4.仮面少女と純情少年
橘沙織が学校を欠席してから、すでに三日目になる。未だに沙織は学校にやってこない。しかし、それでも教室も級友達も特に関心を寄せる様子も見せずにそのまま普段通りの学校生活を送っている。もともと目立つことを避けるように教室の中に身を潜めていた彼女である。他の級友達と必要以上の会話をすることもなかった。だから、ほとんどの生徒にとっては教室の風景の一部のようなものだったのだろう。
しかし、大部分の生徒がそうであったとしても、耕平にとって、無関心でいられるほどの存在ではなくなっていた。四日前の、あかね色に染まる学校の中で言った言葉、そして見せた寂しげな横顔と一筋の涙、その翌日からの欠席である。学校にいたらいたで、気になって仕方なかったが、来てないなら来てないで気になって仕方がない。
授業中も、空席になったままの彼女の席に注意が取られて、授業の内容など全く頭に入ってこなかった。その所為でことのほか厳しいことで知られる担任からは「休み前だからって、たるんでるんじゃないのか」と注意されてしまった。
帰りのST後の教室、多くの生徒はあと数日に迫っている夏休みの予定に話しの花を咲かせている。どこに遊びに行くか、彼氏と、彼女との距離を今度こそ縮めたいだとか、やはり年頃の男女が好みそうな話題が多いように感じた。
しかし、放課後の喧噪がこれほど耳に障ると感じたのも今回が初めてだ。
それが勝手な自分の都合から来る苛立ちであると分かっていながらも、そう思わざるを得なかった。
「……まあ良いや、稽古に行くか」
ぼそりと呟くと、稽古着を背負って、騒がしい教室の喧噪から逃れるように部活へと向かっていった。
前半の練習が終わって休憩時間になると、耕平は水分補給のためにウォータークーラーのある体育館前に向かっていった。
水分補給を終えると、はあっと溜息が漏れる。結局、練習にも身が入らない。首にまとわりつく汗をタオルで拭きながらも、少年の頭の中はあれから学校に来なくなった沙織のことでいっぱいであった。
そんな耕平の背中を、誰かがツンツンと突いてくる。
振り返ると、同じく柔道着を身にまとった女子生徒がいた。
「ねえ、武藤セ・ン・パ・イ? あたしも水飲みたいんですけど……、良いですか?」
「ああ、そうだったか……悪い悪い」
慌ててその場をどいて、後輩にゆずる。
後輩は足踏み式の出水レバーを押して、飛び出してくる水をがぶ飲みする。
「ねえ、武藤センパイ……今日のセンパイって何だか変ですよ。練習に身が入ってないし、いつもと違って顔にしまりがないし……」
首にかけたタオルで口元を拭いながら、女子生徒はまるで不思議なものを見つけたときのように上目遣いをしながら耕平を見てくる。
「そ、そうか? そんなことはないと思うんだが」
「へぇー、そう思うんだセンパイは。分かっちゃいませんね」
彼女は耕平の受け答えを聞くや、身体を反転させて背を向けてしまった。
「そりゃあ稽古とは言え、私に投げられてるんじゃそう思いますよ、普通は。んふふ、もしかして何か気になることでもあるんですか?」
半眼にして視線だけを耕平に送り、後輩の女子部員は面白がるように尋ねた。
「なんだよ、その含みのある言い方は?」
「いやあ、もしかしてセンパイって、恋の悩みに取り憑かれてるのかな~って?」
「何言ってんだよ、お前は?」
耕平は軽いチョップを後輩のおでこにみまう。
「ええ? でも、今日のセンパイの顔ってどうみても考え事してる時の顔ですよ。そんなに思い悩むのって、どう考えても恋、恋しかないですよ!」
聞こえるぐらい鼻息を荒くして、いつになく真剣な面構えで力説する後輩に、耕平はたじろいでしまう。耕平には、なんだか後輩が自分の妹と同じように見えてしまった。
後輩の何気ない一言で、耕平の頭に「恋」という単語が何度も木霊するようになった。それと同時に、ここ最近の沙織と過ごした時間、そこで見た彼女の姿が彼を襲うように鮮明に思い起こされていったのだ。
「ああ、もう! 稽古に戻るぞ」
