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日々奇蹟

作者: ねぃむろす


《日常は、脆い奇蹟のもとに立っている》


 僕が母親と妹と血が繋がっていないと知ったのは、大人になった頃というわけではなく子供の頃の父親との雑談でだった。衝撃だったとかショックだったとかそんな哀しみの感情はなくそうなんだろうなという納得があったのを覚えている。性格と見た目に上品さを持った女性等に対して男性等に品性は皆無だったし、父親と母親が似ていないのは理解できるとして僕に品性が継承されない理由が解ったのが非常に残念だったけど、あったところでとりわけ大きなインドア好きな性格の自分がアウトドア好きになるような、劇的な変化はみられなかっただろう。

 父親の話の端々で真実を知った僕の経験から解るように、ざっくばらんな性格の父親。それに対して真反対の母親は僕に正式に伝えようと考えていたのだろう。普段感情を多く見せない母親が怒りを僕に見せたのは最初で最後だった。父親を散々叱り僕に向き直って伝えた言葉は『いままで嘘を吐いていて、ごめんなさい』だった。対して僕は『部屋を掃除したと嘘を吐いてて、ごめんなさい』と言ったのに両親が大笑いしていたのが印象的だったし、一緒にいた妹が何も云わなかったのを見ると、知っていたのだろう。母親に似て大人びていて賢しい妹だったから当然なのかもしれない。

 父親に懐いている妹だったけど、僕には懐かない妹だった。懐かないのは妹が一貫性の学校へ入学していて寮生活なので接触する機会が少なくなっていたから、と精神に負担のない理由は表向きであって、同世代の異性の他人と一つ屋根の下でいるのが耐えられなかったのが本音だろう。打開策として妹は寮生活という手段を取ったに違いない。じゃなかったら、長期の休みにいつの間にか自宅に帰ってきていて僕が気づいたら帰っていたなんて普通ないだろう? あからさまに僕と接触したくないと拒絶を表しているのは明らかだ。

 一つ違いの妹、楓花は母親にどんどん似ていって姉妹と間違えられるほど凛々しい女性となってしまっている。僕の妹だとするとすこぶる残念だけど、血が繋がっていないとなるとチャンスがあるのではと不純な考えが巡ってしまう。あまりにも家族として過ごしてきた期間が短すぎて、妹としてみえなくなってしまったのが原因だ。だけど、残念ながら可能性はない。解りやすい拒絶が僕に向けられる眼光と口調に出てしまったからだった。

『アンタだけは家族と思ってないから』

 しっかりと見据えられて伝えられた一言はひんやりと感じた。家族での団欒中にこっそりと僕にだけ伝えたのは、冗談と勘違いされる可能性を排除した結果だと言わんばかり。談笑の中そっと席を立ち眠くなったと月並みな発言をしてから、部屋で遊びを開始したのは僕の心を崩壊させないための処置だった。

 あれから数年経った現在の僕は、部屋で過ごすのが大好き人間となり学校から自宅へ直帰しインドア生活を楽しみに時間を使っている。つまるところ子供の頃から部屋で遊ぶのが好きから大好きにレベルアップしたのだった。


 ○


 慣れた手つきで自宅の玄関の開錠をする。中は沈黙。僕とは正反対な両親は自宅にいる時間が短い。二人の出会いは旅先なほど、開放的な性格が正直な行動に出ている両親。旅先で喧嘩をする姿を見るよりかはいいけど、仲の良すぎる二人を眺め続けるのは子供の教育上よろしくない。いや、単純に恥ずかしいから僕は付いていくのを遠慮した。仲の良さを見せるのは、教育の一環なのかもしれないと思ったこともある。あの父親だったら僕と妹の関係性を中和するためだとか適当に云いそうだ。

