1.不思議な同級生
「よーし、今日の稽古はこれまでだ! 終わるぞ」
顧問の声に合わせるかのように、部員達が神棚に向かい合うように一列に正座をする。
数十秒の黙想の後、正面に向かい静かに礼をする。
礼を終えると、神棚の方を向いて正座していた顧問が、部員と向かい合うように座り直すと部長の「お互いに、礼!」という声が武道場に響く。後を追うように十代の少年達が持つ張りのある声が武道場に響く。武道場内に掛けられた時計は七時五分前を指していた。最終下校時刻を大幅に遅れて柔道部は本日の稽古を終えた。
この柔道部に所属する高校二年生の少年、武藤耕平は全身から吹き出す汗をタオルで拭きながら開け放されている窓から武道場の外の景色を眺めていた。
一学期も残りあと僅かになった七月の放課後、大分陽が落ちるのが遅くなったとはいえ、もう辺りは夕闇に覆われている。三年生が引退してから、部員は現在二年生三人と一年生五人(うち女子は二人)のみになってしまった。三年生がいたときには活気があったのに、今では部活の体裁をかろうじて保っている程度だ。
これから秋には新人戦が控えている。それまでに一年生を試合が出来る状態にまで育てていかなければならない。とにかくやらなければならないことは多い。これからは自分たちが上級生として後輩の面倒を見ていかないといけない。けれど、そんなことができるのか、不安はつきない。
後片付けを終えて、武道場の施錠を終えた耕平が沈みかけた太陽をボーッと眺めていると、向かいの体育館から出てきた女子生徒が彼を見て声を掛けてきた。
「武藤くん、今帰り?」
「そういう橘こそ、随分遅いじゃないか」
「いいの、私達演劇部は。練習が何よりも大事なんだもん」
そう言うと演劇部の橘沙織は両腕を真っ直ぐに挙げて力一杯に伸びをした。
それにあわせて野暮ったく二束にしたセミロングの髪がさらりと流れ、セーラー服の上着の裾からは水色のアンダーシャツが顔を出して、耕平の目に飛び込んでくる。耕平は目のやり場に困り、横目で沙織を見た。しかし沙織は特に気にした様子はない。それが少年にとっては何だか異性として意識されていないような気持ちになって面白くない。
「練習とか言って、ほとんど部員がいねえじゃねえかよ」
「おあいにく様、六人もいれば十分に演劇は出来るのよ。まあ、多ければそれに越したことはないけどね。さ、鍵を返しに行きましょ」
最近は部活の後に沙織と鉢合わせになることが妙に多い。教官室にそれぞれの施設の鍵を返しに行くときも――意識しているわけではないがついつい並んで歩いてしまう。
まさか、自分に気があるのでは?
そんな考えがよぎったこともあったが、クラスにいるときも、登校中に見かけても基本的に声を掛けてくることはない。
「ふう、お腹すいちゃったね。ねえ武藤君、お金持ってる?」
「いきなり何てことを聞いてんだよ」
「やだなあ、カツアゲなんてするわけがないじゃない。ねえ、持ってるんだったら何か食べに行かない?」
「いいけどよ、何処に行くんだよ?」
「ふふふ、着いてきてよ」
楽しそうに微笑みながら、沙織は早足で歩き出した。
*
沙織に連れられてやってきたのは学校からそれほど離れていないところに店を構えている中華料理店だった。ボリュームの多い料理で男子高校生や大学生に評判がよい店である。耕平もよく部活の先輩に連れてきて貰ったことがあったのでこの店のことはよく知っていた。
直ぐ隣のカウンター席にすわる女生徒をちらりと見る。男だらけの空間にちょこんと、華奢な体つきの女子高生が座っている。いつもとは異質な存在がそこにあるというだけに自然と周囲の視線も彼女に集まってくる。
「ここだったのか? 行きたかった所って」
「そうよ、変かな?」
当の少女は楽しそうな顔で壁に貼り付けられている品書きを吟味している。
「別に、ここはなかなか美味しいし。……けどよ、女子高生が帰りに寄るのってこういうとこじゃなくて……」
「あの、チャーシューメンお願いします!」
張りのある元気の良い声が店内に聞こえる。
「言ってる側からそれかよ? 人の話を聞けよ」
耕平は少女をジッと見る。しかし、当の彼女は自分にいぶかしげな視線を送る少年を見返して「で、さっきの話しの続きは?」と軽く受け答えした。
「いや、だから普通女子高生が帰りに寄るのって、アイスクリーム屋だとか、ファーストフード店とかじゃねえの? ってことだよ」
「えー? ラーメンが好きな女子高生がいても良いと思うけどな、私は。アイスってお腹に悪いし、ファーストフードは太りやすくなっちゃうし」
程なくして二人が注文した品が運ばれてきた。耕平は思わず自分の前に置かれているラーメンと、隣の沙織の前に置かれたラーメンを見比べる。どちらも同じ並み盛りのラーメンであるが、大きさも、スープのかさも、麺の量も、のっている具も、明らかに他の店の大盛りぐらいはある。