「ああ! 待ってくださいよ、センパイ! 突然何ですか? 私、変なこと言いました? いや、もしかしてその相手って、ものすごく身近な下級生だったりしますか?」
状況が余り理解できていない後輩は早足で武道場に戻る耕平を見て、その後を慌てて追いかけていった。なにやら頓珍漢な事を口にしているが、それに突っ込んだら負けてしまうようにも思え、耕平は敢えて無視した。
「ねえ武藤、ちょっといいかな?」
水飲み場から武道場に戻ろうとした耕平を呼び止めた女子生徒がいた。耕平の急な一旦停止に、柔道部の後輩は対応しきれずに彼の背中に身体をぶつけてしまう。
耕平は、鼻頭を押さえている後輩を先に武道場に帰し、自分を呼び止めた女子生徒を見る。視線の先には、剣道着姿の少女がいた。
「なんだよ、急に。というか昨日もそうだけど、幽霊部員のお前が稽古に出るようになるなんて珍しいじゃねえか」
「何よ、私が稽古に出てきちゃいけないっていうの? まあ、ちょっとした心境の変化があってね……。それよりも、ちょっと相談があるんだけどさ」
「なんだよ、早めに頼むぜ」
本当なら、自分の心の中のもやもやが消えない現状で、人の相談に応じたくはなかった。だが、今話しかけてきた少女は元クラスメートだったし、性格もよく知っている。そのため、少しの間だけ話を聞くことにしたのだった。
二人は並ぶようにして立ち、体育館の外壁に背中をもたれさせる。
「それがね、赤堀のこと何だけどさ……、武藤も知ってるでしょ? 昨日、うちの学校で起こった事件。授業の時、体育館から出て行くところ、私も見ちゃったからさ」
「知ってる。で、あいつが疑いをかけられたんだろ? たく、タイミングが悪い奴だよな。それで、その事件が何なんだよ?」
「あいつ、結構落ち込んでるんじゃないかなぁ、って思って。きっと濡れ衣だと思うんだ、あたしはね」
深く溜め息を吐いて、女子生徒はつぶやくような抑え気味の声のトーンで話す。
そんな彼女を、耕平は横目でチラリと見る。彼女の顔にはどこか悔しそうな、悲しそうな、複雑な感情が入り混じっているようにも見える。普段はやる気が感じられないほど表情に乏しい人物なのだが、彼女を見ていると、沙織と比較すれば考えていることが顔に出やすいように思えた。
「何だ、普段は赤堀に冷たいってのに、随分と心配をしてるんだな?」
「べ、別にそんなのじゃないわよ! あいつは確かにエロ魔神だけど、そういうことはする奴じゃないから! あいつがスケベ野郎を通り越して変態に見られるのは嫌なの!」
何気なく返した返事に対して、ムキになって反応する女生徒。それは(気が進まないが)相談に乗っている耕平が面食らう程のすさまじいものだった。
一体、普段のやる気のなさそうな態度は何なのだろう。
「と、とにかく! 要するに、どうやったら赤堀を元気づけてあげられると思うか? ってことを相談に来たの! それだけなの!」
恥ずかしそうに俯きながら話す彼女を横目に見て、耕平はどうしたものかと思案した。様子を見る限り、彼女は本当に彼を心配しているのであろうが、
「俺に聞いてどうすんだよ、そんなこと。心配だったら本人に直接会った方が早いだろ?」
「無理よ、いつもあたし、あいつに冷たくしてるもん……。でもね! あいつだって駄目なんだよ! 去年も一緒のクラスだって言うのにあたしの入ってる部活を間違えてるのよ、ちょっとひどくない!?」
拗ねたように口をとがらせて愚痴っていたかと思うと、急に思い出したように激しく不満をぶちまける。やる気がなさそうな癖に、不満をぶちまけるときだけはまるで別人のように激しくなる、それが彼女の特徴だ。
この時、沙織のように何を考えているのかが顔に出ないタイプも困るが、このような感情の起伏が激しい相手も骨が折れる、と耕平は思った。
「分かった、分かったから落ち着けって。そりゃ確かにひどいな。けど、あいつの力になってやりたいんだろ? だったら行ってみろよ。あいつはエロ魔神かどうかは分からないけど、馬鹿じゃないから。人の気持ちを無碍にはしねえよ、きっと」