 親というものは子供がいなくても生きていける。だけど、僕は生きていけるのだろうか? 今回はふらりと一泊二日の旅行ではなく長期だ。母親は旅の日程を一週間とか一ヶ月とか云ってただろうか。結婚十五周年を記念してとかなんとか。理由はどうであれ家事が不得意な僕にとって食料確保は大変困難で洗濯なんてした覚えもない。母親の話を聞いとくべきだったと後悔しても遅かった。手はずは整っているような発言をしていた気がする。父親に至っては旅行先の事しか考えてはなかっただろうけど、母親は何かしら手を打ってくれていたに違いない。

 そう、安堵したタイミングよく二階で物音がした。

 身体の芯から波紋のように寒さが広がる。とっさに傍に立てかけられている傘を手に取った。ゴルフや野球を趣味にしてくれていれば武器を手に立ち向かえるけど、残念ながら楽しみは旅の父親だった。丁寧に靴を脱ぐ。悪さをして自宅へ戻った子供のような足取りで知り尽くした床と階段の軋みを避けて恐る恐る登っていく。気のせいだと思うほうが現実的ではない。建設的かつ安全なのは筋骨隆々な不審者を疑う行動だ。どうやら物音は僕の部屋からしているようだ。息を飲む。僕は勇敢さを隠し持っていたらしく、躊躇いを捨てて激しくドアを蹴った。

「誰かいらっしゃいますかっ!」

 掴んでいた傘に一層力を込めた。

 部屋にいたのは女性だった。

「えっ?」

 無防備な女性がベッドで僕を見て驚いている。

 僕のベッドをうつ伏せに、下着一枚の端麗な女性が絵画よろしく裸体を晒している。だから、僕はしっかりと観た。引き締まった下着破らんばかりの美尻を記憶に焼き付けた。

「あれ? なんで?」

 力みが解れた僕を見て、女性は驚いた顔を険しくさせるとつかつか僕に近づいて云った。

「アンタ女を暴行して興奮する倒錯者? この変態」

 僕の妹、楓花の罵倒は下着一枚で立っていても切れ味最高だった。


 〇


「本性が知れて安心した」

「いや、安心しないで」

「そうね。暴行されるかもしれない」

「…………」

 自分の部屋で何も言えなくなる僕だった。妹の実家でもあるから突然帰省するのはあるとしても、僕の部屋に侵入していたのには驚いた。確執はないけど、部屋を出入りする間柄は遠い昔に終わっていたはずだからだ。タンクトップ姿の妹がベッドを背にして隣に座っているのはトリックに思えるほどに。

「ねぇ」

 隣の楓花は声を発した。誰かに話しかけているようだ。僕しかいなから僕かな。

「何か云うことないの?」

 会話をした覚えも薄れた記憶しかない僕は、雑談というか報告をしてみた。

「父さんも母さんはもういないけど?」

「知ってる」

 きりっ、と云い切られた。

「お父さんとお母さんがいないと帰って来たらいけないわけ?」

「いいえ」

 妹は怖かった。とりあえず、謝っておこう。

「ごめんなさい」

「は? 何を謝ってんの?」

 わわわ。

「とりあえず、謝っておけばなあなあにできるとでも?」

 魂胆がバレていた。柔らかな口調だったけど、昔同じセリフを母親に云われたのを思い出した。

「実は、筋骨隆々な不審者がいると思ってました。ごめんなさい」

 嘘を積み重ねるのは愚行なのを学んでいた僕だった。

「で」

 楓花は促した。

「実際は、どうだった?」

「端麗な裸体女性でした」

 自分自身でも妹に対してなんて発言をしているのだろうと思うけど、経験則からすれば嘘が役に立たないのは明白だ。隣に座っている妹の身体をまじまじと眺める。長髪に艶があって手足は細く長い、肌は潤いのある白さ顔は卵のように丸く小顔と、端麗に嘘はない。

