遮った。
《話はあとだ。前見ろ。まだ、終わちゃねえぜ》
促されて広之進が前に注意を向けると、仁平の傍らに吉松と呼ばれる屈強な大男が今にも襲い掛かってきそうな勢いで睨み付けていた。
 