「……ほんとに? 適当なこと言ってるんじゃないでしょうね」
まだ信じ切れていない様子の彼女は、半眼で耕平を見ながら尋ねてくる。
だが、その顔は心なしかほんのりと赤くなっているようにも見えた。
「そうじゃなかったら友達はやってない。まあ時々は勘弁して欲しいと思う時があるけど」
耕平は自信ありげに胸を張りながら、疑い半分の状態でいる同級生を見る。もっとも、内心は芝居がかっているような気がしてくすぐったかったが。
「……うん。じゃあ、やってみるよ。そうじゃないと何だか他の人に先を越されちゃうかもしれないしね。ありがとね武藤。じゃあ、あたしは稽古に戻りますかね、うん!」
しばらく愚図っていた少女は、気持ちが落ち着いてきたのだろうか、頬を両手で二、三回叩いて気合いを入れると、そのまま武道場へと戻っていった。
耕平は彼女の姿が見えなくなると、地べたに座り込んで空を見上げた。
「あーあ、何やってんだろう。人のことをどうこう言ってられる立場じゃねえのに……」
自分で自分に呆れかえって愚痴をこぼす耕平の頭の中では、昨夜の洋子の言葉が魚の骨のように引っかかっていたのだった。
*
耕平は、橘沙織の家の前に立っていた。結局、練習にも身が入らず、顧問に頼んで部活も早退してきてしまった。まだ、日もようやく傾きかけた程度の時間帯だ。
しかしかれこれ家の前に仁王立ちになって十数分。耕平は立ちつくしたまま動けなかった。昨夜の洋子の言葉に促されるように見舞いに行こうと思って来たまでは良かったが、良く考えてみれば、相手は同性ではなく異性の、しかも年頃の女の子である。いきなり連絡もなしに押し掛けて大丈夫なのだろうか。今頃になって、彼女の言ったことが女子一般に通用することなのか不安になってしまう。
そう考えると呼び鈴を押して良いものなのかどうか、どうしても迷ってしまうのだ。
呼び鈴に人差し指を近づけては引っ込める、という動作を何度も繰り返していると、玄関が開く音が耕平の耳に飛び込んでくる。その音に慌てて顔を上げると、若い女性が顔を覗かせていた。最初は母親かと思ったが、それにしては随分と若く美人だ。
けれど、見た目は派手な感じであるが、普段顔を合わせている沙織とどことなく似ている顔立ちにも見える。
「……どなたかしら? 家の前にずっと立ってたみたいだけど」
やはり見られていたようだ。このままなにも言わずに立ち去ってしまうと、余計に誤解を受けかねない。
「あ、あの! 俺、橘沙織さんと同じクラスの武藤って言います。橘さんが、最近学校に来てなくて、ど、どうしてるのか気になって、様子を聞きに来たんです」
「あら、何でそんなに緊張しなくていいわよ? 君のことは学校でも見てるから」
「そ、そうですか? え、え? 学校で顔を見てるって……」
「やあね、じゃあこれなら判るかしら?」
女性はバッグから眼鏡ケースを取り出すと、ごく自然な動作で不格好な黒縁の眼鏡をかけてみせる。
「え? せ、先輩?」
「ふふふ、ビックリした?」
狐につままれたように立ちつくしている耕平に、女性は悪戯っぽく微笑む。
「ほら、そんな所に立ってないでせっかくだから、顔を見に行ってみたら?」
女性は耕平の腕を掴んで家の中にまで引っ張り込んでしまった。
「え? あの、先輩? ちょ、ちょっと待って」
「ほらほら、そもそもお見舞いに来たんでしょ? だったら顔を見ていかないと意味無いじゃないの。あたしは用事があって出掛けようとしてたところだから助かったわ。あ、沙織の部屋は階段上がって左手にある部屋だから。じゃあねえー」
耕平の言葉を最後まで聞かずに、一方的に告げて女性は玄関を出ると鍵を閉めてしまった。まるで、帰るなよ、とそう言っているみたいにも見える。
「なんだか、変なことになったぞ。だけど、このまま帰るわけにもいかねえし。……ていうか先輩、学校の時と雰囲気が違うような気が……」
玄関を上がって、直ぐ目の前にある階段をじっと見る。この先に沙織が寝ているんだと思うと、すこし心臓の鼓動が早まってしまう。行って良いのだろうか。