「ふぅーん」

 気のない返事のあと時間が流れる。眺め続けていても妹は動く様子がなかった。

 いつまでこの物が乱雑に積まれた部屋にいるのだろう? 自分の部屋に戻らないのは何故だろう? 僕はベッドを背にして妹らしくない楓花を訝しむ。

 過去話。妹の三者面談に参加した父親が云うには体裁について先生が太鼓判を押していたらしい。品行方正な生徒会長ほど全生徒の規範となる人物はいないし、容姿端麗に成績が加われば大げさに云っていたとしても外れてはいないだろう。妹について記憶ではなく人伝えでしか思い出せないのは度し難いとしても、自宅で何度も見かけた制服姿から想像してみても僕の想像も大差はない。だからこそ、隣にいる楓花は異質と思えてしまう。

 気を許すときはいまではなく一人のときか父親か母親と一緒のときだろう。断じていまではない。妹の中身が僕を騙す不審者とすり替わっていると考えるほうが、納得できる。これじゃ、まるで、僕が家族のようじゃないか。らしくない。

「ねぇ」

 声をかけられてびくりと肩を揺らした。

「制服、着替えたら?」

「あ、お、うん」

 僕の反応を観て、妹は立ち上がり部屋を出て行った。ベッドを眺めると朝脱ぎ捨てられた灰色の部屋着が放置されている。普段なら帰宅したら着用しているはずの衣類。

「…………」

 毎朝母親に起こされ制服に着替えるときのように不承不承に着替え始めた。自身のリズムの乱れを感じながら脱いで着る。どうも居心地が悪い。

「ねぇ」

「ひゃっ!」

 振り返ると妹が壁にもたれて立っていた。

「靴下とシャツ。洗うから」

 衣類が脱ぎ散らかされた床を指して妹は腰をかがめる。

「いやいや、それ」

「は?」

「それ僕がさっきまで身につけてたヤツだから」

「だから?」

 臭いよ、とは言えず僕は黙ってしまった。

「アンタ、家事できないでしょ?」

 楓花は云うと、嫌がる素振りも見せずに僕の衣類を拾った。

「今日の晩御飯はハンバーグ。十九時にはできるから」

 超然と云い切った妹は僕から離れていった。廊下と階段の軋む音を耳にしながら一人になったのを確認して大きく息を吐く。

「いいの、かな?」

 家事ができないとはいえ年下の女性に世話されるのがものすごく、恥ずかしかった。


 ○


「新学期からアタシ退寮して自宅から通学するの。寮の荷物は部屋に運び入れたわ。荷物といっても内部進学のタイミングを選んだから衣類ぐらいだったけど。ここに教材が届くと思うからタイミングがあったらよろしく。

 アンタに家事は期待してないから自分でするつもりよ。仕方がないからアンタのもしてあげる。協力しようだなんて思わなくていい、両立は慣れてるわ」

 ハンバーグを咀嚼しながら話を聞いていた。

「何か云いたいことある?」

 自分勝手に決めて文句でもあるかと訊いているようだった。

「いや、ないよ。それよりも」

「それよりも?」

 少し強い口調で聞き返された。

「ハンバーグ、美味しい」

 お腹が満たされてご機嫌になっている僕だった。

 環境が激変していく話を聞いていて不安を抱いていたはずなのに、香りに釣られて一口ずつ頬張っていくと、なるようになる気持ちが大きくなった。ダイニングで食事するのは定位置というものがあって妹と並んで食事している。

 家事が不得意な僕にとって文句を言える知識はないし、蔑まれないだけありがたかった。母親から妹が帰ってくると聞かされていなかったのは、楓花が自分から話す手はずだっと考える。性急な話になったけど、元々は一緒に住んでいて元に戻るだけなので重要度は高くないのかもしれない。部屋も健在のままで手はかからない。あえて問題があるとすれば妹からみた僕ぐらいだろう。

