四.父、還る
二本の燭台の灯に照らされた堂内で埃を被た床に正座した広之進は、今目の前で起こっていることがとても現実のものとは思えなかった。
つい先程のことである。亡き父・隆広との思わぬ再会に肝を潰して気を失った広之進だったが、やがて目を覚ますと慌てて燭台に灯を点してほっと息を吐いた。
「あーっ、驚いた。目を開けたら、いきなり父上の顔があるんだから。やはり仇討赦免状を盗んだ女を追って方々捜し回ったせいで疲れたんだな。だからあのような幻を見たんだろう」
燭台の間であぐらを掻いて広之進がひとり合点していると、不意に背中の方から声がした。
「広之進」
「はい」と反射的に振り返った広之進の目に、あの半端ない隆広の顔が再び飛込んできた。
「ひぇぇぇぇーーっ!」
悲鳴を上げた広之進は尻を着いたまま後退った。
しゃがみ込んでいた隆広は立ち上ると、芋虫のようにもぞもぞ引き下がる広之進を怒鳴り付けた。
「いい加減にしろ! ここに座って、俺の話を聞け!」
懐かしい声が狭い堂内に響いた。
(た、確かに父上の声だ。聞きたくても聞けなかった父上の声だ。し、しかし……)
狼狽しながらも、今すぐにでもきちんと父の話を聞きたいと思ったが、散切り頭に残る惨い刀傷や額に付けた白い三角の布切れ、とても生きてるようには見えない青白い顔といった葬儀の際にも目にした衝撃的過ぎる姿で話し掛ける父に、広之進は口を金魚のようにパクパクさせるのがやっとだった。
「ちっ。この野郎、この期に及んで、まだそんな態度とんのかよ」
業を煮やした隆広は今にも掴み掛らんとする勢いで大きく足を踏み込んだ。
「わーーーーっ! す、すぐにそちらに参ります!」
腰を抜かして足腰が立たない広之進は這いつくばって、隆広の足元に急いで向かった。
そして今、刀を始めとする荷物を横に置いて正座する広之進は亡くなったはずの隆広と、二本の燭台に挟まれる形で対面する羽目になったという訳である。
腕を組んで堂々とあぐらを掻く隆広を前に、身を縮めた広之進が窺うように訊ねた。
「あの~っ、父上。一つよろしいでしょうか」
「なんだ」
「確か、父上は村木さんに斬られて死んだんですよね。頭をザックリやられて」
「ああ、そうだ」
「ということは死んだってことですよね」
「そうだ、死んだ。間違いなく死んだ」
ゴクリと喉を鳴らした広之進はよいよ核心に迫った。
「それでは今、私の目の前にいらっしゃる父上は……」
言葉にするのが恐ろしくなった広之進が声を詰まらせていると、隆広は事も無げに言った。
「ユーレイに決まってんだろ」
(ああ、その言葉を父上自らおっしゃるとは。やはり、父上がこうして成仏できずに迷うて私の前に現れたのは、草花にかまけて仇討を疎かにしていたからだ……)
膝に置いた手に目を落とした広之進は自分の不甲斐無さを責めた。
下を向いていた広之進がふと上目遣いに隆広の方を見ると、立派な二本の足でしっかりあぐらを掻いていた。
(あれっ、足がある。そういえば、先程も床を踏み抜きそうな勢いで足を出されていたな)
首を捻った広之進は顔を上げて訊ねた。
「父上、足がありますね」
「そんなもん、見りゃ分かるだろう」
「では、ユーレイになられた父上に、なぜ足があるのです。そもそもユーレイに足がないことは万人の知るところの世の定。にも拘らず、ユーレイを名乗る父上には足がある。これはいったい、どういうことなのですか」
一旦、言葉を切った広之進は、さらに責めるように続けた。
「生きていらした頃は、よく私にやれ武家の嗜みだ自覚だと、散々口を酸っぱくして言っておられたのに、今の父上はときたら、ユーレイなのに足があるではありませんか。これでは説得力がありません。まず父上がユーレイとしての嗜みと自覚を持つべきかと存じます」
ここまで広之進の能書きを黙って聞いていた隆広が「ちっ」と舌打ちしたかと思うと、押し殺した声で言った。
「誰が決めた」
「はあ。今何とおっしゃいましたか」
片方の耳に手を当てて聞き返す広之進のその耳に、隆広の怒声が飛んだ。
「ユーレイに足がないと、誰が決めた! 答えやがれ!」
「いや、あの、その、昔から皆そのように申すものなので、つい」
「やかましい! どこのどいつが、そんなこと言ってんだ!」
いきなり腰を上げて立てた片ビザに肘を置いて身を乗り出した隆広は、顔を前に突き出して広之進に迫った。目を剥いて髪を振り乱し、頭に生々しい刀傷がくっきり浮かぶ青白い顔で迫る隆広は生きていた時より、そのは迫力は桁違いに増していた。
「あわわわっ、いやーー、そのーー」
「はっきりしろい!」
「申し訳ございません! 私が間違っておりました!」
獅子を前にした仔犬のように怯え切った広之進はあっさり平伏した。
「ふんっ、分かりゃいいだ。分かりゃ」と鼻を鳴らした隆広は体を元に戻して、またあぐらを掻いた。
床に着いた頭をそーっと上げた広之進は、触らぬ神に祟りなしとばかりに堅く口を閉じて下を向いた。