たどたどしい動作で靴を脱ぐと、家に上がってそのまま階段に足をかけた。
家に上がり、二階まできた所までは良かった。しかし、部屋の前まで来る頃には耕平の身体はガチガチに緊張してしまっていた。ドアノブを見る限り鍵は取り付けられていないようである。しかしどうやって、いや、そもそも入って良いのだろうか? 年頃の女の子の部屋に。家の前以上に、入るのをためらってしまう。けれどもさっきの女性が帰ってくるまでこっちが勝手に帰ることはできない。逃げ場を塞がれて、もう選択肢は残されていない状態だ。
タチの悪い罰ゲームを受けているような気持ちで、耕平は控えめに部屋のドアをノックした。すると、部屋の主のか細い声が聞こえてきた。
「……お姉ちゃん? 出掛けたんじゃないの?」
返事をすべきか、せざるべきか、それが問題だ。
「あ、あの、た、橘」
「……武藤君? どうして部屋の前に?」
返事をしてしまってからとても後悔した。当たり前だが、同級生が突然家の中にいて、しかも自分の部屋の前に立っている。年頃の少女にとっても、また少年にとっても異常な状況である。怪しまれたり、軽蔑されたりしてもおかしくはない。
とはいえ黙って突っ立ているままであったら、それこそ不審人物である。とにかくどうしてこのようなかたちになったのかを彼女に伝えなければいけない。
「上手く説明できないけど、呼び鈴押そうかどうか、家の前に立って迷ってたら、突然玄関が空いたと思ったら、お姉さんに捕まってさ、んでもって……家に上げられた」
自分で言っていて最悪である。何の説明にもなってない。こんなときに自分の語彙の貧弱さというか、説明の下手さ加減がイヤになる。穴があったら入りたいという言葉もあったが、耕平は今まさにそんな気分だ。
「とりあえず、入って。鍵はついてないから」
「え? 何て言ったんだ」
耕平は思わず唾を飲み込んだ。心臓の鼓動の速さは頂点に達した。
そして、数秒躊躇した後、深呼吸してドアノブに手を掛け、沙織の部屋に足を踏み入れた。
初めて見る沙織の部屋は、寝込んでいるためか室内灯がつけられていないため薄暗い。しかし、それでもゴチャゴチャと部屋に色々詰め込んでいる耕平と京子の部屋とは違い、綺麗に整頓された部屋だ。象牙色の壁紙に包まれた部屋は独特の落ち着きと安らぎを与えてくれるようにも思えた。
部屋の隅に置かれた本棚が目にとまり、遠目から覗いてみると、演劇に関する本や、小説が綺麗に整頓されて収めてある。共用の本棚の大半を占有して、少女漫画などを雑につっこんでいる妹に見せてやりたいと思ってしまうほどだ。
余り女の子の部屋を物色するのも良くないと思い、耕平は沙織が横になっているベッドに歩み寄った。ベッド脇の窓からは、窓ガラスとカーテンを通して斜陽が差し込んできて部屋の中に柔らかな光を送り込んでいる。窓も少し開け放され、かすかに風が入り込んできている。夏場であるせいか、部屋が蒸し暑いので小さな風であっても心地良く感じた。
耕平は、タオルケットにくるまり、濡れタオルを額に乗せている沙織の顔を覗きこむ。熱があるためなのか、顔は上気していて、呼吸も少し苦しそうだ。
「……お見舞いに、来てくれたんだ」
「お、おう、心配だったからな。けど、家まで来たら気が引けちまった。何か弱ってる所ってあまり人に見せたくねえもんなんじゃないか? って。それよりも女の家に上がるのも何だかなって思って」
「そうしてたら、お姉ちゃんに見つかって連れ込まれた。そんなところ?」
耕平は黙って首を縦に振った。
「よかったじゃない。おかげで私の顔も見ることができて……。正直、あの時は怖かったんだ、次の日に学校で武藤君の顔を見るのが。だから風邪ひいた時は正直少しホッとしたの。でも、その後は何だか寂しくなって……」
「まあしゃべるなよ、体力使うから。それに声に障るだろ? 演劇部なんだから、声は大事にしろよな」
それ以上は聞いてはいけないのでは、聞かない方がよいのでは、と感じた耕平は彼女の言葉を遮り、額から濡れタオルを離すと、冷水に浸し、絞って彼女の額の上に置いた。
