一.へっぽこ侍
これは徳川将軍が天下を統一して、およそ一七〇年ほど経ち、戦国時代の血生臭く荒々しい気風もかなり薄れた江戸時代中頃の話である。
まだ肌寒さ残る早春の朝、北陸の小藩、葛西三万石で勘定吟味役を務める中村家当主・中村 隆広は台所の隣室で朝餉の膳に着いた。
自分と妻・由之、二人分の膳しか用意されていないことに気付いた隆広は、僅かに眉根を寄せて言った。
「おい、広之進はまた行っておるのか?」
「はい、今朝早くに握り飯を持って、いそいそと出かけて行きましたよ」傍らにいた由之は、ご飯を装いながら涼しい顔で言う。「何でもこの時期にはオオイヌノフグリが見れるやもしれぬとかで」
由之から茶碗を受け取った隆広は、小さく吐息を漏らして吐き捨てた。
「ふっ、相も変わらず草花に現を抜かすとは情けない。武家の嗜みである剣術はじめ、学問、そろばんも人並みにできんくせに、いやはや武士としての自覚がなさ過ぎる」
八つ当たりのように搔き込んだ飯をみそ汁で流し込んだ隆広は、汁椀を乱暴に膳に戻して責めるように言い募った。
「あやつがこうなったのも、お前が甘やかして好き勝手させるからだ」
度々繰り返される夫との不毛な議論にも慣れっこの妻がさらりと返す。
「でも、その草花のお陰で、広之進もようやく御役に付くことができましたよ」
お前、その御役目がどんなものか知ってるのかと、言わんばかりに隆広は由之に目を剥いて言った。
「御庭廻り役という城内の草をむしり取ったり、要らぬ枝葉を切ったりと、これでは植木職人と同じではないか!」
唾と一緒に飛んでくる飯粒を、着物の袂で遮りながら由之は平然と言い返す。
「ええ、でも『城の庭は広之進に任せておけば、安心じゃ』と、今は江戸表にいらっしゃるお殿様の覚えもめでたいかと」
妻の言葉などまったく耳を貸さない隆広は、膳に置かれた小魚の干物に箸を突き立てて頭からムシャムシャ食い尽くすや、小皿に盛られた沢庵を一切れ口に放り込む。バリバリと派手な音を立てながら、また乱暴に飯を搔き込んだ。
そして、おもむろに茶を一つ口に含んでゴクリと一気に飲み下すと、由之を見据えて苦々しく言った。
「あやつが城の内外で何と言われているのか、知っておるのか」
「さあ?」と、小首を傾げる由之に、隆広は目に悔しさを滲ませて言う。
「へっぽこじゃ、へっぽこ。へっぽこ侍じゃ」
今ではあまり聞き慣れない言葉だが、「へっぽこ」とは技量の劣る者や役に立たない者のことを指す、あまり良い意味では使われない俗語である。
まさか我が子にそんな不名誉なあだ名が付いていようとはと、母親らしく由之も眉根を寄せた。
「あの子が何をしたというんです。ただ毎日、お城の庭の手入れをしているだけじゃありませんか」
「その手入れをしておるときに蛇に出くわし、こともあろうに、腰を抜かして這う這うの体で庭中を逃げ回ったそうじゃ」
まったく情けないと、また吐き捨てた隆広は僅かに残った茶碗の飯をみそ汁の中に放り込むと、箸で掻き回しながら押し殺した低い声で言った。
「よいか由之。広之進が御役目を終えて家に帰り次第、わしの部屋で待つよう申し付けておけ」
「またですか?」
呆れるように声を上げる由之に構わず、隆広は一粒残らず豪快にみそ汁飯を搔き込んだ。
空になった汁椀を膳に戻し、手にした茶を一気に飲み干した隆広が捲し立てる。
「またも、くそもあるか。このままではとても中村の家を継がせる訳にはいかん。あやつが性根を入れ替え、人並みに武士としての自覚を持つまでは、何度でも毎日でも、言ってやるわ!」
そう言い放った隆広は、すくっと立ち上がると大股で部屋を後にした。
一人残った由之は自分の前にある膳に置かれたみそ汁に目を落とした。その中には蕨やムキタケに蓬といた春の山菜たちが気持ちよさげに浮かんでいる。
汁椀を手に取った由之は、中の具材を愛おしむように見詰めた。
この山の幸も広之進が家族のためにと、朝早くに山に分け入って採ってきたもの。
そんなことも気付かないのかと、由之は部屋中に響き渡るような深い溜息を吐いた。
その頃、話題の主である広之進は、子供の頃から通い慣れた城の裏手にある小高い丘の上で、オオイヌノフグリの写しに余念がなかった。