しばし父と子の間に沈黙と共に妙な静けさが流れた。
やがてその静けさを打ち破るように、突如、隆広が口を開いた。
「でっ、どうすんだ」
「えっ」と顔を上げた広之進はきょとんとした。
「えっ、じゃねえ。だから、どうすんだって聞いてんだ」
「はあ? どうするとは、いったい、どういったことでしょうか」
要領を得ない広之進の返答に「ちっ」とまた小さく舌打ちした隆広が声を張上げた。
「だから仇討赦免状どうすんだって、聞いてんだよ!」
「どどどど、どうしてそのことを御存じなのですか!」
最も知られたくない事実を、最も知られてはいけないユーレイの口から出てきたことに、広之進は天地が引っ繰り返るくらい慌てふためいた。
目を見開いて動揺しまくる広之進に、隆広はシレッと言って退けた。
「そんなもん、見てたからだ」
「えっ、見ていらしたとは、どの辺りから見ていらしたのですか」
「最初からだよ」
「ということは、私があの女子に声を掛けた辺りからですか」
「いや、もっと前だ」
「もっと前というと、この街道筋に入った頃からですか」
「いやいや、もっともっと、ずーっと前だ」
「もっともっと、ずーっと前とは。はて?」
アゴに手を当てた広之進は、思い当たる節を頭に浮かべてみた。
(う~ん、父上はいったい、いつから見ていらしていたのだろう。まさか旅の初めからか。いかん、まずい。国元にいた頃と変わらず、草花に現を抜かす姿を見られてしまったことになる……)
アゴから手を離した広之進は、腫れ物に触るように訊ねた。
「あの~っ、父上。ひょっとして私が仇討の旅に出たときから見ていらした、とか」
「違う。まだ、分かんねえのかよ」
さらに首を捻る広之進に、焦れた隆広は言い放った。
「四十九日の法要からだ!」
「えっ、そんな前からずーっと見ていらしたんですか」
「ああ、見てた」頷いた隆広は呆れ顔で続けた。「一門にいいように言い包められやがって。仇討の旅に出たはいいが、妙な話に振回されて肝心の仇に掠りもしねえ。結構へこんでだろうなって心配して見てたら、ちゃっかり諸国の草花に熱上げやがって。てめえ、仇討なめてんだろう。だいたいーー」
(ああ、ユーレイになられても、父上の小言は健在だ……)
生前と変わらない隆広の小言に下を向いてうんざりしながらも、広之進は心のどこかで懐かしさと共に嬉しさを感じていた。
「おい、聞いてんのか」
不意に隆広に問われて、広之進は顔を上げた。
「はい、聞いております。一言一句、この胸に刻んでおります」
「本当か」
「はい、これからは心を入れ替え仇討に専念して参ります。私も武士の端くれ。何としても仇を捜し出し、討ち果す所存にございます。本当です。信じてください」
広之進は拳を固めて熱弁を振るったが、「土手に咲く雑草に見惚れて、刀を道端に放り出したまんま忘れる奴がか」と、隆広は切って捨てた。
ふんっと鼻を鳴らして隆広は言った。
「まあ、これまでのことはいいとしてよ」
「えっ、よろしいのですか」
「話は最後まで聞け!」
「ひっ」と小さな悲鳴を上げて広之進は首を竦めた。
隆広は改めて言った。
「でっ、仇討赦免状をどうするかだが」腕を組んだ隆広は思案するように続けた。「あれがなけりゃ、他国への出入りとか、てめえの身分の証とか、あと仇と立合うときとか、色々と面倒なことになっちまう」
首を竦めたまま広之進はすがる思いで訊ねた。
「国元の伯父上に事情を説明して、もう一度殿から賜わることはできないのでしょうか」
「何って説明すんだ。女に鼻の下を長くしてる間に盗まれました、とでも言うつもりか。一度賜ったら、それっきりってえのが赦免状だ。そんなこと、おめえでも知ってるだろう。仮にこのことが国元の一門に知れたら、おめえ殺されるぞ」
ちーんっと、広之進の頭の中で鈴の音が鳴響いた。
元より面子と習を重んじる武家社会で、主君からの賜り物は己の身命より勝る。それを失うことは、主君を蔑ろにしたのも同然。万死に値する。
「わ、私はどうしたらいいのでしょう」
「どうもこうも、あの女から取り返すしかねえだろう」
「…………」
しばらく父子がまんじりともせずに夜を明かしていると、誰かがこちらに向かって走って来る音がした。
父子が「んっ」と音の方へ顔を向けた途端、傾いた片方の観音開きの扉が派手な音を立ててけ破られた。呆気に取られて見てみると、そこには菅笠被った町人風の旅姿の男が立っていた。肩で大きく息をするその男の腕に当てた手から血が滴っている。
目を丸くする広之進と隆広に、男は額に汗を滲ませて言った。
「お侍様。申し訳ござんせんが、しばらく匿っておくんなさい」
そう言うや、男は返事も待たずに、須弥壇の裏へ身を滑り込ませた。
女に赦免状と金を盗まれるわ、亡き父がユーレイとなって現れるわ、腕から血を流した見知らぬ男にいきなり踏込まれるわと、広之進は今日一日だけで一生分の不幸を味わった気がした。