「じゃあ、一つだけ聞かせて。何でお見舞いに来ようと思ったの?」
耕平は答えに窮した。男友達同士なら冗談で誤魔化したり、口汚く言ってもお互いにどうとも思わずにいられる。しかし、異性に対してはそうはいかない。いつもぞんざいな言葉を使っていた自分が情けなく思ってしまった。
しばらく考え込んだ後、重々しく口を開き、精一杯の返事をした。
「有り体に言っちまうと、あんなこと言っておいて、あんな風に涙見せといて、三日も顔見せないのが我慢ならなかった。あとは……」
「……あとは?」
「何か、最近の橘、結構楽しそうにしてたし」
「嘘よ、教室での私を見てるでしょ? 変わってないはずよ、私。存在感のない、透明人間みたいじゃない」
「透明人間? ひょっとして、あの時の事を気にしてるのか?」
透明人間、その言葉を聞いて思い当たることがあった。耕平と沙織が一年生の時の体育大会でのことである。最後の種目であるクラス対抗リレーに沙織は出る事になった。もっとも、当初は予備のメンバーとしてであったのだが、出場する女子が一人欠けたため、出ることになったのだ。
その対抗リレーは見事優勝できたのだが、その時に活躍したのは、一位になれた最大の功労者は橘だったはずだ。それは第一、第二走者と序盤で一位と大差をつけられて二位のままでいたのを取り戻すような素晴らしい走りを見せていたからだ。彼女のおかげで、最終走者は、一位になれたようなものであった。少なくともリレーを見ていた耕平にはそう思えた。意外に思えるほど運動が出来る彼女を少しだけ感心したものだ。
けど、彼女は何故か見向きされなかった。皆が注目したのは、最終走者の女子だったのだ。だからといって、特に級友から疎まれていたわけでもない。けれど、関心を寄せてくれる人がいなかったのだ。
勉強が出来ないわけでもない、ましてや運動音痴でもない。色々なことが器用に出来るのに、だけど、そういうところを見てくれる人がいない。そう評価してくれる人がいない。まさに、透明人間のような存在だ。それは辛いことなのかもしれない。
「それはね。でも、部活終わった後に見る橘は違って見えたよ。それに、橘は気付いてないと思うけど、いい目をするようになってるよ。昔の頃の、どっかで無理してるような感じとは違う。……橘に、ああいうこと聞かされるまで分からなかったけど……、だからクラスでも、もう少し色々と見せても良いんじゃないのか? きっと、他の奴らはビックリするだろうぜ」
「無理よ。私をしっかりと見てくれる人はいないもの。正当に評価してくれる人も」
「んなことねえよ。そんなくだらねえことなんか忘れちまえ。橘は、去年の体育祭でも、六月の球技大会でも活躍してたじゃないかよ。リレーの時も俺が言ったじゃねえか。良くやったって。お前は見かけよりもずっと色んな特技があって、色んな可能性があって。相手がどう自分を見てるかなんて、勝手に決めんなよ。そんな思いこみで自分で自分を見せるチャンスを潰すなよ」
部屋に思い沈黙が訪れる。何かまずいことでも言ってしまったのか、酷いことを言ってしまったのか、女心に疎い少年にはかなりきつい空気だ。このまま逃げ出したい気持ちにかられてしまう。
「ねえ、武藤君。あの時のこと、憶えてる?」
「あの時? あの時って、いつの時だ?」
今度の問いかけは、少年には全く思い当たらない。
「ヒント。私と武藤君が人間関係を構築できたのは高校に入ってからです」
耕平は必死で志向を回転させる。
「ヒント其の二。つい最近の、私との出来事を思い出してください」
耕平は考えた。
部活後に会うことが多い。
一緒にラーメン屋に行った。
変に哲学じみた、仮面だとか、人間心理だとかいった話を聞かされた。
――仮面。
耕平は、ふと仮面という言葉に引っ掛かりを覚えた。仮面というのは、表の顔、見せかけの顔、何かの役割から来る顔。全部、本当の自分じゃない。そう橘沙織は言っていた。
――君は本当の自分って何だと思う?