この一風変わった名の付いた雑草、早春にいち早く愛らしい小さな青い花咲かせて春の訪れを告げる。では、なぜこんな変わった名が付けられたかというと、それはこの花の実が後ろから見た犬のふぐり、つまり陰嚢に非常に似ているからである。一度実物を見れば、誰でも「なるほど」と頷いてしまうくらい似ている。
「やはり春はもうそこまで来ているようだな。こうなるとムラサキハナナやシュンランなんかも、花を咲かせるに違いない」
たとえ雑草であっても、これから出会う草花に心躍らせる広之進は今年で十八になる若き武士であるが、四尺に満たない背丈に、体付きといえばお世辞にも丈夫とは言えず、顔の作りは少年の面影が濃く残る童顔で、並の上といったところか。
そんな広之進は生まれつき体が弱く、季節の変わり目など些細なことで体調を崩しては、すぐに寝込んでしまった。そのため子供の頃は、部屋から覗く庭先の草花を眺めて過ごすことが多くなり、自然と興味を覚えるようになった。
広之進の体調が戻ったある日、小野派一刀流のそこそこの遣い手であった父・隆広は、幼い我が子の心身を少しでも鍛えようと、城下の剣術道場に通わせた。
しかしその初日、稽古前の素振りで広之進は高熱を発し、その場でぶっ倒れてしまう。
道場主から、もう少し体に力を付けてから来るように言われた隆広は、広之進のためならと非番の日に近郊の野山に連れて行くようになった。
そこで生まれて初めて外の世界に触れた広之進は、驚きと感動に小さな胸を震わせた。
初夏に入ったばかりの野山は、万華鏡のように彩り豊かな草花が目まぐるしくその姿形を変えて広之進の目を楽しませ、不意に訪れる涼やかな山の風は優しく頬を撫でた。耳を澄ませば、遠くで聞こえる野鳥の声が心地よく響き、青々とした緑の木々から溢れ出す清浄な香りが胸いっぱいに広がる。
身近な自然に触れてからといもの、広之進は庭の植木に野山の草花、ついには道端にひっそりと咲く名もなき雑草の花にまで目を向けるようになってしまった。
しばらく広之進の好きにさせていた隆広は、好きな草花を見るためにそこら中、駆け回る元気な我が子の姿を見て、再び剣術道場に通わせることにした。
だが「親の心、子知らず」とはこのことで、広之進は道場に通う途中、空き地に生える目新しい雑草を見つけては熱心に見入り、その度に稽古に遅れ、時にはさぼることもあった。
当然、剣術には身が入らず腕も上がらない。同い年の門弟たちからはバカにされ、広之進を相手に稽古しようとする者は誰ひとりいなかった。
これに心を痛めた道場主は、あれこれと手を尽くしてみたものの、まったく効果が見られない。また、広之進の行いも一向に改まらなかった。ついには道場主も匙を投げ、広之進は見放された。
それならばと、隆広は学問の道で活路を見出そうと私塾に通わせてみたものの、ここでも広之進は見事に父の期待を裏切った。
これは何か一つでも疑問にぶつかると、己が納得するまで次に一歩も進めないという、広之進が草花の観察で培った探求心が災いしたためであった。
剣術、学問と、ことごとくその道から逸れてしまった広之進を、隆広は日本海溝よりも深い嘆息と共に、その将来を大いに憂いた。
そんな父・隆広と対照的であったのが母の由之だった。
どこまでも武士の嗜みにこだわる隆広との間を執り成しつつ、常に広之進を信じ、他人様に迷惑さえかけなければ何があっても温かく見守る、ある意味、広之進の性格を見抜いた放任主義を貫いた。
だが、当の本人はそんな両親の想いなど気付くこともなく、あまつさえ、これで好きな草花に思う存分没頭できると、以前にも増してのめり込んだ。そのせいか、足腰だけは鍛えられ、逃げ足だけは速くなった。
武士としての嗜みも自覚もないまま、嬉々として己の世界に埋没する嫡男・広之進の姿に、隆広もついに匙を投げてしまい、こうして「へっぽこ侍・中村 広之進」は生まれた。
オオイヌノフグリを熱心に描き写していた広之進の耳に、登城の刻限を告げる大太鼓の音が鳴り響いた。
「おっ、もうそんな刻限か。遅れたら、また父上の小言が飛んでくる」
ちなみに、御庭廻り役に上役はいない。広之進ひとりなので、遅れようが休もうが、叱責されることはない。要は城内の庭の手入れさえきちんとやっていれば良しする、至ってお気楽な御役目なのである。
描き写した絵筆を急いで風呂敷に包むと、広之進は脱兎のごとく丘を駆け下りた。