「母さんのも美味しいけど、こっちが好きかな」

「…………」

 もう一口と思って皿を見たらカラになっていた。

「そう」

「うん。もう、ないの?」

「材料がないわ」

「どこに売ってるの?」

「どういう意味?」

 和らいでいた妹の表情が硬くなった。ややや、これは既製品ではなく手作りのようだ。

「ごめんなさい。買ってきたのかと思ってました」

「そう。アタシには料理は作れないと思ったわけ?」

「はい」

「ふーん。まあ、見せた覚えはないしね」

「ほ?」

「実習でやった程度よ」

「そ、そうなんだ」

「不味いのは当たり前だわ。プロではないもの」

 悔しそうに耳にかかった髪をかきあげた。

 僕は視線を落として、ハンバーグの味を思い出してみる。うん、好きな味。妹が云うのはプロなら誰もが好む味付けができると思っているのだろう。僕にとってはあまり関係のない内容だ。教育の一環で覚えて実践したのなら大したものだった。楓花に不得手なものはないのだろうか。僕はカラになった皿から視線を外した。

「そんなに、気に入ったの?」

 僕の所作を観て、妹は訊いた。

「うん」

「そう。はっきり云うわね。アタシの味付けでいいなら明日は別のを作ってあげる」

 自慢げに語尾を上げて食事を再開する妹。僕は食後の珈琲を口にしながら隣の下半身が下着のままの楓花を凝視する。不得手なものを発見した。でも、何故ここ? いままで妹が淫らな姿を晒していたか記憶を辿るまでもなく覚えはない。いまは上半身は覆われているけど、部屋では下着一枚だった。長髪が上手い具合に前へ垂れていて恥部は隠してくれていたし、僕の唐突の帰宅によっての事故によるものだから羞恥心はあるのではないのかと思っていた。現在をみればそうではないようだ。これが楓花なのだろう。妹が寮へ住むようになってから、接触する機会は減っていたから目撃しなかっただけで実際に両親の前ではこのスタンスだったのかもしれない。そんなはずはない。羞恥を隠すのが不得手なのかもしれない。いや、両立を慣れていると云った妹が不得手があるとは思えない。

 ただ、単に僕をどうも思っていないだけだ。哀しいけど、あれこれ考えてもそうなのだ。僕は居ていないようなもの、そう結論づけられた。それが妹が一つ屋根の下で一緒にいられる対処法なのだ。完全なる空気扱いではないのがせめての救い。家族とは思われなくても温情を僕に与えるのが両親への体裁なのかもしれない。

 楓花が食べ終わるのをみて珈琲を飲み干した。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」


 ○


 玄関を開ける前に、空に一直線の音が流れていた。青い空に僕もよく乗っていた鉄の塊が飛んでいる。今朝も同じようなぼやけた光景を夢でみた。ずっと眺めていたら呼んでもいないのにタクシィよろしく、発着場と勘違いして目の前にやってくると妙な理由をつけて施錠のない取っ手を引いた。

「ただいま」

 学校から帰宅しても母親の迎えはない。数日前から変化はないのに見慣れた白を基調とした自宅が、他人の家に思えたりする。住んでいる人間によって家は形成されるようだ。帰宅したら普段は母親の声を聞いてカラの弁当箱を渡すのがルーチンとなっていたけど、今日はそうではない。

 朝、玄関で靴を履いているとき昼食を購入する予定を立てていたら、声をかけられ渡されたのは温かい弁当箱。戸惑っていると妹に簡素な挨拶をされ送り出された。

 そっとダイニングの扉に近づくと物音がする。初日は不審者を警戒したけど、深呼吸をしてノブを下ろした。

「ただいま、戻りました」

「おかえり」

 中に入ると、キッチンから声が返ってきた。ぱたぱたと近づいてくる足音の主はきりっと目つきで掌を僕に見せた。

「お弁当箱返して」

「はい」

 僕は鞄からカラになった弁当箱を取り出し、エプロン姿の楓花に手渡した。

 しばし呆然とする。赤いエプロン姿が似合う妹だった。白く長い手足が伸びていて衣類を纏っていないように錯覚してしまう。と、黙ったままこっちを見ている妹に僕は一言。

「美味しかった、よ?」

「ふーん」

 つまらなそうに楓花は息を吐いて踵を返した。喜哀楽を僕に見せない妹は今晩の支度をしていたようでレシピ本を壁に立てかけている。視線をずらしたところにエプロン姿の妹。後ろ姿はタンクトップの下着。僕の心を抉る姿をそれでも眺めつつ、制服を着替えるため部屋に向かった。