少年に過去の記憶が甦ってきた。
あれは一年の三学期。もうテストも終わり、後は春休みを待つのみとなった、とある日の教室でのことだった。
その日、耕平は期日になってもある書類が未提出であったため、教室に伸されていた。
其の書類とは、二年に上がるに際して選ぶ類型の希望である。
生徒は二年生から文系、理系を選択しなければならない。また、文系はさらに進学先に合わせたクラス選択が必要となる。しかし、国公立志望にするか、私立大学志望にするか。耕平は決めかねていたのである。
両親は金のことは心配するなと言っていたが、自分の家庭では私立大学の学費を捻出するのは困難であることは少年には分かっていた。しかし、自分の成績で国公立志望のクラスに入ったとして、はたして勉強について行けるかも不安であった。
そんな、あれか、これか、を選べないで悶々としている中で沙織が先の言葉を投げかけてきたのである。
「三学期の時、本当の自分って何? みたいなこと言ってたやつか?」
沙織は小さく頷いた。
「ようやく思い出したのね。それで、武藤君はそれからどうしたの?」
「それを俺に言え、っていうのか?」
そんなことは言うまでもないことのように少年には思えた。
今、耕平が所属しているのは国公立志望のクラスである。あの一言を言われた後、自分の気持ちを見直して、覚悟を決めて国公立志望を選択したのだ。結果は、勉強に何とかついて行けてる程度であるが。
「もう大変さ。稽古もして、勉強もして。何でこんなの選んだのか……、そんなこと思ったこともあったけど。今は、自分で選べたことが良かったと思っているよ。何となく、流されるように決まっちゃったら、もっと後悔しただろうし」
「そう。よかったね……」
相づちを打つ沙織の声は、どこか寂しげに聞こえた。
「いや、でもあれは橘のおかげなんだぜ。あの言葉で俺はちゃんと自分で決められたんだ。体育大会の時も凄い奴、って思ったけど。あの時はもっと本当に大した奴だって思ったんだ。今まではすげえ地味な奴、気にならない奴、しか思ってなかったのに、だから…………ありがとな。橘」
沙織は急に寝返りを打ち、耕平から自分の顔を隠した。
再び空気が重くなる。何かまたまずいことを言ってしまったのか。
少年の心に緊張の糸が走った。
「嬉しい、やっぱり君は私のこと、見てくれていたんだね」
重たい沈黙の後、沙織はこの重苦しい緊張をほぐすような黄色い声を発するとともに、むくっと身体を起こし、顔を覗きこむようにして前屈みになっている耕平の首に抱きついた。お互いの耳と耳がくっつくぐらいきつく腕を巻き付けて抱き寄せる。
抱きつかれた少年にはたまったものではない。
首に絡みつき、もたれかかってくる沙織からは、甘酸っぱい香りが漂ってきた。それだけで少年の理性は吹っ飛びそうになった。
「……ねえ、この状況で何もしないわけ?」
「馬鹿なこと言ってるなよ、風邪なんだろ? 病気で弱ってる子に手を出すかっての。それって最悪だろ」
「やっぱり、君は私の見込んだとおりの男の子よ。何か、縄で縛ってあげたいくらい……」
「へ? な、縄?」
明らかにこの場の雰囲気に似つかわしくない単語を耳にして、耕平はすっとんきょうな声を上げた。
「粗野に見えて、酷いことはできないし、義理堅いし、情に篤い。君って、本当に可愛いわ。君みたいな忠誠心の強い人、欲しかったんだよね。だから、今の君になら、武藤君になら、本当の私を見せても大丈夫かな? なんて思ってたの。それに、君は自覚してないかもしれないけど、今年、また一緒のクラスになったときから、チラチラと私の方を見てたでしょ?」
そうだっただろうか? あまり自分の行動を自覚しながら生活していないのでいまいちピンと来ない。
「い、いや、ちょっと待て! あんまりくっつくと風邪が移るし、それに病人が布団から起きあがるなよ。寝てろ!」
「平気よ。もう風邪なんてひいてないもん」
そのセリフに、耕平の身体が硬直する。「何だって?」ともう一度彼女の口から真実の言葉を聞こうと尋ねた。
「だから風邪なんて、昨日で雄介ったの。でも、昨日も見舞いに来なかったでしょ? ちょっと悔しかったんだもん。それよりも、どうだった? 信じちゃった?」