「太るとか言うけど、このラーメンだって似たようなもんだろ? 後で残りは食べて、なんて言ってもお断りだからな。注文した物はきちんと自分で食べなきゃ駄目なんだからな」
何度も念を押すように、沙織に言い聞かせるが、沙織は特に気にした様子もなく割り箸を綺麗にまっぷたつにして、麺をスープに絡ませて、チュルチュルと可愛らしい音を立てながら食べ始めた。
……。
「ふうー、おいしかったー。あのお店、一度行ってみたかったのよね。女の子だけじゃあ入りづらいから助かっちゃった。ありがとね、武藤君」
ご満悦な顔の橘沙織は、振り返って数歩分後ろを歩いている耕平に礼を言った。
「おまえ、どんな胃袋してるんだよ?」
耕平にはすぐ近くを歩く少女が何か別の人種に見えた。普段少年が教室で見る、女子達が食べている弁当の量はとても少ない。何が入るのかを聞きたくなるような小さな弁当箱、申し訳程度のご飯、話題もダイエット関係が多い。そこから、女の子は小食である、というイメージが少年の中に作られていたからだ。
「栄養が必要なのよ、私には。演劇って、文化部になっているけど結構ハードなのよ。ランニングもやるし、筋トレもあるし。だからついついお腹減っちゃうのよね」
「限度ってもんがあるだろうが。食い過ぎっていうんだよ、お前の場合は」
ぶっきらぼうな返事をしながら、耕平はあのとんでもない量のラーメンをいとも簡単にたいらげた少女を見た。どこにそんな食欲があるというのか。普段教室で見るクラスメートの少女の別の顔を少しだけかいま見たような気分だ。
学校近くの商店街を抜けて、閑静な住宅街をひたすら二人は歩いている。その間、特に会話はない、こういう場合は男である耕平が何か場を和ませるために話を振るべきなのだろうが、よく話す異性が母親や妹しかいない彼にとって、それは酷なことであった。
結局、話しもろくにしないまま、四つ辻にさしかかってしまった。ここを東に折れたところに耕平の家――アパートはある。本来ならここでそのまま、ハイさよならといくところなのだが、今日の耕平はそういう考えにはならなかった。目の前の、ちょっと変わった女の子のことをもっと知りたくなった。もうちょっとだけ一緒にいたくなった。
「なあ橘、今日はもう暗くなっちまったし、お前が良かったら家まで送ろうか?」
思わず口にしてしまったが、すぐあとで後悔した。クラスメートとはいえ、それほど親しいわけではない女の子に、家まで送るなど、いくらなんでも不自然ではないか。断られるかもしれない、ヘタをすれば下心丸出しだと言われて嫌われるかもしれない。そんな後ろ向きな考えしか浮かんでいなかった耕平の耳に、意外な言葉が返ってきた。
「うん、じゃあお言葉に甘えさせて貰おうかな。途中で変なおじさんに襲われてもイヤだしね。……ほら、早く行こ。あたしん家、あっちだから」
呆然と立ちつくす耕平を、招き猫みたいに手招きする沙織。正直自分の考えていた答えと正反対の返事に耕平は当惑したが、自分が言い出したことなので仕方なく連れ添って歩くしかなかった。
*
真っ暗な人通りの少ない住宅街をひたすら歩き続け、ようやく橘沙織の自宅にたどり着いた。二階建てのシンプルなデザインの一軒家であったが、小さいながらも庭があるし、二階にも広いベランダがある。借家暮らしの耕平には全く縁のないものだ。もちろん、ゴチャゴチャとしているが今の家もそんなに不快なわけではないし、気に入ってもいる。ただ、時々こうやって一戸建ての住宅を見るとそこでの暮らしに憧れを抱いてしまうのだ。きっと彼女も自分の部屋があって、食卓も丸いちゃぶ台じゃなく、テーブルクロスの掛けられた大きな物なのだろう。
「送ってくれてありがと。じゃあ、武藤君も気をつけて帰ってね」
「お、おう。……なあ、橘」
「ん、何?」
「おまえって、こんなにしゃべる奴だったか? 中学の時もあんまり目立たなかったし、クラスでもどちらかというと周りと群れないし」
「何言ってるの? そんなの、君がそういう風にしか、周りがそういう風にしか私を見ていなかったからじゃないの。だから意外に見えてるだけよ。
人はね、必ずお互いに仮面をつけてるものなの。古代ギリシアの劇も、役者はみんな仮面をつけてその人物を演じるのよ。だから、観客は役者本人ではなくて、演ずる人物として、また自分が望む役割を演ずる人物としてその人の仮面を見るの。だから、私も役を演じるのよ」
「……そんな寂しいこと言うなよ」
「あら、本気にしちゃった? 冗談よ」
ふふふ、と微笑むと沙織は玄関を開けて家の中へと消えていき、通りには耕平一人だけが取り残された。