 脱いだ衣類を洗濯カゴに放り込み自室へ戻った。机、ベッド、ディスプレイ、フローリングに敷かれたマッドにクッションはホテルの一室のように整理整頓がされている。乱雑だった自分の部屋は何処へ。綺麗になっているのはよいかもしれないけど、生活感がなくなった部屋だと毎回そう思って、気づいたら自分の部屋になっているから気にはしなかった。

 ばさり。

 僕の頭に布がかけられた。晴天を歩いていたら水をかけられたような唐突さ。布が顔を包んで充満する香り。慣れない慣れ始めた香り。仮面と思えたそれは赤いエプロンだった。振り向くと僕の弁当箱を持った楓花がいる。

「どうしてこんなことするの?」

「な、何?」

「余計なこと」

「よ、けい?」

「アンタ、昔からそうだった」

 状況から察するに余計なこととは弁当箱を洗う作業だろう。小さい頃ほんの少しの出来心で弁当箱を洗って持って帰ってからずっと続けていた。習慣としていたけど、妹にしたら家事の協力と見なされ、同時に何もしない面目なさもバレてしまったのだろう。

「洗ってたほうがいいのかなって――」

「お母さんが喜んでたから?」

「…………」

「アンタ、アタシに対してずっとお母さんを引き合いに出してるでしょ?」

 楓花は目元と唇をすり潰すように力を込めていた。力に押されて僕は吐露する。

「あ、あの、ごめ――」

「やっぱり」

 僕はとっさに口元を抑えようとしたけど、遅かった。

「いつも謝ってばっかり」

 楓花は云った。

「アタシはお母さんになれない!」


 ○


 課題で時間を潰していると妹に呼ばれて夕食、入浴、就寝と流れ僕は部屋の照明を消して数十分瞼を閉じた。

 ずっと沈黙だった。

 会話は多くなかったけど、会話はしていた。

 環境が違ったのは僕だけじゃなかった。

 凛々しさは姿にしか現れない。内面は揺れていたのだろう。

 気づいてあげられず、支えてあげられなかった。

 僕は、

『アンタだけは家族と思ってないから』

 楓花の兄にはもう、なれないのだ。

 そして、僕はあの日のように瞼を開いてこそこそと身体を起こしてヘッドホンをつけた。

 久しぶりの行動。別段楓花に禁止されているわけではないから、堂々とやればいいのだけれどやっぱり萎縮してしまう。環境が変化しても、変化しないモノが一つだけあった。修学旅行よろしくこっそりと興じるのが自分には合っているらしく、ワクワク感がたまらずついついにやけてしまう。コントローラを持ってぽちりとディスプレイとゲーム機の電源ボタンを押して画面に色が染み渡っていくのを見ていた。やっぱ据え置きゲームは止められない。

「何してんの?」

「ひゃっほっ!」

 一生に一度上げればいいほどの奇声を出した。僕の口から出たのだろう、信じられないけど、出たのだろう。ヘッドホンを肩に落として斜め上をみると楓花がいらっしゃった。首を傾げたら接触しそうなまで近づかれても気づかないとは、集中力を勉学に向けろと言われかねない。楓花は風呂上りらしく、肌がほんのり赤く、髪が一層艶やかになって前へ垂れている。それがいまはよろしくない。髪から雫が伝って白いタンクトップ染み込むと透明化させ肌を露出させている。衣類は変わらないはずなのに、近さと状態が違っていて視線を下ろしたいけど無理だ。大変な事件となる。いや、殺意を含んだ目つきで目下ろされているから別の事件が発生しそうだけど、慎ましやな胸を見ながら僕の胸の内側をどんどん殴ってくる心臓を落ち着かせながら言葉を作った。