正直に言うと、見たときは演技だったとは思えなかった。けれど、冷静になってみれば、今こんな風に抱きつかれたままで、それほど体の熱さを感じないというのは不自然な気がする。今沙織の身体から伝わってくる匂いも、考えてみると汗の臭いとは違う。妹が風呂に入って頭を洗って出てきたときの匂いと同じだ。しっかり風呂で身体を流していたと思える。
もしかして、罠に嵌められたのでは? そんな考えが少年の頭をよぎった。そして、人の心配する気持ちを利用されたことに憤りを感じ始めた。
「人騒がせなことしておいて、演技も何もねえだろが! 俺は帰るからな!」
「だーめ、帰さない!」
耕平の言葉を聞いた途端、沙織は全体重をかけて少年をベッドに押し倒した。二人分の体重が乗り、マットが沈むのにあわせて薄いブルーのシーツにシワが寄り、ベッドの弱いスプリングが何度も軋む音をたてた。
柔らかな重みが耕平の上半身にのしかかってきた。そんなに重くないので振りほどくのは簡単だ。でも、それを女相手にやるのはどうも気が引けてしまう。
「おい、やめろよ。これはいくら何でもまずい! 家の人が帰って来たらこの状況をどう説明するつもりなんだよ」
「平気よ。ねえ、お姉ちゃん?」
耕平が首を起こすと、彼の目にはさっき玄関で見た、派手めな女性が、色っぽく胸の下で手を組んで楽しそうに二人を見つめていた。いやな予感が耕平を襲う。
「せ、先輩? で、出掛けたってのは、嘘だったんですか?」
「い、一応は家の外に出たから、嘘ではないわよね……うん。それにこれから本当に出かけるから」
沙織の姉は、きまりが悪そうに頬を掻いた。どうやらグルだったようだ。
部屋の入り口に突っ立っていた姉が、ベッドで重なっている二人にゆっくりと歩み寄っていく。それだけで耕平は恥ずかしさと、息苦しさで逃げ出したくなった。
「武藤君ごめんね。沙織は見ての通り普通のアプローチが出来ない変な娘だから、妹のためにちょっと一肌脱いであげたのよ。でも、君のことが好きなのは本当だから。だから、その、沙織のこと、よろしくね」
正直、家族にまで見られてしまって、これでどう返事をしろというのだろうか。もう少年に残されている選択肢は一つしかなかった。
「は、はい。頑張ります」
「はあー、可愛いなあー」
うっとりしながら、耕平の顔に頬ずりする。何か変わった嗜好を持っているのではないかという恐怖心が耕平の心に刻み込まれる。いや、でもこれはまた彼女の悪ふざけの演技なのかもしれない。
「せ、先輩! 妹さんには変な趣味は無いですよね?」
「ど、どうかしら? 姉妹でも、さすがにそう言うプライベートなところまではねぇ」
沙苗は関係のない方向を見ながらはぐらかすような受け答えをする。
「どうだろーねー」
「くそ! 一体、どこまでが本気で、どこまでが演技なんだよ?」
やけっぱちになって、天井を仰ぎ見ながら自分にのしかかっている少女に尋ねる。すると少女は身体を起こして、少年を自分の体重から解放し、見下ろすような形で彼の顔を覗きこむ。
その顔は、耕平が今まで見てきた橘沙織の、どの顔よりも、活き活きとしていた。
「武藤君は、どっちだと思う?」
ムキになる少年をからかうように、沙織は質問に対して、質問を返した。
――仮面って、もしかして……。
耕平はふと思った。今までのことも、全部演技だったのではないか? 教室で空気のような存在を演じきることも、自分の気を引くために、わざと自分の前で変な言動を取ったり、仮病で学校をずる休みすることも、全部。
誰かの興味を引くために、また、好意を持っている相手と関係をつなぎ止めるために。そう考えると、彼女は仮面を被ってしか、自分と関係を持とうとしたのではないか? だとしたらまだ素顔のままの沙織ではないということになる。だが、それも推測の域を出ない。本当のところは何も分からない。けれど、それが少年の好奇心をかえって刺激することになった。
耕平は少しの間、目をつぶり、深呼吸をしてその両眼でしっかりと、自分に覆い被さっている少女を見返して、自分の気持ちを打ち明けた。
「いいよ。そっちがその気なら、こっちも橘の仮面を剥いでやるよ。本当の橘の顔が見えるまでな。もういやです、なんて言っても絶対に許してやらねえから、覚悟しろよ」
耕平が力強く宣戦布告すると、少年を見下ろす沙織はとびきりの笑顔で彼の言葉を迎え撃った。
「うん、これからもよろしくね! 武藤君」
その笑顔を、押し倒されている少年はいつまでも見つめていた。
武藤耕平のエピソードは以上です。次回からは別の登場人物の話になります。