「いや、別に、あの、その」

「アダルト?」

「違う違う違う! ゲームゲームです!」

 やっとそこで色の点いた画面を指せた。

「アダルトゲームね」

「違う違う!」

「このゲーム機から発売されているのは規制があって、そういったゲームは」

「知ってる」

「えっ?」

「何故、こそこそしているの? アタシ家事以外は口出してないよね?」

「いや、その、やっぱり。色々やってもらってるから堂々と遊ぶのは面目ないとうか何というか。けど、好きだから止められなくて、隠れてやろうとしてました。ごめんなさい」

「ふーん」

 楓花は思案に暮れることもなく端的に云った。

「じゃあ、口実をあげる。それなら堂々とできるでしょ。アンタが」

「えっ?」

「実はアタシ好きなの」

「へっ?」

「アンタ、ゲーム得意?」

「いや?」

「でも、クリアはできるんでしょ?」

「そりゃ」

「じゃあ、得意ね。アタシ、ゲーム得意じゃないから、ちょっと教えてよ」

「いいけど」

「じゃあ、さっきはごめんなさい」

「ん?」

「怒鳴ってごめんなさい」

「いや、別に……」

 僕は云った。

「気にしてないよ。楓花」


 ●


「帰ったよ」

 帰宅してリビングに入ると、タンクトップにスカート姿の楓花がコントローラ片手に云った。

「おかえり、遅いわ。とっとと着替えてアタシの隣に座って」

「はい」

 自室へ向かいベッドの上に畳まれた部屋着を手に取り、脱衣室で着替え戻ってくると再利用中のテレビ画面にゲームオーバと映し出されていた。クッションを敷いて天井に背を向けて座っている妹の隣に僕も腰を下ろす。楓花は膝を抱えて白い両股に顔をうっぷしていた。自身のプレイスキルの無さに落胆しているのだろう。

 横スクロールのアクションゲーム。ピンク色の愛嬌のあるキャラが物体を吸って吐き出して取り込んで能力を繰り出して進んでいく物語だ。文字で説明するとおぞましく感じるけど、見た目から子供でも楽しめる娯楽タイトルだった。

 声がかけづらい気持ちを察してくれたのかぽつり一言。

「これ簡単って云った」

 簡単なゲームというと酷評を受けるかもしれない。簡単であるから面白くないわけではなく、慣れる速度が早いゲームを僕は簡単だと定義している。けど、慣れる速度も個々違っているわけで不得手な人にとって簡単なゲームはないのだろう。

 楓花はゲームに対して真面目だった。

 攻略本があればその通りになぞるタイプだ。失敗をせずにプレイするのがゲームだと思っている節がある。それも楽しみであるけど、囚われすぎるのはおすすめしない。

「やってみて。難しいから」

 楓花は僕をコントローラで小突きつつ拗ねている。

「うん」

 随分と昔にプレイしたアクションゲーム。単純なシステムですぐに飽きがきてもやり直したくなる中毒性を持っている。愛らしいフォルムのキャラを操作できるのは快感だ。

「ねぇ」

「何、ですか?」

「どうやったら上手くなる?」

「うーん。真面目にやろうとしないとか?」

「ふざけてる? そうしたらクリアできないわ」

「クリアしなくても、いいんじゃないかな?」

「何それ? まあ、とりあえず見せて」

「了解」

 僕はコントローラを握って画面を眺める。自分の手で画面が動くのは何度感じても不思議だ。ウォーミングアップにボタンをかちゃかちゃ押してみる。特に意味はない。

 軽いオープニングが終わった。

 さて、始めよう。

 右ダッシュ。ジャンプ、中ジャンプ。攻撃、攻撃、ジャンプ、ジャンプ。

「ねぇ」

「うん?」

 攻撃、攻撃。攻撃、しゃがみ。飛行、攻撃。ダッシュ、ジャンプ、中ジャンプ。

「移動が速い。どうやってわけ?」

「これをこうして、こっちをこうやって」

「説明になってない」

 ダッシュ、攻撃、攻撃。攻撃、攻撃、ダッシュジャンプダッシュ、飛行。

「ねぇ、ねぇ、って」

「ちょっと待って」

「…………」

 解除、攻撃。攻撃、しゃがみ、コピールーレット。攻撃、攻撃、攻撃、ダッシュ。攻撃連打。

「えっ? 嘘――」

 撃破。

「よ、しゃぁ」

「…………」

 途中から息を止めてプレイして、大きく二酸化炭素を吐き出した。

 くぅ、面白い!

 内容にボリュームはないけど、短時間で達成を得るには最高の容量だ。ロープレだったらやり直すのに時間がかかるから、再度遊ぶとき忘れていたりする。覚えている内に行える単調なやり直しはたまらなく楽しい。

 やっぱりゲームは楽しいぃ!

 さて、さっきとはやり方を変えて、もう一度、と。

「あ」

 また、やってしまった。

 汗が額から滲み出るのをじっくりと感じる。

 隣から黒いモヤになった彼女が云う。

「アンタ、何度目? 無視はひどいよね」

 エンドロールを聞きながら、僕は今晩の献立をよく考えた。


 ●


 ホラーゲームがしたいと楓花が云ったとき、得意分野なのだと思った。僕は想像力が豊かだと恐怖心は倍増すると思っていて、一般のイメージは女性のほうが絶叫して怖がりだと刷り込まれているけど、ホラーゲームは男性が苦手だと思う。現実的か理想的かがカギで、恐怖心に耐性があるのは女性だと勝手に結論付ける。

「ちゃんと掴んでてよね」

 どうしてこうなった。

 学ばないから、こうなった。

 部屋で胡坐をかいた僕の上に楓花が座っていた。クッション化した僕は彼女の胴回りに両手を回して肩越しからディスプレイを見るのが習慣となってしまっている。慈愛に満ちている女性の肌は柔らかくてぬいぐるみのように、よい香りもした。

「始めるわ」

「了解」

 愛でるだけだったらどれだけよかったか。

「怖い怖い怖い!」

「痛い痛い痛い!」

 楓花はゲームをプレイする際、じっとしていない。きちんと掴んでいないとボコスカ殴られる。掴んでいればいいのかといえば、結局は殴られる。プレイキャラと連動しているのか画面と同じ動きをしてしまうようだ。癒しがなければやってはいけない。たまに不可抗力で胸を触っても彼女が怒られた経験はいまのところなかったし、僕が痣だらけになってももちろん謝罪はない。自業自得の僕だった。

 真っ赤な画面を見つめて楓花は冷静さを演技して云う。

「このゲーム体力が少なすぎるわ」

 僕の体力も少ないです。

「回復アイテムを使わないと」

「そんな暇はない」

 震えた声で首を横に振った。メニュ画面のバックパックを埋めていた回復アイテムが可哀そうな発言である。怖かった彼女は捲し立てた。

「画面も固定されてて見にくいし、操作もしづらい」

「それがこのゲームの醍醐味だと思うよ」

「アタシには難しい。面白くない」

「楓花」

「何よ?」

 軽く振り向く、効果音。僕を見る驚いた楓花の顔は可愛いかった。というか、全てが可愛い。普段は凛々しくて近寄りがたいけど、ゲームに興じるときは愛撫してしまう。

「う、うう」

「どうする? 辞める?」

「……、頑張ってみる。教えて」

 コントローラを握り治して画面を見据える彼女には、諦めはないようだ。

「了解。コツは半分逃げてみることだよ」

「?」

 このゲームを端的にいえば、ゾンビから逃げ回る物語だ。けど、逃げ回って安全に徹しても、楓花みたくゾンビを殲滅して安全に進みすぎても攻略は難しくなる。

「始めよう」

「よし。ゾンビを倒して、倒して、次出てくるゾンビは……」

「避けてみよう」

「え、でも……、わかった。わっ、噛まれた」

「止まらず、進んでいこう」

「倒さなくて、いいの?」

「銃弾の節約になるよ」

「倒したら、もう噛まれないけど?」

「回復がいっぱいあるから使えばいいよ。そのゾンビも避けてみて」

「うん。あ、今度は避けれた。避けれるんだ」

「ほら、上手」

「そ、そう? あ、でも今度は噛まれた」

「いいよ。そのまま進もう」

「うん。あ、アイテム。でも、持てない」

「大丈夫。体力減ってるでしょ。回復使って」

「うん。あ、バックパックに空きができた。拾える」

「そそそ。拾ったアイテムを調べてみて」

「あ、これ、もしかして、組み合わせ? わ、できた」

「いいね。そのアイテムを使ってみて」

「あ、開いた。わっ、声。あ、行っちゃった」

「ボックスがあるから、整理してセーブしようか」

「うん。よし」

「進もう」

「イベント? え、うわ。これどうすれば、いや、云わないで。えっ、わ。終わった」

「でも、進んだね」

「進んだ。それに、面白くなった」

「そう?」

「ここで中断。晩御飯作らないと。夜にまたやるわ」

 楓花は機嫌がよく立ち上がると、振り返る。

「ありがとね。晩御飯は好きな献立にしてあげる」

「ホント? うーん。迷うな」

「カレーライス以外ならなんでもいい?」

「えっ?」

 僕を見透かして指で唇に触れながら楓花は云う。

「今日のお昼、食べたでしょ?」


 ◎


「オレのぉ、勝ちだ! 明日の当番はアナタねっ!」

「ぐぬぬ」

 いつもの同じリビングで対戦ゲームを二人でしていたら、主人公のセリフの真似をされた。一人用ゲームなら負けないのに、対戦用ゲームだと僕は楓花と同じレベルだった。せめて初心者まるだしだった頃ならばこんなにも接戦しなかったのに、と言い訳をしてみる。はしゃいでいる楓花を見ていると、悔しさが倍増して懇願した。

「当番は僕でいいから、もう一回、もう一回だけ」

 楓花は優越した声色で云う。

「ふふふーん。しょうがないわね。もう一回だけよ」

「よし」

 チャンスを貰って、コントローラに力を込めたところだった。背後から視線を感じてびくりと、二人で震える。楓花も気づいたようだ。

「何やってんのかな?」

 声がした。重なって僕らは後ろを見る。そこには見慣れない制服姿の二人が乾いた笑みを浮かべて立っていた。

「仲睦まじいのは嬉しいけど、今日は違うんじゃない?」

「お爺ちゃんとお祖母ちゃんのところに行くんだろ?」

「イチャイチャするのは自由だけど、今日は駄目なの解かっているのかな?」

「けど、祭りだろ? 十年に一度の」

「アンタ、莫迦? どうして祭りになるのよ?」

「そう書くじゃん」

「ああ、ともかく」

「ああ、そうだな」

「お父さん」

「お母さん」

 のべつ幕無し口を動かした幼い姉弟は訊いた。

「「いつになったら準備が終わるわけ?」」

「「はい、いますぐ準備します。ゲームで遊んでいて、ごめんなさい」」

 楓花の割増厳しい二人をこれ以上待たせたら、ゲームを独占されかねない。

 そそくさと自室へ向かう途中視界に入る額縁。

 日々子供たちに説教される姿を見て写真の二人が笑っているのではないかと、いつも気が気ではない僕らだった。

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